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第8話

 夏休みはバイトと部活の合宿くらいしか予定を入れていなかった。暇な日に甲斐や他の友人たちと過ごした。これまでとは違い、あの一件を知る友人たちから女の子がいるようなイベントには誘われることはなかった。気を遣わせて申し訳ないと感じる反面、余計なストレスを感じなくて良いのでとてもありがたい。何よりもその後も男だけの集まりには声を掛けてくれるのが嬉しかった。  部活の合宿は毎年恒例のもので、県内のスポーツ施設付きのホテルで行われる予定だ。日程は二泊三日と立派だが、練習試合があるわけでもなく、ハードな練習が待っているわけでもない。ほとんど思い出作りがメインのようなものだ。部員はみんな仲が良く、好きにバレーもできるのだからきっと楽しいに違いない。俺はこの合宿を楽しみにしていたが、納涼会のようなことが起きないとも限らない。また楽しい雰囲気を台無しにすれば今度こそ腫物扱いされてしまう。そうなればまた俺は……。 「あーやだやだやだ!」  悶々と天井を睨みつけていると良くない感情が胸に渦巻く。無理やり振り払うために大きな声を出しながらベッドから飛び起きた。気付けば夕方は終わり夜になっている。バイトも何もない一日を悶々と悩んで消費したらしい。ぐちゃぐちゃになったタオルケットも、じっとりとした肌も、空腹なのに食べる物がないのも、無駄に過ごした時間も、全部が気に入らない。ひとつも問題が解決しないまま問題がどんどん増えていくみたいですごく窮屈な感じがした。  涙が滲みそうなくらい惨めな気持ちが込み上げるが、涙よりも前に腹の音が鳴った。 「お腹空いたぁ……」  時刻はまだ十九時。アンセムはまだ営業している。俺は急いでボディーシートで身体を拭き、バイト先へ向かった。  陽が沈んでからは風が心地よかった。夏の匂いは湿っているが土や草の匂いが多くて澄んでいる感じがする。どこかから笑い声がするのはきっと近くで宅飲みでもしている学生の声だろう。このあたりは俺が住んでいるように学生が多い。空を見上げるとまだうっすらと明るいが主役は太陽から月に代わっていた。なんでもない夏の夜が俺に寄り添ってくれるみたいだった。 「なあに光くん、珍しいじゃない!」  ドアを開けるとホールに出ていたマスターの奥さんの明るい声が飛んできた。こんな時間にアンセムに来店するのはバイトを始めてからは初めてだった。店に来るまでの道のりもいつもと同じなのに夜というだけですごく懐かしく、新鮮な感じがした。 「お腹空いちゃって」 「あらあら、それじゃあしっかり食べなきゃね!」  奥さんのいつもと変わらない対応にほっと気が抜けた。明日もバイトで来るというのに奥さんは何も言わない。それがとても居心地が良い。  夜は昼ほど混むことはないのでマスターと奥さんのふたりで店に出ている。夜の店内はしっとりと落ち着いていて、昼間の活気とはギャップがある。そんな静かな雰囲気は子供の頃の夜更かしみたいな特別感があった。  カウンターにでも座ろうかと目を遣るとそこには背筋の伸ばして座るワイシャツの背中が見えた。後姿だけでもその人だとわかる。 「楓さんこんばんは!」  楓さんは俺が店に入って来たのも気付いているみたいだった。あえて話し掛けに行っても身体ごとこちらを向いて応えてくれた。これまでは限られた時間でしか話をすることができなかったが今日は違う。落ち着いて楓さんと話せることが嬉しくて、自分でも驚くほど浮足立つのがわかった。自覚していた以上にあの日楓さんと食事に行けなかったことが惜しかったのだろう。 「こんばんは、光くん」  いつもと変わらない口調で挨拶をされただけなのに何故か無性に心が弾んだ。一拍遅れて初めて名前を呼んでもらえたのだと気付いた。