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第10話

「合宿楽しそうだったね」  料理が来るまでに楓さんの事を色々聞こうと思っていたのに先に切り出されてしまった。 「うん、行ってよかった!」  初めて楓さんにメッセージを送った際に少しだけ話を聞いてもらった。バレーの練習をたくさんして、ずっと部員と過ごして、すごく楽しかった。楓さんに背中を押してもらったお陰だと伝えたかった。 「好きな子と話せた?」 「ん!?」  予期せぬ質問に目がまん丸に開いて枝豆が口から飛び出しそうになったが、楓さんはちょうど運ばれてきたトマトときゅうりに意識を持っていかれている。 「わあトマトおいしそう」 「う、うん、そだね……」  ガラスの器に盛られたスライスされたトマトは出汁に浸っており、細かく散らされた大葉が飾られて確かに美味しそうだ。楓さんは取り皿にトマトを半分、きゅうりも半分取り分けてトマトを一切れ食べ始めた。 「合宿は別に何もなかったよ。大丈夫だった」 「何もなくて、大丈夫だった?」  楓さんの不思議そうな反応に自分の発言の不自然さに気が付いた。  合宿では一部屋十人で使う広い部屋を二部屋借りて男女に分かれていた。結局はごちゃ混ぜになって男はほとんど雑魚寝状態だったが、甲斐や納涼会に居た同期が気にしてくれたため女子と接触することなく平和な二泊三日に終わった。エミリは実家に帰っていたため合宿に不参加だったし、そもそも彼女とどうにかなるという選択肢は自ら捨てた。  だから「何もなくて大丈夫だった」のだが、多分楓さんには伝わっていない。急いでこれまで断片的に話した弱音を繋ぎ合わせ、俺は楓さんにとって奥手だけど気になる子にくっつかれると酒の勢いで手を出してしまいそうで怖い童貞であるという結論に至った。それが「何もなくて大丈夫だった」のだ。  今までひた隠しにしていたつもりだが俺は楓さんに甘えていた。本当は誰かに聞いてほしかった。だけど踏み込んでほしくもない。だから迷惑を掛けても打ち明けることが出来ずにいた。  普通の大学生として接してほしい。誤解してほしくない。俺の事を理解してほしい。  俺を受け入れてほしい。 「……誤解されたくないから言うんだけどね、俺女の子に触るとパニック起こしちゃうの」 「パニック?」  改めて言葉にすると心臓がバクバクと激しく動き、急激に喉の渇きを感じた。グラスに残ったビールを一気に呷り、飲み込んだ。 「女の子って男より身体が小さいでしょ? 力も弱くて、細くて、……俺ダメなんですよ」 「それは……前にも言っていたね」  伺うような様子で楓さんが相槌を打つ。この会話を続けるべきか俺にもわからない。今頭の中には暗い靄がかかり腕にはエミリや元カノの身体の感触が蘇る。 「この話も止めよう。楽しい事だけ話そう、ね?」  グラスを握ったままになっていた手に楓さんの指が触れた。ハッとして視線を上げると心配そうな表情をした楓さんが見えた。やっぱりまだまだだめなようだ。それでも控えめに触れた指先から体温が戻っていく感じがして少し落ち着いた。 「ああ、すみません、俺この話ほんとダメで……」 「ううん、僕も何も知らずに聞いちゃってごめんね。また話したくないことがあったら言ってね」  離れていく白い指が名残惜しかった。 「気になってた子はいい感じだったけど諦めたんだ」 「え?」 「俺こんなんだからさ、付き合えてもお互い大変だもん」  エミリと別れてから泣くほど思い詰めていたけれど言葉にしてみて少しだけスッとした。身体の中に留まって淀んでいたものが吐き出されるような心地だった。 「彼女欲しー!」 「あはは、次は何飲む?」  楓さんはドリンクメニューを見せてくれたのでレモンサワーを追加で注文した。楓さんのグラスにはまだビールが残っているのに俺はもうこれで三杯目だ。レモンサワーと一緒に唐揚げが運ばれてきて、楓さんはまたニコニコと嬉しそうに取り皿に半分取った。 「楓さん直箸気にする人?」  家族以外と食事をする時に確認を取るがそれはほとんど形式的なもので、俺は今まで直箸を断られた事がなかったので新鮮だった。確かに楓さんは綺麗好きそうだし、気にするのかもしれない。 「気にしないよ。適当に自分の食べたい分を、あ」  楓さんは自分の皿を見て気が付いたようだ。 「こんな取り方したら落ち着かないよね。