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第7話 狼とつがうこと
帰宅すると服を剥ぎ取られ、そのまま風呂場に連行された。一人で大丈夫だと何度言っても「ダメ」のひと言で俺の動きを封じ、真っ裸の俺を洗い始める。
最初に洗われたのは頭だった。指の腹で丁寧に洗う感触に気恥ずかしいやら居たたまれないやら複雑な気持ちになる。体はこれでもかと泡立てたソープで、これまた丁寧に指の間や足の裏まで洗われた。
されるがままの俺の前には、シャツを着てズボンの裾をまくり上げただけのジンがいる。俺だけ裸なうえに子どもみたいに洗われているのが恥ずかしい。それなのに、ジンの手つきがあまりに優しくて段々とうっとりした気分になっていく。
(母親とも違うし、こういうの何ていうんだろうな)
丁寧に優しく、それでいて余計なものはすべて取り除くんだというような意志を感じる動き。
(……そうか、毛繕いか)
もしジンが本当に狼だと言うのなら、これはきっと毛繕いに違いない。余計な男たちの匂いを消すために、そうして自分の匂いをつけるために行う仲間へのグルーミング。
ふとそんなことを思い、何を考えているんだかと心の中で笑ってしまった。
「カグヤ、拭くからおいで」
シャワーが終わると、大きなバスタオルを広げたジンが俺を呼んだ。さすがにそこまではと思ったが、ジンの真剣な眼差しに負けてしまった。
ゆっくり近づき、恥ずかしさに俯いたまま体を預ける。そんな俺の体をこれまた丁寧に拭ったジンが、バスタオルで包んだ俺の手を引いてソファへと連れて行く。
「髪も乾かすから、ちょっと待ってて」
「もういいから」と言おうとジンを見上げたが、やっぱり真剣な眼差しに何も言えなくなった。そんな俺にジンは「はい、水飲んで」と言ってコップを手渡してきた。
(本当に至れり尽くせりだな)
気恥ずかしくなりながらも、喉が渇いていることに気がついて一気に飲み干す。
それを待っていたかのように、背後に回ったジンがドライヤーのスイッチを入れた。冷風の心地よい風と髪を梳く指の感触に自然と頬が緩む。子どもみたいな状況は気恥ずかしいだけなのに、相手がジンだと思うとこのまま身を委ねていたくなるから不思議だ。
「……ん、カグヤだけの匂いになった」
気がつけばドライヤーの音は止まっていて、ジンの吐息がうなじを掠めていた。クンと鼻を鳴らす小さな音が聞こえる。
あの男たちと同じことをされているのに、相手がジンだと不快感も嫌悪感もなかった。それどころかうなじに吐息を感じるだけで体の奥に妙な熱が生まれる。
「カグヤ、いい匂い」
そういえば、ジンはよく俺の匂いを嗅いでいる。首筋やうなじ、耳の後ろ、それに脇や臍もだし、シている最中は股間の臭いを嗅がれることもあった。
さすがにそこはやめてくれと注意したが、ふわりと笑いながら「つがいの匂いはいつだって確認しておきたいんだ」と言われるとなぜか拒否できない。
(まるで本当に狼みたいだよな)
狼がそういう習性を持っているのか知らないが、少なくとも人間は匂いを確認したりはしない。それにクンクン鼻を鳴らすのは、いかにも獣っぽい感じがする。
嗅いでいただけのジンの鼻先がうなじに触れ、吸いつくようにチュッとキスをした。それだけで背筋がジィンと痺れ、体の奥がじわっと熱くなる。股間がムズムズしてきて欲を吐き出したくなる。
「匂いがどんどん強くなってる。……ねぇカグヤ、したい?」
「……っ」
匂いで俺が考えていることまでわかるんだろうか。
たしかに俺はいま、ジンに匂いを嗅がれていることに興奮している。うなじに吐息を感じるだけで体が熱くなるのは、きっと条件反射みたいなものだ。
「したいんだよね?」
