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第5話
数日後、カオルはロンドンから帰ってきた。
日本に着いたのは18時頃。
ロンドンを出た時は19時頃、そして飛行機で十数時間と過ごし、日本は18時という訳の分からない状態。時差ボケからリズムを取り戻さなければならない日々が始まる。
「はぁ…ご主人様…まだお仕事かな。」
自宅に行ったが、考えるのは竹崎のことだけ。
カオルの家はいつも放ったらかし。せっかく自分で稼いで買った、広い家に帰らず少し狭い竹崎の家に居候する。
なんてったって、大好きなご主人様がいるのだから。
「うん……?」
早速、竹崎の家に帰った。この時、竹崎はまだ仕事中だった。
家の中は悲惨なことになっていた。
脱いだ服や食べた後の食器類やごみが散らかり、布団も起きた時からそのまま。
「よし…まずここからだね……」
カオルは時差ボケもありながら部屋を片付け始めた。
洗濯機を回し、ごみは捨てる、食器類は洗って…。
「……っ。」
疲れが溜まったのか、目眩がした。
それでも、カオルは働くのをやめなかった。
大好きなご主人様に会いたい、その一心で。
「…インスタントラーメン?」
台所に立った時に目に入ったのは、食器類といっても殆どがインスタントラーメンのごみばかりだった。竹崎は料理ができない。カオルがいないと、食事は外食かインスタントか、コンビニ飯か。
「これじゃ、だめじゃないですか…、ご主人様。」
夕飯を作って待つことにした。
カオルにとっては朝飯になるが。
「……まだかな…」
かろうじて冷蔵庫にあったもので作った。
竹崎に料理する気は一切無いので、冷蔵庫は常に酒ばかりになる。
ガチャッ…
「…!」
竹崎が帰ってきた。
「お帰りなさい!ご主人様……!」
「おう……お前もお帰り。」
竹崎は驚いた様子を見せた。その手には、コンビニの袋。今日の夕飯にしようとしたのだろう。
「ご飯、作ってありますよ」
「……そ、そうか…」
「会いたかったです…♡」
「な、なんだよ……」
カオルは思わず竹崎に抱きついた。
「お前、大丈夫か?」
「何がですか」
「時差ボケとか…」
「飛行機で寝てきたので」
「それでどうこうなるもんじゃねぇと思うけど」
「いいですから!ご主人様、早く。」
「おう…」
竹崎は綺麗に片付けされた部屋を見渡した。カオルが心配になった。
「…お前、いつ帰ってきたんだ?」
「18時頃に着きました。」
「…よくこんな短時間で。」
「ご主人様のためなら。」
「はぁ……ちゃんと休めよ」
「……」
竹崎は荷物を置いて、上着を脱いだ。
食事が用意された席につき、カオルは竹崎の向かい側に座った。
「ご主人様こそ、自分の心配してくださいよ」
「は?」
「…インスタントラーメンだけじゃだめですよ」
「……仕方ねぇだろ。どっかの完璧野郎と違って、料理出来ねぇんだよ」
「でも、これからは僕がいるので大丈夫ですよ!」
カオルは笑顔を見せた。
「………。」
竹崎は笑えなかった。
「カオル。」
「……?」
名前で呼ばれた。低い声で、カオル、って。
「合鍵、返せ。」
「えっ……?」
「…合鍵返してくれ。」
カオルは事態を飲み込めなかった。
「な、なんで…ですか」
「お前にこんなことさせたくない。」
「こんなことって…?」
「メイド、奴隷、ペットだがなんだか知らねぇけど。これから活躍するようなお前に、こんなことさせたくねぇんだよ。」
「……どうして急に…」
カオルの目に涙が浮かんで、無意識に溢れてきた。
「…テレビに映画に、雑誌に広告…全部にひっぱりだこのお前が、こんなおっさんの世話してんだぜ?どうかしてるって思わねぇのか」
「僕は…これが幸せなんです」
「おかしいぞ、お前。」
「…え?」
せっかく会えたご主人様に急に切り出された話。
カオルは涙が止まらなくなった。
「お前にはこの先、でっかい仕事が来るかもしれないし、プライベートなら結婚だって…」
「……ご主人様は、それが幸せなんですか」
「…し、知らねぇけどよ」
「……僕は…ご主人様にご奉仕するのが幸せなんです。ご主人様のためなら何だってしたい。それが幸せなんです。」
「普通に考えておかしいだろ」
