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第5話
甲斐が帰った後でどうしようもない喪失感に襲われた。普通に暮らしているだけなのに、どうしてこんな思いをしなければいけないのだろう。いくつも空いた穴を避けてきたのに、うっかり大きな穴に落ちてしまった。
俺はやっぱり、まだダメなのだ。
久し振りに打ちひしがれて目に涙が滲む。理不尽でぶつけようのない感情を持て余した。こんな時俺はどうしたか。これが初めてじゃない。もっと酷い時もあった。そんな時俺はどうやって乗り越えたか。
必死になって記憶を辿った。一番辛かったあの時、誰にも頼れなかったあの時、何かが俺を支えてくれた。せめて誰かに話だけでも聞いてほしくて俺は縋る思いで帰路を歩いて、それで目に入ったのが……
「神様……」
ライトアップされた白い像だ。あれが神様なのか何だったのかは今もよく知らない。それでも神様に近い人なら手を差し伸べてくれるかもしれないと、何も考えずに扉を開いたのだ。
そうだ、あの時俺を救ってくれたのは神父様だ。また教会に行けば神父様が話を聞いてくれるはずだ。
俺は食器の後始末を放り投げてそのまま家を駆け出した。アンセムの裏の丘を登れば教会がある。宗派や何かはわからないが大きな教会だからきっと神父様もいるはずだ。頭はぼさぼさだし、部屋着も同然の恰好だけど、またあの大きな不安に飲まれないように俺は急いで教会へ向かう。
いつものバイト先を通り過ぎて階段を駆け上がると屋根の天辺に掲げられたシンボルマークが見えてきた。もう少しだ、もう少しで教会に着く。
そうして階段を登りきると清涼な空気の中に大きな教会と白い神様の像と、楓さんがいた。
「あれ、君は……?」
青空の下で見る楓さんは太陽に照らされて髪はより黒く、肌はより白く輝いていた。この世の穢れをまるで知らないような人が教会の敷地を踏んでいる。彼がこの場にいることに何の説明も必要ない。
「こんなところで、どうしたの?」
楓さんはまさかこんなところで俺と会うと思っていなかったのだろう、戸惑った顔をしている。俺としても知り合いに会うとは思いもよらず動揺したが、ここにいるなら教会について知っているであろう。俺は楓さんに思い切って尋ねてみた。
「あの、俺、神父さんに会いたくて来たんです」
不躾な申し出にも関わらずなおも楓さんは驚いているが丁寧に教えてくれた。
「今ミサが終わったところでこれから勉強会だと思うよ。きっと今日は忙しいだろうからもし会いたいなら事前に約束した方がいいかもしれない」
「そうなんですか……」
俺はその言葉に落胆した。教会というものについて何も知らないがいつでも誰でも受け入れてくれるところだと思っていた。実際に過去にはたまたまふらっと入って話を聞いてもらったことがあるから今度も余計に期待していた。だけど、実際は違うらしい。現実は違うらしい。
「……もしかして何か困ってるの? 顔色が良くないよ」
不意に覗かれた瞳に力が抜けた。なんでも見透かしてしまいそうな黒い瞳に心の中まで覗かれているみたいだ。なんでもいいから縋りつきたい、そんな気持ちを見透かされているみたいだ。どうしよう、でも、吐き出してしまい何もかも、だけどまだ楓さんとは出会ったばかりで
「おいで」
困惑し表情のまま楓さんに腕を掴まれた。涼し気な顔をした楓さんにも体温があることを知った。
肘を掴まれ、引かれるままに木漏れ日の中を歩いた。爽やかな暑さの中一歩進むたびに冷静を取り戻した。先を行く楓さんが心配そうに振り返る度に現実に戻されていく。
「大丈夫?」
何度目かに振り返り楓さんは足を止めて向き直った。その頃には俺の気持ちは落ち着いていた。