お店のお客さんから呼ばれる「光くん」という響きには親しみがあって嫌いじゃない。でも楓さんの口から発せられる「光くん」には同じ親しみでも友達とか兄弟みたいなもっと親密な感じがした。それは多分俺が楓さんと仲良くしたいという願望がそう感じさせるのだろう。  なんにせよ名前を呼び合える関係になれたのは嬉しい。 「夜に来るの珍しいですね」  俺が隣の席に座っても楓さんは嫌な顔をしなかった。他にお客さんはいない。 「楓くんもさっき来たんだよね。さあ光くんは何食べるの?」  奥さんがそう言ってお冷を置いてくれた。楓さんのテーブルにもカトラリーとお冷が置かれているだけだ。 「ナポリタンでお願いします!」  本当は久し振りに客として訪れたアンセムを楽しむためにメニュー表を見て考えたかったのに俺は思い付いたメニューを口走っていた。奥さんは俺のオーダーを聞くなりキッチンへ消えた。 「ナポリタンがおすすめなの?」  奥さんを目で見送り振り返ると楓さんはそっと待ち構えるように尋ねた。優しい雰囲気はいかにも年上のお兄さんという感じで妙にくすぐったかった。 「はい、美味しいですよ喫茶店の味って感じで。楓さんは何頼んだんですか?」 「グラタンセット」 「え、夏なのに? 暑いですよ!」  メニューは通年変わらないらしいが、グラタンのオーダーは俺がバイトを始めた時から減っている。こんな季節にグラタンを頼むなんて、と考えていると俺の思考を見透かしたように楓さんは笑った。大人なのにちょっと照れたみたいな顔をしている。 「やっぱりそうだよね」 「!」  ただでさえ楓さんとグラタンが結びつかないのに、夏にそんな注文をして、俺に突っ込まれてちょっと照れて、これまでの楓さんのイメージとは違っていて正直少し動揺した。いつもコーヒーを飲んでいるだけで女性客を色めかせる格好いいお兄さんが、夏にグラタンを頼んで照れているのだ。 「普段なかなか食べないからつい頼んじゃった」 「いや、でも、グラタン美味しいですよね。エアコン効いてるし、大丈夫大丈夫」  ありきたりな反応にも楓さんは「うん」と短くも丁寧に返事をする。 「楓さん仕事帰りですか?」  マスターから時々夜にも来店するとは聞いていたが俺がバイトを始めてから夜に会うのは初めてだ。今日の恰好は半袖のワイシャツとスラックスで所謂クールビズスタイルだ。いつもきちんとした服装をしているけれど仕事着となると一層真面目な印象を受ける。 「うん、今日は早く終わったから来てみたんだ。光くんはもう夏休みかな?」 「はい、先週テストが終わってやっと休みです」 「夏休みは何するの?」  そういえばさっきまで夏休みのことを考えて悶々としていたことを思い出した。 「あんまり決めてないんですけど、部活の合宿くらいですかね」 「へえ合宿なんてあるんだ、楽しそう。部活は何をしてるの?」  俺は楓さんのことが知りたいのにさっきから俺ばかりが質問に答えている。だけど楓さんが興味を持って俺のことを聞いてくれるのはなんだか嬉しいのも事実だ。 「バレー部です。中学からやってたんでなんとなく」 「バレー部かぁ。ポジションは?」  その後も楓さんは俺がひとつ質問に答える度にやんわりと話を広げ、またひとつ質問をするという具合で俺はずっと自分の話をし続けた。それも当たり障りのないことばかりで面白いこともないはずなのに楓さんは楽しそうに俺の話に相槌を打ってくれた。あまりに聞き上手なものだから俺が質問をすることなく奥さんが俺のナポリタンを運んできた。 「いい匂い、次は僕もナポリタンを頼もう」  僕。楓さんは今確かに自分のことを僕と言った。ナポリタンがやってくるまでの時間で俺はほとんど楓さんに質問できていないのにまた大きなギャップを食らっている。俺のまわりに自分のことを僕なんて言う男はまずいない。俺はますます楓さんのことが気になって仕方がない。  