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第34話 罪ほろぼし

「そうは思わないです。生きていたら、誰かの一言とか、どうでもいいことにだって、なにかしら呪われるものですよ。俺は料理人だから、食べることに疑問をもってほしくないし、動物を食べないことで、食べることが楽になるなら、食べなくていいんじゃないですか」 「ありがとう。知花君には励まされてばっかりだ」 「そんな、俺もたくさんつきあってもらってるんで」 「俺もそういう健全な精神を持っていられたらよかったな。嫁にそう言ってあげられたらよかった」 「野菜しか食べなかった人ってお嫁さん?」 「そう、もともと肉も魚も苦手だって知ってたのに、妊娠して、子どもを育てて、病気になって。その中で、ずっと最期まで、食べてほしいと叱っていた。それが彼女を追い詰めていた」  思い出すように直哉さんは床を見てる。 「病気、最期って……?」 「死別してるんだ。八年前に亡くなっている」 「知らなかったです」 まったく考えていなかった可能性だった。口を開けたけどうまく言葉が出なくて絶句する。 「当時は仕事も忙しかったし、息子もいたから、嫁のことをあまり悼んでやれなかった。ひどいだろ。息子がおおきくなって出ていって、肩の荷が下りたんだな。嫁のことを思い出すことが増えて、どうすればよかったのか、俺が無理に田舎からひっぱってきたのに、俺が殺したんじゃないかって、伝染するように肉と魚が食べられなくなって、食欲もなくなって、気力がなくなって仕事もやめた」 直哉さんは感情をのせず滔々と話をしているけど、酒のせいか瞳は潤んでいる。 「そんな」 情報量が多い。息子がいたのは初耳だけど、やっぱりという思いが強い。 「話し過ぎたな。ただ、知花君に感謝を伝えたかったんだ。いくつも年上でめんどうな男なのに、君はとてもよくしてくれたから。いっぱい気も使ってもらって、図々しく迷惑もかけてるから。なのに酒を飲んだのはわるかったな。最近少し疲れているのもあって、だらだらと不幸話の絡み酒になってしまった。これだから中年は駄目だ」 「そんな。息子さんはどこに行ったんですか?」 「大人になったから一人暮らしをしてるだけだよ。彼女もいるみたいだし家にいると不都合なこともあるだろう。あまり帰ってこないが近くに住んでる。だめな両親だったのに、すごくいい子に育った。本当によかった。もう、なにもいうことがない。俗にいう燃え尽き症候群なんだろうな」 「駄目じゃないですよ。ぜんぜん。いい子に育ったのは、親がいい人だったからで」 息子のことは知らないが、わかる。絶対にいい子に違いない。  そして、この人がどこか世捨て人的なのも、なぜかわかった。お嫁さんが亡くなって、一人育ててきた息子が巣立って、燃え尽き、仕事もやめてしまい、趣味も、友達もいないなんて、生きるのがめんどくさそうだ。 「知花君がいてくれてよかった。もう本当に死人のように暮らしてたから。嫁に呪い殺されると思って、それも本望だとも思っていた。あの日、雨が降らなかったら、もっとすさんだ毎日を過ごしてたよ」 大変だったはずなのに、直哉さんは俺に微笑みかける。 「そんなの」 こんな風に笑われたらこまる。知り合いはこんな直哉さんをどうしてもっと見てあげてなかったのか。そこで、はっとした。 「もしかして、大切な知り合いって息子さんのことですか?」 「そうだよ」 そりゃあ大切なはずだ。息子にそんな弱みはみせられないだろう。そして絶対にライバルになりえないことはわかった。男がいける説はなしになったが、直哉さんはもう成人した息子と、いないお嫁さんというステータスになった。直哉さんに手をだす罪悪感はなくなった。  なにかが燃えている。やめとけと自分のなかの理性が止めている。片思いが幸せだったのは嘘じゃない。このままでいいとも本気で思っていた。だけど、目の前には酒とたぶんいろんなことに弱っている好きな人がいて。 「新しい出会いとか考えてないんですか?」 「もういい。女は嫁以外にはいらない。それが彼女への罪ほろぼしだから」 そんなのあんまりだ。

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