子供の時からの癖で、つい……」  照れ隠しみたいに楓さんは唐揚げをひとくち齧った。口が小さいからか、俺ならひとくちで食べきれそうな物だけど。 「俺もよく兄ちゃんと、おかず取り合って喧嘩してた」  妹と、とは言えなかった。言ってみようかと思ったけれど、まだ胸が苦しくなって言えなかった。 「やっぱりそんなものだよね」  若干肩透かしをされた気分だった。お兄さんがいるの? と返ってくると思っていたのだ。そうしたら、うん、と答えて、楓さんは? と聞くつもりだった。楓さんは唐揚げを頬張りつつメニュー表に目を向けている。 「楓さんはお酒よく飲むの?」  流し見していたメニュー表から視線がこちらに向いた。楓さんのまだグラスは空いていない。 「付き合いで飲むことは多いかな。ひとりではあんまり。凄く疲れた時は家でも少し飲むよ」 「そうなんだ。何飲むの?」  うーん、と少し考える楓さんは箸も止めているしメニュー表も気にしていない。 「特別に好きってわけじゃないけど最近日本酒を飲むようになったよ」  またまっすぐにこちらを見て言った。俺は心の隅でほっと息を吐いた。 「日本酒飲んだことない!」  酒を飲むようになって間もない俺に楓さんは日本酒を頼んでくれた。この地域は水が綺麗でいくつか有名な酒蔵があるらしい。当然俺には酒の味はわからなかったけれど、ふんわりと薫る日本酒の香りは上品で少し甘くてそれだけでもが良い気分になれそうだった。 「無理そうなら僕がもらうね。ぐびって飲まずに、少しずつ舐めるみたいにして飲むんだよ」  初めて口にした日本酒はびっくりする程濃い味で、それでも大人が付いていてくれる安心感で無理せず楽しく挑戦できた。 「俺にはまだ早いのかなあ?」 「美味しくない?」 「美味しそうな匂いはするんだけど……」  それから楓さんは日本酒と食べ物の組み合わせで味が変わると言って試させてくれた。なんとなく違うような気はするが正確にはよくわからなかった。それでも知らなかった事を楓さんから教えてもらうのが楽しかった。  楓さんはゆっくり食べるしゆっくり飲んでいた。それでいて会話をする時は手を止めるのだから張り切って取り分けた唐揚げがいつまでもなくならないのが面白かった。  串盛りが来た後も追加でいくつか注文するが俺ばかりが皿をつついている状態だった。これなら最初に自分の分を確保しなければ他の兄弟に根こそぎ取られてしまうわけだ。おっとりしている一面が見られてなんだか可愛いと思ってしまった。 「もう一軒行こうよ!」  外に出るといくらか涼しくなっていた。それでも湿った風は爽やかとは言い難い。汗でこめかみに前髪を貼り付けていたのが嘘のように楓さんはいつもの涼しい顔をしている。一方で俺はかなり良い感じになっていた。 「また今度にしよう、今日はもう遅いよ」  楓さんの腕時計のディスプレイを覗き込むがまだまだ日付の変わる時間には遠い。 「明日も仕事なの?」  飲み屋の通りを駅の方に促されるのが少し寂しくて足を止める。 「休みだけど、光くん酔ってるでしょう?」 「少しだけだよ」  ふわふわとして気持ちいい。これ以上酔わなくてもただ一緒にいられたらそれでいいのに。 「じゃあ蕎麦でも食べる? ラーメンの方がいい?」  楓さんはあたりを見渡して提案した。締めの蕎麦、締めのラーメン。すぐに食べられてちょうどいいと言えばちょうどいい。 「ねえ俺の家は? 歩いて十分くらいで着くよ。いいでしょ?」  それがいい、それがいい。なんて良い提案なんだろう。そうとしか思えず早速楓さんの腕を引いた。駅とは反対方向で途中にコンビニだってある。明日休みならうちに泊まっていけば良いんだ。 「光くん」  見上げると楓さんは眉を下げて微笑んでいる。曖昧な表情に目が釘付けにされた。 「送って行くから、また今度会おうね」  澄んだ黒い瞳は「困ります」と告げている。拒絶ではないのに有無を言わせない甘い圧力がある。押せばいけそうな雰囲気なのにそうできない。嫌われたくない、そう思わせる甘さだ。 「うん……わかった」  困った笑顔は褒めるような表情に変わる。それを見た瞬間、何故か胸が痛くなった。一気に酔いが回ったような、それとも一瞬で醒めたような、すごく妙な感覚だった。

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