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第3話
バイト先でも連絡先を聞かれることがある。相手はお客さんだから断るのは簡単だ。もし困るようならきっとマスターや美弥子さんが助けてくれるだろうし、一度待ち伏せをされたことがあったが常連のお客さんが守ってくれたこともあった。本当にこの店は温かく、俺にとって気の休まる憩いの場だった。
ほとんど夏のような日和の日曜日、開店して間もなく楓さんが来店した。
「いらっしゃいませ!」
「おはよう。今日は暑くなりそうだね」
今日もカーディガンを羽織っている楓さんは汗なんて知らないという顔をしているがそれなりに暑いらしい。俺は楓さんを席に案内するでもなく、お気に入りらしい窓際の席に向かって歩く楓さんの後について行った。
「全然暑そうに見えませんよ。涼しい顔に見えます」
「まだ朝だからね。でもホットコーヒーを頼むのはそろそろ最後かなぁ」
椅子に掛ける瞬間、ほんの少しだけふわっと良い香りが漂った。甘いような、爽やかなような、微かな香りを一瞬感じただけなのにやけに印象に残る。なんの香りだろう。こんなに美しい人が選ぶ香水は一体どんな物だろう。素朴にも思えるシンプルな装いの彼が香水を付けているという事実に、楓さんは一気に洗練された大人として俺の目に映った。
「楓くん早いね、何か食べるかい」
キッチンから聴こえたマスターの声にはっとした。何のために俺はホールに立っているのか。
「そうですね、トーストセットにしてください」
マスターに問い掛けられた楓さんは俺を通り越して直にキッチンへオーダーした。俺はそのやり取りをオーダー票に書き込むだけだ。次のお客さんが来るのではないかとそわそわしながらピッチャーの水をコップに注ぐ。そして取って置きの話題を持ち出すために颯爽とお冷を提供した。
「楓さん、傘戻ってきましたよ!」
先週楓さんが忘れていった傘を取り違えたお客さんが後日わざわざ傘を返しに来たのだ。楓さんに丁寧に畳まれていた傘はあの時よりは綺麗な形ではなかった。
「本当? わざわざ持ってきてくれたの?」
あの日楓さんは驚くくらいあっさりと傘を諦めていた。その傘がまた戻ってきたところで大きな関心はないものだと思っていたのに、涼し気な目はぱっと開かれた。
「これですよね?」
すぐに傘を示すとはぐれたペットと再会したかのように嬉しそうな表情を見せた。やっぱり大切にしていた物だったのだ。
「確かにこれです、ありがとう。戻って来るなんて思わなかった」
「今日は忘れないでくださいね。晴れてるから注意しないと」
「うん、気を付けるね」
大人っぽい微笑みではない、純粋な笑顔だった。格好いいとか、優しそうとか、賢そうとか、モテそうとか、そういうのを全部吹っ飛ばして可愛いと思わせるような、そういう表情だった。
たったそれだけのやり取りで俺は完全に楓さんに懐いた。今までは見たこともない綺麗な人に対して興味が湧いただけだった。他のお客さん達と同じく、遠くで眺めてたまに言葉を交わせたらラッキー、くらいに思っていた。それが楓さんの意外な一面が見えたことで急激に仲良くなりたい欲が高まったのだ。もっとこの人を知りたい、自分を知ってもらいたい、友達になりたいと心が疼いたのだった。
「楓さんはよく来てくれますけど近くに住んでるんですか?」
他にお客さんがいない今、俺はチャンスとばかりに話し掛けた。楓さんにも特に嫌がる素振りはない。
「そうでもないよ。こっちの方に用があるからいつも帰りに寄ってるんだ」
座った状態でこちらを見上げる楓さんは真っ直ぐに俺の目を見て話す。濃い色の瞳は目力を強くさせるらしい。なんだか考えを見透かされそうな感じがして少し落ち着かない。
「まだ九時ですけど、今日も用事を済ませてきたんですか?」
「うん。いつもはもっとゆっくりなんだけど今日は早く来ちゃった」
日曜の朝九時までに済む用事とは一体なんだろう? 歯医者? 犬の散歩? ラジオ体操? 俺はこの時間のシフトに遅刻しないようにするのにも必死に早起きしているというのに、やっぱり楓さんはきちんとした人なんだなぁ。
「こんなに早く何の用があるんですか? めちゃくちゃ早起きですよね」
「朝って気持ち良いじゃない。今日は特に天気も良いし、得した気分だよ」
また可愛げのある笑顔で返された。結局の何の用があってこんなに早く出掛けているのかはわからないけれど、そんなことよりも楓さんとの会話を続けることを優先したい。
「確かに散歩するには持って来いな天気ですね。この辺は景色が綺麗だから歩いてるだけでも気持ち良いですよね」
「そうそう、春は桜がたくさん咲くからお城のあたりも綺麗だし、山の方も綺麗だし……」
静かに話す声はとても耳に優しくて、言葉遣いも優しくて丁寧でずっと聴いていたいと思わせる穏やかさだ。会話の内容もただの世間話なのに、話し相手が楓さんというだけで胸が弾むのだから俺は相当この人を気に入ってしまったのだと思う。
他愛のない会話を続けている内に次のお客さんが来店し、楓さんのトーストが焼けた。そのままいつもの賑やかさが出て来て楓さんとゆっくり話す時間は終わってしまった。そして退店の際に傘を掲げて見せてくれた笑顔には今までとは違う親しみが感じられ、また楓さんに会える日が待ち遠しくなった。
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