俺のナポリタンのすぐ後に楓さんのグラタンが到着した。料理が揃ったところで一緒に食べ始めた。俺はケチャップが飛び散らないように慎重にパスタを口に運びながら隣でスプーンに乗せたグラタンにふーふーと息を吹きかけている楓さんを盗み見た。  出来立てで容赦なく湯気を立てているホワイトソースはいかにも熱そうだ。それを警戒して一生懸命温度を下げようと奮闘している。わずかに尖った小さな血色の良い唇に目が行った。そして口の端に付いたチョコレートを舐める舌が脳裏に浮かんだ。そうだ、俺たちが会ったのはあの日以来だ。 「今さらですけどこの間、ありがとうございました。アイスまで奢ってもらって」  楓さんはようやくグラタンを口に運ぼうとしたところで手を止めた。ぽかんと開いた口が珍しい。 「いえいえ。元気になった?」 「おかげさまで……」  言いながら前回と同じく今日もすっぴんであることを思い出して余計にテンションが下がった。 「それなら良かった」  楓さんはまたうっすらと微笑んでスプーンを口に含んだ。あの日の楓さんは俺にとって救世主だった。ほとんどパニックだった俺を見つけてくれて、わけのわからない話を聞いてくれて、優しくしてくれた。今日もこうして行き会っても嫌な顔をせず付き合ってくれているのだ。それに比べて俺はつくづく格好悪い。しかしそれが逆に俺を勢い付けた。どうせ格好がつかないのだからこの際甘えてしまおうと吹っ切れたのだ。 「でもぶっちゃけまだちょっと悩んでて」  根本的な点で言えばちょっとどころではないが他に相談するあてもない。甲斐もいるが同じ部員として気を遣わせるだけだ。 「夏合宿に参加するかどうか迷ってるんです」  俺は思い切って打ち明けた。合宿に参加するかどうかは大した問題ではないが、誰かに胸の内を聞いてもらいたい思いだった。  楓さんはグラタンを食べつつ目で続きを促した。 「部員とは仲が良いし絶対楽しいと思うんですけど、多分酒飲んだりとかで、なんか、こう、くっついたりするのが苦手で」  要領を得ない話に楓さんもいまいち返事を決めかねている顔をしている。それはそうだ、楽しみなら参加すればいいだろうで済む話なのだ。酔っ払いが嫌なら適当に席を立てば良いだけだ。まさか女の子に触ると場の空気をぶち壊すくらいパニックを起こすのが怖くて参加を悩んでいるとは思わないだろう。せいぜい酒癖に悩んでいると思われるくらいだろうか。  やっぱり素直に話した方が良さそうだ。  そう決心すると心臓がバクバクと胸を叩いて苦しくなる。隠しておきたいことなのに今は聞いてほしい気持ちが上回った。こんなことは今までなかったのに。 「……女の子ってどうしても男より小さいし力も弱いじゃないですか。そういう相手に触るのって俺すごい怖いんですよね」  納涼会の日に引き寄せたエミリの肩の感触が腕に蘇る。自分とは違う骨の細さが恐ろしかった。簡単に押さえられる身体が恐ろしかった。愛もこんな風に自由を奪われたのだと想像してしまうから。  背筋が震えるのを抑えながら話すと楓さんの表情が曇っていることに気付いた。  やっぱりこんな話はするべきではなかった。いくら年上で優しい人だからと言ってなんでも受け入れてくれるとは限らない。なにより俺たちは打ち明け話をするような間柄ではないのだ。激しい後悔の中もう笑ってはぐらかしてしまおうと思った時だった。楓さんからとんでもない言葉が返された。 「それは……お酒の力で好きな子とどうにか、という……?」 「違う! 違います、一番違う! 全然違いますから!」  楓さんは一生懸命返す言葉を選んでくれたのだろう。しかしそれはもっとも忌むべき誤解で俺は即座に否定した。確かに俺の言い方では「酔いに任せて強行したい」という酒乱発言と捉えることもできる。俺はそんな野蛮で劣悪な男ではない! 