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第18話
強引に誘ったにもかかわらず楓さんは俺に大人しくついて来て、途中コンビニに寄った。そこで楓さんが普通に買い物を済ませるのを見て俺は徐々に冷静さを取り戻した。これからこの人を部屋に招くのに掃除やら何やらが不安になってきたのだ。
「日向夏ってどんな味? 僕食べたことないんだ」
アパートに着くと楓さんは無邪気に言った。にこにこ笑い、まだ見ぬ果物に想いを馳せている。俺はコンビニを出てすぐに渡されたペットボトルの水をときめきながら飲んでいたのだが、二十五歳の爆イケ男を日向夏で釣ってお持ち帰りしてしまった事実を目の当たりにして罪悪感を覚えた。お持ち帰りは大袈裟としても、まさか楓さんが俺の家に来てくれるなんて……。
「俺も初めて食べたけど結構おいしかったよ。部屋片づけるから少し待ってて……」
そわそわしながら楓さんを部屋に上げ、その頃には俺の酔いはすっかり醒めていた。そうすると自分の部屋にあの楓さんがいることがクリアに認識されてあからさまに胸が高鳴った。これはもはや誤魔化しようのない感情だった。
狭い部屋の小さなテーブルを囲み、どうしようもないクッションを楓さんに差し出して座ってもらった。楓さんも気を遣って何かしようとしてくれるのだがボロが出るのが嫌だったのでその場に座らせて俺は早速日向夏を振る舞う。
「わあ酸っぱい! あ、でも皮が甘いんだ、グレープフルーツみたいな感じだと思ってたけど全然違うんだね!」
日向夏を食べる楓さんは日本酒を飲む時よりも遥かに饒舌で楽しそうだった。これは本当に口実でもなんでもなく日向夏が決め手になったみたいだ。
「楓さんは果物が好きなの?」
「果物はなんでも好きだよ。そもそも食べるのが好きなんだ。お酒はそのおまけって感じ」
「そっか、まだあるから遠慮しないで食べてね」
俺はたまたまお土産をくれた甲斐に感謝せずにいられなかった。皮の剥き方だけでなく、適切な保存方法まで教えてくれたおかげで今俺は好きな人とふたりきりになれてしかも相手を喜ばせることができたのだ。あんまり日向夏を食べる楓さんが可愛いので俺はもうひとつ日向夏を剥くことにした。
「せっかくだからもうひとつ剥くね。おいしいんだけど自分で食べるには皮剥くのが面倒で」
「本当? じゃあ剥き方教えてもらってもいい?」
思いがけず楓さんが一緒にキッチンに立つことになり、狭いスペースに肩の触れそうな距離で隣り合った。キッチンの安っぽい白熱灯が楓さんに見たことのない影を落とす。それはとてもリアルに楓さんを照らしていて、体温を伝える空気も相まってその存在は触れるよりも確かに感じた。
「リンゴみたいに剥くんだ、へえ面白い」
楓さんは俺の手元を見て適切な声量で呟いた。そこには他意なんて微塵もないのに片耳だけがぶわ、と熱を帯びるのがわかった。
俺は手のひらでナイフが滑らないようにしっかりと握り手元が狂わないよう、より慎重に刃を進めた。視線はもちろん日向夏から逸らせるはずがない。
「白いところをたくさん残すのが大事なんだって、じゃないと酸っぱいから……」
「確かに白いところが甘かった」
そう言って楓さんは何気なく剥かれた硬い黄色の皮に触れた。ただ感触を知りたいだけなのだろう、人差し指と親指で優しく摘まみ、内側の白い部分を擽るように指先で撫でる。俺は夢中になってその光景を目に焼き付けているとその皮は不意に持ち上げられた。釣られて目線を向けるとそれは美しい顔の中心に宛がわれ、俺は至近距離でその横顔を見上げてしまった。
「柑橘の匂いっていいよね、ずっと嗅いでいたい」
ドキン、と心臓が跳ねると同時に無邪気な笑顔を正面から叩きつけられ一気に胸がいっぱいになってしまった。まさに一挙手一投足に翻弄されている。同性にこんなに舞い上がられて不憫に思うくらいだ。何をするつもりもないがさすがに何も知らない楓さん相手にこんなに高揚してしまい罪悪感が伸し掛かる。ここは一度冷静になりたい。
「……俺あんまり包丁うまくないから替わってもらってもいい?」
手汗に濡れたナイフを握らせることにまた罪悪感を覚えながらも、俺より遥かにスムーズな手捌きにまたひとつ彼の魅力を発見してしまいうっとりする他なかった。
リビングに戻るついでに缶チューハイを取り出した。せっかく良い酒を飲んだ後だけれど、これは酔わなきゃ太刀打ちできない。
「あれ、まだ飲むの? 大丈夫?」
「もう結構酔い醒めてるから平気」
「そういえば光くんて焼酎飲むの?」
「え?」
言われて思い出したがこれもまた甲斐のお土産だ。俺にというよりは甲斐が来た時に飲めるようにとあいつが勝手に置いているもので、他にも同じ目的で甲斐がストックしている酒瓶がある。俺は正直焼酎は好みでないのでひとりで飲むことはまずなかった。
「これも友達がくれて、そいつが家に来た時しか飲まないかな。もし良かったら楓さん一緒に飲んでくれない? 勝手に飲んでいいって言われてるし新しく増えたから少し邪魔で」
日向夏と焼酎なんて到底合うとは思えないがひとまず水割りを作って渡すと楓さんは笑いながら受け取ってくれた。
「僕も焼酎ってあんまり飲まないんだけど」
楓さんは遠慮がちに言ったがそれは多分本当なのだろう。
小一時間後には痛感することになった。
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