「あ、いや、すみません、俺、少しどうかしてたな……」
笑って誤魔化そうとするがまだ楓さんが腕を離してくれないことから彼に強がりは通用しないことが伝わった。まだ、大丈夫じゃないみたいだ。
「アイスでも食べようか。今日は暑いでしょう?」
子供を励ますみたいにして楓さんは近くのコンビニでアイスを奢ってくれた。考えてみれば俺は財布も何も持たずに家を出ていた。鍵すら持たずに、何をやっているんだろう。心配して付き添ってくれた甲斐にも申し訳無さを感じる。
「まだ風は涼しいね。気持ちいい」
木陰の散歩道の手すりに腰掛け楓さんはアイスの袋を開けた。コンビニで買ったアイスなんて食べるんだな、と思いながら楓さんが小さな口を開くのを眺めた。チョコレートでコーティングされたバニラアイスにほんの少し齧りつく。推し量るように白い歯を喰い込ませて血色の良い唇を触れさせた。
「……アイスとか食べるんですね」
俺は買ってもらったアイスのことも忘れて楓さんを眺めていた。見ていて何も不快にさせない彼のすべてが俺の心を落ち着かせてくれた。
「変かな? これ美味しいんだよ」
ようやく一口齧った楓さんは笑って見せた。もはや定番商品とも言えるアイスを珍しい物みたいに味わう姿が新鮮だった。
「外で食べると美味しいね。早く食べないと溶けちゃうよ」
促されてようやく自分のアイスの袋を開けた。楓さんと同じアイスだ。少し柔らかくなったアイスはすぐに溶け出して手元を汚さずに食べるのが難しかった。
「ああ手についちゃった」
「あはは」
はしたないと思いながら指に垂れたバニラアイスを舐めると楓さんの口の端にチョコレートがついていることに気付いた。まるで隙が無いような人でもやっぱり人間なんだなと当たり前のことを思った。
「笑ってるけど楓さんもついてるよ」
「え、嘘」
きょとんと目を丸くして唇の端から舌先を覗かせた。唾液が光る舌がすぐにチョコレートを舐めとった。白い肌に赤い唇目立つ。そこにそっと這う舌が妙に目についた。大して暑がってもいないのにその舌は熱っぽく見えたのだ。
「……美味しかった?」
木漏れ日のコントラストが強くなった頃、楓さんは優しく聞いてくれた。言うまでもなく、冷たくて甘いミルクの味とバニラの香りは今まで食べたどんなアイスよりも美味しかった。多分この先もずっとこのアイスを食べる度に今日の優しさと景色を思い出すのだと思う。それくらい身に染みた。
「大学、楽しいんだけど時々疲れるんですよね」
「……うん」
「俺はただ友達と楽しく遊んで、それでそのうち好きな子とかできたらいいなってちょっと期待してるだけなんです」
「うん、いいじゃない。学生ってそういうものでしょう?」
どこかで蝉が鳴き始めている。丘の下の公園から小さな子供がはしゃぐ声がする。今は木の葉がさわさわ擦れてる音と、楓さんの相槌だけが近くにある。なんでも見透かす黒い瞳がこちらを見ている。バイト先で何回か会っただけの相手に俺は勝手に心を開いている。距離感がおかしいとわかるはずなのに、どうしてか楓さんにはなんでも話していいような気持になってしまう。あんなに信頼しているマスターにすら話したこともない、一番仲の良い甲斐にも話したことのない少しだけ心の奥に隠した感情だった。
「……でも、うまくいかないんですよね。友達とか先輩のこと、汚いって思っちゃったり、気になる子ができても、怖いって思っちゃったり……なんか俺変なんですよ」
多分楓さんもいきなりこんなことを打ち明けられては困るだろう。考えてみれば改めて自己紹介すらしていない。その証拠に俺は楓さんに一度も名前を名乗っていない。