「そういうことじゃなくて、ええと、俺は女の子としゃべったりするのは楽しいけど、どうにかなりたいわけじゃなくて、なんていうかな、変な期待? 誤解? みたいな、うーん」 「誘惑されたくない?」  楓さんの一言で取っ散らかっていた頭の中がすっとまとまった感じがした。そう、それだ。俺は誘惑されたくないのだ。俺は女の子が苦手なわけでもないし、惚れっぽいわけでもない。だけど女の子がそばに居れば意識するし、年相応に反応する。それが現実問題、俺は女の子の身体が怖くて触れることができないのだ。普通の男ならチャンスがあれば女の子に触れるだろう。俺もかつては彼女に対していつもその機会を伺っていたからよくわかる。だけど事情が変わった今、むやみに刺激されるのは俺にとってリスクしかない。つまり誘惑されたくないのだ。 「……そう、それです、誘惑されるのが嫌なんです!」  楓さんは引き攣っていた顔を和らげ、安堵した表情を見せた。 「良かった、この間は潔癖症で辛いって言ってたからお酒の勢いで解決しようしてるのかと思ってびっくりしちゃった」  確かに俺はそう言った。楓さんは俺の言ったことをよく覚えてくれているらしい。それに誘惑とは楓さんが前にも口にした言葉だ。共有した時間は少なくても同じ時間をふたりで重ねているみたいでじんわりと嬉しくなった。 「そういうのってどうしたらいいんですか? 女の子にくっつかれたら楓さんだったらどうします?」  きっと楓さんなら女性は放っておかないはずだ。雰囲気を悪くせずにうまくかわす方法を心得ているだろう。 「僕なら正直に困ります、って言うかな。困っちゃうのが事実だから」  困ります、という台詞で俺は酒の席で女性の上司に言い寄られる楓さんを想像してみた。そっと身体を寄せてアプローチをする色っぽい女性に「困ります」と優しく微笑んでやんわり身体を離す楓さん……。 「あれ? 逆効果じゃない?」 「え、そうかな?」  俺は試しに思い切り楓さんに身体を寄せてみた。身体がくっつけられる程の距離で見つめて迫ってみると僅かに良い香りがした。一瞬だけ掠めた香水の香りに気を取られていると、楓さんの黒い瞳からふ、と目の力が抜けた。そして申し訳なさそうにほんの少しだけ微笑み声を潜めた。 「……困ります」  楓さんは自分から引くことなく、その雰囲気だけで「離れて」と伝えてくる。けれどそれが何故かまた挑んでみたい気持ちにさせた。今は無理でも押せばいけそうな、頑張って手に入れたくなるような、そんな反応なのだ。  ……やっぱりこれでは相手が燃えないか? 大人ならそれで諦めがつくのだろうか? 俺が女の人なら内心悶えてしまいそうだけど。 「それ本当に上手くいくの?」 「え、うん、多分……」  多分ってなんだ? なんだか思わせぶりで、うっかり突破されてしまいそうな感じに思えるのだけど。 「とにかくさ、してほしくないことはきちんと伝えればわかってくれるよ。仲が良い人たちなんでしょう?」  一瞬ぽやんとしたお兄さんは、また誠実でしっかりとした頼れる楓さんになった。俺は姿勢を正す気持ちで楓さんの言葉を聞く。 「だからきっと大丈夫だよ。夏合宿楽しんでおいでよ」  最後に「ね?」と付け加えた穏やかな声色に胸に溜まっていたもやもやが一気に取り払われた。 「うん、やっぱり行ってみる!」  その後はマスターと奥さんも加わり四人でおしゃべりをした。楓さんが持ち込んだコーヒーをマスターが淹れてくれて俺もごちそうになった。楓さんは新しく買ったコーヒー豆でマスターにコーヒーを淹れてもらいたくて足を運んだのだと言う。結局その日はあまり楓さんに質問はできなかったけれど、コーヒーが好きだということはわかった。  そして何より、この日は楓さんと連絡先を交換することができたのだった。

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