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第9話
特に予定はなかったはずが気付けばカレンダーアプリのスケジュールはそれなりに埋まっていた。
水着を買って男五人でぎゅうぎゅうになりながら海へ行き、夏祭りでかき氷を食べながら浴衣の女の子に見惚れ、イベント事がなくても適当に集まり学生らしい日々を過ごしていた。
そんな中、俺は常に落ち着かない気持ちを抱えていた。出掛ける前も、みんなと居る時も、別れた後も、異国の景色をアイコンにしたメッセージ画面をじっと見つめた。
天気が良ければ海面が光って綺麗だろう。りんご飴とかき氷ならどちらが写真映えするだろう。甲斐の鋭いスパイクは誰が見ても爽快なはず。
どんな写真なら楓さんにメッセージを送る理由になるだろうか。最近はそればかり考えている。
何事も始めの一歩というのは勇気が必要だ。しかし一歩踏み出せば案外スムーズに歩けるものである。
楓さんとの個人的なやりとりがまさにそうだった。
俺は楓さんにメッセージを送りたくて足踏みを続けていたが、甲斐にスマホを触る頻度を指摘されたのをきっかけに楓さんと連絡を取るようになった。
それは他愛もない合宿での一枚で、みんなでわいわいとカレーを食べている写真を送ったのだ。全然盛れてもいないし、写真映えのする景色でもない。合宿施設の食堂で、タオルを肩に掛けたひょろひょろ金髪そばかす男が、しかしとても楽しそうにカレーを食べているのだ。
夏の合宿は、朝から夕方まで筋トレと基礎練習、学年ごと、レギュラーごとの練習試合をこなし、へとへとで風呂に入り、みんなでご飯支度をして、そしてようやく食べたのがカレーだった。それ以外にも夜の散歩と称して澄んだ星空を見に出掛けたり、普段は話したことのない部員と仲良くなったりと楽しいことでいっぱいだった。
その内のひとつを切り抜いた写真を送った。楓さんのおかげで楽しい思い出ができたと、報告したかった。
『楽しそうでよかった。カレー美味しそうだね』
当たり障りのない返事だった。それで十分だった。俺はそれから他愛のないメッセージを送り、楓さんもそれに付き合ってくれた。
それからふたりで会うようになるのに時間は掛からなかった。
最初にふたりで会ったのは飲み屋街にある居酒屋だった。約束の時間を三十分程過ぎてから仕事着の楓さんが店に現れた。
「待たせてごめんね、お腹空いたよね、もう頼んだ?」
どんな時も涼しい顔でいた楓さんが額に汗を浮かせてさらさらの前髪を僅かに濡らしている。とても急いでくれたのだろう、いつもきっちりと締めているシャツの襟元を大きく開いている。
どうしても仕事で遅れてしまうことは事前に連絡をもらっていたし、既にメッセージで十分過ぎる謝罪を受けている。今日は俺がお願いしてセッティングしてもらったような席なので仕事終わりでも付き合ってくれるだけで有難い。それなのに楓さんは夏休みの暇な学生の元に文字通り駆け付けてくれたのだ。
「うん、一杯だけ」
本当は楓さんと最初の一杯を乾杯から始めたかったのだが、金曜のこの時間にただ座って席を埋めているのも申し訳なく、一杯だけ先に頼んでいた。グラスに残ったビールを仰ぎ店員を呼ぶ。
「先に食べてて良かったのに」
楓さんは残業までして疲れているだろうに俺の腹の空き具合の方を気にしているようだ。忙しなく席に着き、鞄からハンカチを取り出してこめかみや首筋の汗を押さえている。テーブルを挟んで対面する楓さんはどこか新鮮だった。
「気にしなくて大丈夫だよ。俺が一緒に頼みたかっただけだし」
汗が止まらないのか楓さんは広げたハンカチで顔の下半分を覆っている。それほど急いできてくれたのが伝わり嬉しいやら申し訳ないやらで、俺はラミネートされたメニュー表で楓さんを仰いだ。
学生バイトと思われる店員が来たところで仰ぐのを止め、二杯目のビールを注文すると楓さんが神妙な顔付きになり、控えた声で尋ねた。
「念のため聞くけど光くん、歳は……?」
