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第12話

 翌日からのバイトは心が軽かった。ずっと伝えなければと思っていた気持ちを言葉にすることができたのだ。美弥子さんに祝福の言葉を贈れなかったことは俺にとって重荷になっていたのだと今になって実感する。美弥子さんがこれから作る幸せな家庭を思い描く度に背中にしがみつく何かがあった。振り払えず、ずっと背負い込んでいた。それが少しだけ抱え方がわかってきたような、そんな感じだった。  ひとつ重荷が無くなると自分でもわかるくらいに俺は気分が良かった。嬉しい事や楽しい事の感度が上がったみたいに晴れやかだ。  俺は鼻歌まじりにスマホを手に取った。 『今週はアンセム来る?』  エアコンの風に当たりながらベッドに寝転び、ご機嫌にメッセージを打ち込む。  送信ボタンをタップすると同時に生ぬるくて湿った空気と薄闇に浮かんだ白い顔が過ぎった。曖昧な表情で微笑む顔と優しく俺を叱る声。骨と筋肉を感じる引き締まった腕の感触。あの瞬間に得た感覚が鮮明に蘇った。そして鼓動だけが確かな物としてこの身に再現されている。  あれから何度も何度もあの日の場面を再生していた。汗を浮かべて少しだけ身だしなみの崩れた姿や、ビールを飲み干す喉仏、唐揚げが好きとはにかんだ笑顔、俺を気遣ってそっと触れた指先。なんでもない記憶を何度もなぞった。楓さんが教えてくれた自身のことを繰り返し暗唱した。テスト勉強のように暗記するのではなく、気に入った曲の好きなフレーズを何度も聴くように、思い起こす度に心が躍る。  そうすると今度は楓さんと飲みに行った事を誰かに聞いてほしくなった。甲斐は、以前に楓さんのことを話をしたがあまり良い顔をしなかった。美弥子さんには飲みに行った事を既に話したからまた聞いてもらってもいいかもしれない。だけどなんて伝えよう。楓さんが汗を掻いていたこと? お酒を飲むこと? 年齢? 食べるのが遅いこと? どれも特別取り上げて話すようなことではない気がする。  とっておきと言えば別れ際のあの姿か?  そう考えた途端にむず、と嫌な感じが胸の中に広がった。その感覚を咀嚼する前にスマホの通知音が鳴り、俺は反射的にメッセージを確認した。 『メシ食った?』  とぼけたスタンプと共に届いた甲斐からのメッセージを見て明らかに落胆した自分がいる。 『たべた』  スマホを放って枕に顔を埋めた。  これが楓さんだったらいいのに、と心に浮かんだ言葉はさすがに無視しきれなかった。

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