ジンの低く静かな声に鼓膜が痺れる。こんな昼間からなんてどうかしている。そんな爛れた生活は間違っている。そう思っているのに俺の体はどうしようもなくジンを求めていた。
「ジン、」
「わかってる。カグヤ、ベッドに行こう」
(名前呼んだだけでわかるのかよ)
そんな悪態のつきたくなるのは、体が熱くなっているのを誤魔化したいと思ったからかもしれない。
「ん、んっ、も、噛むなって」
「んー……ごめん、今日はちょっと無理。マーキングしないとって本能、止められないんだ」
「イ……ッ。こら、噛みすぎ、って、……ッ」
「ごめんね」
強く噛まれた乳首を、今度は舌でねっとり舐められて体が震えた。
最初に噛みつかれたのは首筋だった。それから鎖骨、肩、二の腕、胸の辺りに移ってからはひたすら乳首に噛みついてくる。
最初は少し歯を立てるくらいだったのが、段々と痛みを伴うものに変わってきた。噛みちぎられるんじゃないかと思うくらいの強さで、だから思わず文句が出てしまった。
(痛いのか違うのか、段々わからなくなってきた)
痛みにビリッと背中が痺れていたのに、舐められると腹の奥がゾクッとすくむ。
「も、やめろって、」
「ダメ、もう少し」
「ちょ、ジン……ッ! マーキング、とか、もう大丈夫、だから……ッ」
「ダメだよ。だってカグヤはこんなに魅力的なんだから、また誰かが汚い手で触れようとするかもしれないでしょ?」
「んなこと、あるわけ、ないだ……ッ」
腫れぼったい左の乳首をカリッと前歯で噛まれて言葉が詰まった。べろりと舐めたあと、乳首に唇が触れそうな距離でジンが俺の言葉を否定する。
「そんなことある。今日だって、一度に三人もの男が群がってた。俺が間に合わなかったらどうなってたかわからなかった」
「ん、なの、今日が、初めて……ッて、だから噛むなって! それに、こんなこと、そうそうあるわけ、ないだ……ぃ、ってぇ!」
今度は右の乳首に思い切り噛みつかれた。そうして前歯を根本に当てたまま、舌で先端を転がすように舐 られる。
噛まれた直後だからか、舌が前後左右に動くたびに体がヒクヒク震えた。背中がひりつくように痺れて体の芯がゾクゾクし始める。思わず身をよじろうとしたが、ジンに押さえつけられていて頭を振ることしかできない。
「それは、いつも俺が念入りにマーキングしてるからだよ。だからこれまでは大丈夫だった」
「マ、キング……?」
「そう。たくさん舐めて、噛んで、それから体の奥に俺の精子をたくさん塗りつけてたからね」
あまりの言葉に一瞬言葉を失った。だが、言われてみれば心当たりがある。
(ビーチに行く前日、やたらシようって言ってたのはそのためか)
昨日だってそうだ。シャワーから出ると抱きつかれてベッドになだれ込んだ。いつもと違って一回で終わったのは俺が寝不足だったからだろう。そういえば中に出された量もいつもより少なかった気がする。
代わりに胸や背中に噛みつかれたり吸われたりした。今朝胸を見てキスマークとは思えない惨状に眉をひそめたが、あれはマーキングだったってことだ。
「狼のマーキングは、人間にも多少なりと効果があるんだ。でも昨日は量が少なかったから心配だった。案の定、カグヤのフェロモンに汚い男たちが群がった」
男たちのことを思い出しているのか、上半身を起こしたジンが不快そうに目を細めている。その目が灰褐色ではなく琥珀色に見えるのは気のせいだろうか。
「思い出しただけでもムカつくなぁ。やっぱり股間だけでも潰しておけばよかった」
「……物騒なこと言うなよ」
「だってカグヤに押しつけてたんだよ? そんなの許せるはずないでしょ。それにあちこち匂いを嗅いだりしたんだろうし、鼻もへし折っておけばよかった。……もしかして、体触られたり、ほかにも何かされたりした?」
ジンの目がますます細くなった。
