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意地悪なのに、優しい人②

「よろしくお願いします!」  小児科病棟の医師が普段待機している医局で、俺は深々と頭を下げる。  そこは、研修医時代に来たことがある見慣れた部屋ではあるけど、やっぱり何度来ても緊張する。おまけに、小児科病棟には、俺が研修医時代の指導医だった成宮千歳がいるのだ。 『俺のところに嫁に来い』  あの言葉は一体なんだったのだろうか。  結局は、あの後色んな課をローテーションしていた俺は、成宮先生に会うことは一度もなかった。  ただ、どこの課へ行っても、どの部署に行っても、女子はみんな成宮先生の話題で持ち切りだった。  『小児科』と一言で言っても、新生児から中学生。それから生まれつき障害をお持ちの成人になった方までと、患者さんの年齢層も幅広く、内科から外科や脳外、加えて精神科までの知識が求められる世界だ。  俺は、幼稚園くらいの子供と関わるのが好きなんだけど、そうも言ってられない。  でも、俺は小児科医を希望した。  悔しいけど、俺は成宮先生みたいな小児科の医師になりたかったから。 「あ、いらっしゃい。水瀬君だっけ?」 「はい。よろしくお願いします」  俺は、小児科部長の小山武(こやまたけし)先生に頭を下げる。  見た目は清潔とは言えないけど、この世界では有名な方だ。スラッとした長身なのに少しだけ猫背で、いかにも『小児科医』という優しい雰囲気をしている男性である。 「今年の新人は君だけだよ。残念だね」  小山先生が飄々と話を続ける。 「君の指導は、研修医の時から引き続きで成宮先生にお願いしましたから」 「えぇ!?」  俺は思わず目を見開いた。 「成宮先生、よろしくお願いしますね」 「はい、かしこまりました」  そんな俺の思いなど露知らず、小山先生に向かい成宮先生がニッコリ微笑んで見せる。 「では、そんな感じで頑張ってね」  ヒラヒラと手を振りながら、小山先生は行ってしまった。 「こ、小山先生……適当過ぎるでしょう……」  俺の呻き声が静かな室内に響き渡る。  そこには、俺と成宮先生だけが取り残された。  これは、ライオンの檻の中に仔猫が投げ入れられたようなものだ。  ど、どうしよう……!?  恐る恐る成宮先生を盗み見れば、相変わらず本当に整った顔立ちをしている。凄く綺麗なのに、冷たさは感じられない。  スっと切れた瞳が、彼の聡明さを引き立たせていた。  それでいてスーパードクターと持て囃される程の、技術と知識を持ち合わせている……どこまで完璧な人なんだろう、と悔しいけど惚れ惚れしてしまう。 「そんなに見られたら穴が開くんだけど?」 「え?」  成宮先生は読んでいた医学者をパタンと閉じると、スラッと長い足を組み換え、ソファにドカッと寄りかかった。 「俺のこと見過ぎ」 「え、あ、すみません!」  成宮先生に見とれていたのは事実で、俺の頬が一瞬で熱くなる。そんな俺を見て、成宮先生がニヤリと意地悪く笑った。  あの小山先生に見せた笑顔は、一緒にして消え去っている。 「で? 俺のとこに嫁に来る決心はついたのか?」 「え?」  やっぱりあれは現実だったんだ……そう思い知らされた瞬間。 『俺は、男性とお付き合いすることはできません』  答えはとっくの昔に決まっているはずなのに、その言葉を口に出すことができない。  この中途半端な状況を終わらせたい気持ちと、指導医となる成宮先生との関係を壊したくは無い……この二つの考えが天秤に掛けられて、ガチャガチャと音をたてながら揺れている。  ずっと前から、答えは出てるのに……。 「申し訳ありません。もう少し時間をください」 「ふーん。好きにしたら」  気怠そうに立ち上がると、前髪を無造作に掻き上げる。 「とりあえず、病棟内のオリエンテーションするからついて来い」 「は、はい」  俺は仏頂面した成宮先生の後を必死に追いかけた。 「ここが見ればわかると思うけど、ナースステーションです。ここのナースは、皆さん優秀な方達ばかりなんですよ。ね? 師長」 「もう先生ったら、口が上手いんだからぁ!」 「えー? 事実じゃないですか? いつも助かってますよ」 「本当ですかぁ?」  師長と呼ばれた五十代くらいの女性が、満面の笑みで先生と話をしている。まるでお花畑にいる少女のようだ。  いつの間にか、先生の回りは看護師さんだらけになっている。  その輪の中心で天使のように微笑む成宮先生……相変わらずの二重人格ぶりに、俺は呆気にとられてしまった。 「では水瀬君。次に行きましょうか?」 「先生、また顔を出してくださいね」 「はい、喜んで」  成宮先生は、最後に極上の笑顔と爽やかな風を残して、ナースステーションを後にした。  廊下の角を曲がった瞬間、成宮先生が突然立ち止まる。 「今の人がこの小児科病棟の師長であり、御局の花岡(はなおか)さん。困った時はあの人に頼りな? 力になってくれるから」 「はい。わかりました」 「ただ、看護師の世界は大奥だから、周りの看護師の人間関係を良く観察して上手く立ち回れよ」 「え?」 「看護師を敵に回すと怖いぜ?」  成宮先生が不敵に笑う。  その笑顔に、俺は身が引き締まる思いがした。 「まぁ、こんなもんかな?ope室とか、薬局、検査室あたりはわかってるだろ?」 「はい。大丈夫そうです」 「じゃあとりあえずは、俺について歩いて、研修医じゃなくて医師としての仕事を覚えてくれ」 「はい」 「見ての通り、小児科医は明らかな人手不足だ……できるだけ早く、戦力になってほしい」 「はい!頑張ります!」  元気良く返事をした俺を見た成宮先生が、目を丸く見開いた後ケラケラと笑い出す。 「お前、本当に元気だよな?」 「あ、はい。すみません……」 「ううん、全然いいよ。子供みたいで可愛いし」 「え?」  成宮先生がフワリと微笑んだ瞬間、俺の心臓がトクンと甘く高鳴る。 「え? トクン?」  鈍感な俺は、その甘い不整脈の原因が全くわからなかった。  

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