そうか、場合によっては未成年飲酒で楓さんに多大な迷惑が掛かることになるということか。やっとふたりで会えるようになったと思ったが完全にフラットな友達になったわけではないのだ。
「四月で二十歳になりました。飲酒、問題なし」
右手でピースサインを作って見せると楓さんは安堵した顔で微笑み、「生ふたつで」とオーダーした。いつも飲み物と言えばブラックコーヒー以外頼むところを見たことがないのでそれはとても斬新だった。
ようやく乾杯を済ませて手を付けていなかったお通しの枝豆を摘まんだ。楓さんは実に美味しそうにひとくち、ふたくちとビールを飲み下す。真っ白な首に意外と立派な喉仏が上下しているのが目立つ。
「はあ、美味しい」
勢いよくグラスをテーブルに叩きつける、ということはしないが、楓さんはひと汗掻いた後のビールにうっとりしている。あの楓さんでも仕事終わりのビールは美味しいんだなあと妙な親近感を覚えた。
「そういえば楓さんはいくつなの?」
俺は今までこんなことすら聞けずに過ごしていた。いつも俺ばかりが話をして、変なお悩み相談までしているのだ。今夜はせっかく時間を設けたのだから俺が楓さんのことを知ってもいいはずだ。
「今年で二十六になるよ」
「じゃあ働いて三、四年目くらい?」
「三年目だね」
社会人三年目かあ。きっとバイト三年目なんかとは全然違うのだろうな。身近な存在では同じくらいの歳の従兄がいるが完全にお兄さんだった。子供の頃は対等な遊び相手にならなかったし、数年前に親戚の集まりで会った時にはお年玉をくれた。
「大人だ……」
「いやいや、全然そんなことないよ。最近ようやく自立し始めたくらいで……ううん、仕事の話はやめよう」
続けざまに仕事の内容を聞こうとしたが遮るようにメニュー表を広げられ、強制的に会話の内容が変更された。
居酒屋メニューを選ぶ楓さんもまた新鮮だった。いつもブラックコーヒーか、トーストセットをオーダーするところしか知らない。例外としてコンビニのアイス、真夏のグラタンを食べるところは目撃したが。
「楓さんは何が好き?」
俺は初めて来た店だがここはごく一般的な居酒屋だ。楓さんを待つ間にメニュー表を見ていたが、和食でも洋食でも一通り定番の料理が置いてあるようだ。その上で楓さんが好きな居酒屋メニューが何かを予想してみる。だし巻き卵、揚げ出し豆腐、ホッケの開きは渋すぎるかな?
「唐揚げ、いつも頼んじゃう」
「え!」
ニコ、と笑った顔が可愛かった。唐揚げなんて定番中の定番だが、まさか楓さんが好きなメニューとして一番に挙げてくるとは思わなかった。楓さんが暑い中汗を掻いて、ビールで癒されて、唐揚げが好きと言ったことで、俺は初めて楓さんが同じ空気を吸っている人間なのだと実感した。
「肉とか食べるんだね」
「? 食べるよ、焼き鳥も好きだよ。串も頼もうかな」
それはそうか。それはそうだ。
何も起きていないはずなのに俺の中では大きな衝撃が走っている。唐揚げなんてみんな好きだ。焼き鳥なんてみんな好きだ。自分でもよくわからない。バイト先によく来る働くお兄さんが仕事帰りにビール片手に唐揚げと焼き鳥を食べる。それだけの、何の変哲もない、普通のことに、俺は衝撃を受けている。どうしてだかむずむずして頬が緩む感じがする。
「光くんは? 何が好き?」
楓さんはメニュー表の最初のページを開いたまま俺に問い掛ける。こんなにたくさんメニューがある中で楓さんはきっと唐揚げを頼むことは決めてあるし、今はどんな串を頼むか考えているのかと思うとそれ以外に選択肢がないような気がしてきた。
「俺も唐揚げ好き……焼き鳥も好き……」
「じゃあ唐揚げと串頼もうか!」
嬉しそうにそう言いながら楓さんはメニュー表をめくり串物のページを開いた。なんでもないことなのに、凄く楽しい。
メインの肉を決めた後で、冷やしトマトときゅうりの一本漬けと、冷や奴を提案されて期待を裏切らない面も見せ付けられた。
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