それでも拒否されないだろうという妙な自信があった。この人になら打ち明けてもいいと、勝手な信頼を寄せていた。
「何か嫌な事があったの?」
ああ、ほらやっぱり。楓さんは過度に感情移入しないにしても寄り添った態度を見せてくれた。決して面倒な気持ちを前に出さず、悩める若者の相談に乗ってくれるのだ。なんて人が良いのだろう。
「嫌な事、うーん……」
楓さんの質問にうまく答えられず足元に視線を落とす。今になって素足にスニーカーを履いていることに気が付き無性に違和感を覚えた。
ふたりの身体の間を涼しい風が吹き抜けて熱くなっていた頭が冷めていた。俺は何度も何度も言葉を練り直して口に出した。
「……俺、変に潔癖なところがあって、そのせいで気になる子といい感じになっても……急に無理になっちゃうんです」
言葉を選んだ結果、俺は好きな子にビビッて手が出せなかった童貞になってしまった。声に出してみるとなんとも些末な悩みだが、言葉を尽くして語るよりは苦笑される方がよほどましかもしれない。だって俺たちはただのバイトと客の仲なのだ。それもたった数回会っただけの顔見知り程度の関係だ。
「……誠実でいることって簡単じゃないよね」
この人はやっぱり優しいな。きっと楓さんの目には憐れな童貞大学生として映っているだろう。それが取り乱して教会に駆け込もうとしていたのだとしたらもはや俺は楓さんにとって未知の生き物に見えているかもしれない。それでも笑い飛ばさずに付き合ってくれるのだからこの人は本当に優しいのだろう。
「楓さんは誠実そうです」
憐れに思われることはこの際仕方がないがやっぱり恥ずかしかった。せっかく付き合ってもらっているが話題を変えさせてもらう。
「誠実でいるように努めているけど、実際は誘惑が多いよね」
喫茶店に行くだけでもあれだけ人の目を奪う人なのだ、俺には想像もつかないくらいモテるのだろう。楓さんのような人でも遊びたいと思うのだろうか。俺は喫茶店でコーヒーを飲んでいる姿しか知らないが、他ではどんな風に過ごしているのだろう。きっと素敵な彼女がいて、他の人からもアプローチされて、ちょっと心が揺らぐような日々を送っているのだろう。俺はまだ楓さんがアンセムと教会に通っていることしか知らない。楓さんはどんな風に恋愛をするのだろう。
そんな久し振りの感情に自分自身で驚いた。
「誘惑って浮気しちゃいそうってこと?」
口にして胸に不快な感覚を覚えた。知りたくないのに強がったのだと、後から気付いた。もしも楓さんが誰かを弄ぶ浮気性だったとして俺は次にどこへ向かって走ればいいのだろうか。じっとりと汗が滲む。
しかし楓さんは意外そうな顔した。
「浮気?」
俺は深堀りしたくないと思いつつ勢いに任せて続けた。
「楓さんでも彼女がいるけど他の人も気になる、みたいなことありますか?」
「え……? それは……考えたことなかったな……」
楓さんは俺の質問が本当に想定外だったのか、口元に手を当てて困った顔をした。その反応に俺は肩の力が抜けた。目の前の人を軽蔑しなくて済んで良かった。
「仕事とか、勉強とか、そういう方で考えてた。ええと、」
「え、なんで!」
完全に恋バナの方向だったはずなのに、どうして急に仕事や勉強の話になるのだろう。
「恋愛に対して潔癖って言うから譲れない理想像みたいなものがあるのかな、と思って……。目標を達成したいのに誘惑に邪魔されて落ち込んでるように見えたから、自分の立場で置き換えてみたんだけど、ずれてたみたいだ。ごめんね」
「いいんですいいんです! よく考えたらそんなに悩むことじゃないから!」