「ねぇ、もしかして何かされた?」
「……背中とか、胸、撫でられたくらいだよ」
「でも、大したことないから」と言いかけて声が詰まった。俺を見下ろす冷たいジンの眼差しの変化に気づいたからだ。
琥珀色の虹彩が白目まで広がり、全体が金色に変わっている。中央で爛々と光る黒い瞳孔はやや小さく、まるで本物の獣の目のようだ。
「触られたの?」
「あ、いや、ちょっと撫でられただけだ」
本当はねっとりと撫で回されたんだが、それを口にしてはいけない気がした。言ってしまえば大変なことになるに違いない。
「でも、触られたんだよね?」
獣のような目に見据えられて体がすくむ。さっきまであんなに熱くなっていた体がわずかに強張った。
「そっか、あいつらそんなにカグヤに触ったんだ。……やっぱり殺しておけばよかった」
つぶやかれた言葉にゾッとした。抑揚がない声に腹の底がスッと冷たくなる。俺に覆い被さっているのが誰なのか一瞬わからなくなり、慌ててそばにあったジンの腕に触れた。
「カグヤ?」
俺の名前を呼ぶ声はいつもと同じなのに、やっぱり別人に見えた。こんなジンは知らない。このジンは俺の知っているジンじゃない。
「ジン、もういいから」
俺の知っているジンは穏やかで優しくて、ふわりとした笑顔が似合う男だ。
(いつものジンに戻ってくれ)
気がついたらそんなことを思っていた。いや、いつものジンに戻さなくては。そう思いながら触れたジンの腕をギュッと掴む。
「カグヤ?」
「もういいんだ。俺が油断してたのが悪かったんだ。これからは十分、気をつける。だから、もういいんだ」
「でも、俺は許せない」
真っ黒な瞳孔がきゅうっと縮まった。まるで獲物を狙う大型犬のような目に見えて、つい「いいから!」と声を荒げてしまった。
「いいんだよ、ジン」
「でも」
「あいつらはちゃんと警察が、人間が罰を下す。だからおまえは何もしなくていいんだ。あんな奴らにジンが関わる必要はない」
「だけど」
「それに、俺はあんな奴らのことなんて忘れたいんだ。覚えていたいとも思わない。だから、ジンが忘れさせてくれ」
「カグヤ……」
ジンの目が少しだけ見開かれた。
「マーキングして、忘れさせてくれるんだろ?」
「カグヤ」
目は琥珀色のままだが、眉がほんの少し下がる。これは困っているときの顔だ。ようやくいつものジンに戻ってくれたんだとホッとした。
「あんなどうでもいい奴らのことなんて考えなくていい。それに、ジン以外の匂いなんて付かなくすればいいだけの話だ。そのために……その、マーキングすればいい」
ジンの眉が情けないほど下がっている。
「……はぁ。カグヤには敵わないなぁ」
声も話し方もいつものジンに戻った。そう感じる俺がおかしいのかもしれないが、なぜか無性に「俺のジンだ」と思えた。
「知ってるか? そういうのを惚れた弱みって言うんだよ」
冗談めかしてそう言えば、ジンが「ははっ」と微笑む。
「そうだね。俺はカグヤさえいてくれればいい。腕の中にカグヤがいて、俺のことだけ見てくれて、俺だけを好きでいてくれればいい。それがすべてなんだって思い出した」
「じゃあ、問題ないな」
「カグヤ?」
「言っただろ? 俺は好きな奴とは添い遂げたいって思ってるって」
ニヤリと笑うとジンの目元がわずかに赤くなった。
「その顔、ずるいよ。かっこいいのに可愛いなんてずるすぎる。しかも添い遂げたいなんて、本当にどれだけ可愛いんだか。……愛しすぎて、いつか食べてしまうんじゃないかって怖くなるよ」
「ジン?」
最後のほうがうまく聞き取れなかった。「いま何て」と言ったところで唇を塞がれ、結局聞き返すことはできなかった。
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