言葉足らずの俺の発言でここまで考えてくれているなんて思いもしなかった。だけど確かに楓さんの言う通り、自分の中にある理想と現実のギャップに苦しんでいるのが現状だ。誰も傷付けずに恋をしたいのに相手に触れたい気持ちがそれを阻む。ただしそれはごく自然な感情であり、俺の特殊な気質のために叶わないだけなのだが。
多分このままではどうしたら彼女ができるかについて教えを乞うことになってしまう。浮気も思いつかないような誠実で格好いいお兄さんに彼女の作り方を教えてもらいたい気持ちはないわけではないが、それは今ではない。今その話題を真剣に話せば話すだけ俺の大学デビュー失敗童貞大学生感が深刻に思われてしまう。改めて冷静さに欠いた自分を恥じた。と同時に冷静にさせてくれたこの偶然に感謝した。あのまま教会に駆け込んで空振りに終わったのだとしたら俺は今でも取り乱したままでいただろう。偶然にも会えた人が楓さんで良かった。
「楓さんは教会に来るついでにうちの店に来てたんですね」
今度は俺から楓さんを見つめた。楓さんは眉を下げて微笑んだ。
「そう、ミサの後に寄ってたんだ」
「今日も行くところだった?」
今はもうランチタイムできっと美弥子さんと奥さんが試験前で休んでいる俺の分も忙しくホールを駆け回っているだろう。それを思うとこれから店に行こうとは誘えなかった。
「うん、だけど今日はアイスを食べたからもう帰ろうかな」
楓さんは少しだけ首を傾げて笑った。覗き込むような瞳に擽られているような気分になる。俺の失態を揶揄うにしてもこれはわざとやっているのだろうか。確かに気持ちは軽くなるのにむずむずとした感情がせり上がる。
「あの、もし時間があれば一緒にお昼どうですか? アンセムは多分混んでるから別のところに!」
さてアンセム以外にどこへ行こうかと考える。このあたりはランチでもなんでも店選びには困らない。楓さんと行くなら静かで落ち着いた雰囲気のところが良いだろう。それなら俺も大人っぽい服を着て……
「いいよ、どこに行こうか」
「あ、やっぱ、ちょっと待って……」
素足に感じる不快感がストップを掛けた。そうだ今日の俺は辛うじて洗顔と歯磨きを終えただけの起き抜け状態なのだ。着ているのはよれよれのTシャツと部屋着にしている高校時代の体操服だし、湿気にやられた頭はぼさぼさで日焼け止めも塗っていない肌はもちろんすっぴんだ。シャツのボタンを一番上まで止めた寝癖とは縁が無さそうな美男子とこんな夏休みのがきんちょみたいな俺が一体どんな店に行こうというのか。
「俺こんな恰好なの忘れてた……今さら恥ずかしくなってきた」
せめてそばかすを見られたくなくて手で顔を隠す。本当に今さらだけどそうしないではいられなかった。
「大丈夫、恥ずかしくないよ。お昼は何が食べたい?」
「しかも俺財布も持ってないや、あ、ていうか家の鍵も掛けてないんだった……」
失態に次ぐ失態に俺の気持ちはどんどん萎れていった。とはいえさっきまでの絶望感とはまるで毛色の違う笑ってしまえる失敗話だ。
「え、鍵はまずいね」
「まずいですよね……」
完全に解散の流れだ。どうにかしてこの機会を逃したくなくて一生懸命目で訴えようと思うのだけど、俺の目に映る美しい姿と楓さんの目に映る今の自分の姿を考えると静かに歯ぎしりする他なかった。
「はあ俺って馬鹿」
「そんなこと言わないで。また今度行こうね」
楓さんが腰掛けていた手すりから離れて立ち直る。優しく励ましてくれる声はまるで背を撫で、頭を撫でてくれるような心地良さだった。
今日はスマホも持っていない。連絡先の交換ができない。
「俺ってほんとばかあ」
「そんなことないってば」
楓さんは面白そうに笑い、アンセムの前で分かれるまで一緒に歩いてくれた。
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