「普通ってなんですか」
「……は?」
なんだその、どっかの脚本にありそうな質問は。竹崎は思った。かといって、答えがある訳でもないが。
「ご主人様の普通って…なんですか」
「…おっさんの世話して、おっさんをご主人様って言って尻尾振ってんのも、おかしいだろ」
「それが僕の普通なんです。夢なんです。」
「……?」
「やっと…分かってくれる人に出会えたと思ったんです。…ずっと…僕がおかしかったから。僕が普通じゃないから……」
「あ…いや…その…」
ぼろぼろと大粒の涙を流して泣くカオルを見て、罪悪感が湧いてきた竹崎。なんて言っていいか分からなくなった。
「…ご主人様に一生ご奉仕していたいんです。」
「……」
「…こき使われても、殴られても蹴られてもいい。縛られても、焼かれても。ご主人様にそうされるなら、僕は嬉しい。」
「……はぁ。」
泣き出してるカオルに騙されていたら、また逆戻りだ。竹崎は心を鬼にしなければいけないと思った。
「…合鍵は返せ。」
「……ご主人様…!」
「二度と関わるなとか、来るなとは言ってない。」
「…ご主人様の帰りを待ってたらだめなんですか」
「その時間を自分に使えって言ってんだ」
「……嫌だ…」
「分かってくれ。頼む。俺と、お前のためだ。」
「……。」
胸が凄く苦しくなった。カオルも竹崎も。
「今でもいいけど、明日には置いてる荷物まとめて、自分の家に帰れ。」
次の日の朝、カオルは言われた通りにした。
「……。」
カオルをベッドに寝かせて、自分はソファに寝る優しいご主人様にキスをした。
いびきをかいて、だらしない腹を出して寝ているご主人様。髭は伸びきって、テーブルには煙草と灰皿。
「…ご主人様、こんなにも大好きなのに。」
カオルは涙を堪えて竹崎の家を出た。
腫れた目を冷やすための氷を片手に。
「………。」
少しして、竹崎は目を覚ました。
煙草と灰皿の隣に置かれた合鍵。
胸がきゅうっと締め付けられた。心臓が痛い。
カオルと自分のため。
将来を考えなければいけない。
これは事実だ。
そろそろ40にもなるおっさんの世話を、皆の憧れの的になる大人気俳優がしてるなんて酷すぎる。
テレビを点けて、朝の情報番組を見た。
カオルの話題も上げられていた。CMにはカオル。
「…これでいいんだ。これで。」
竹崎は頷いた。
「いくらプライベートだからって、良いことじゃねぇからな」
「……これが最後かな。」
きちんと用意されていた朝食。置き手紙があった。
〝ずっと大好きです。ご主人様、お仕事頑張ってくださいね〟
「……はぁ。」
そうして、竹崎は支度を終えて仕事へ出た。
竹崎は今日もいつもの如く収録の撮影。
夜遅くに終わり、また帰るだけ。
「……」
帰宅した時、少しだけ期待した自分がいた。
扉の前に座るカオルを想像した。
カオルとこんな関係になる寒い冬の日、竹崎の帰りを扉の前で震えながら待っていたカオルがいた。それが、カオルに合鍵を渡すきっかけになった。
そんな訳も無かった。
「何考えてんだか。」
竹崎は自分で自分に鼻で嘲笑い、部屋に入った。
誰もいない家に帰るのは、カオルがロンドンに行った時からだったから少し慣れている。昨日のことは幻のように思えた。
こんな日々が数日続いた。
カオルは休日があったからか、不思議なことに竹崎とは一度も会わなかった。
しかし、ある日突然の事だった。
竹崎は局で収録の撮影をしていた。
「はい、OKでーす!お疲れ様でしたー!」
「ふぅ。」
「竹崎さん、お疲れっす」
隣でカメラを回していた山田が、にやにやしながら声をかけた。山田のにやけは普段からだ。
「おう、お疲れ。」
「今日少し巻けたんで良かったっすね」
「そうだな。」
思ったより少し早く終わることが出来た。
「竹崎さん、これで終わりっすか」
「いや、雑誌の撮影がある。」
「うわ!写真家 竹崎龍一っすか!かっけーっ!」
「うるせぇ、早く帰れ」
「いやいや…」
山田が携帯を触っていた。
「えっ!?」
「んだよ、急にデケェ声出すな」
「え、大丈夫なんすかね」
「んあ?」
そう言って山田が携帯の画面を見せてきた。
ネットニュースの1ページだった。
〝【速報】俳優 藤野カオルが倒れ救急搬送 〟
「…えっ…?」
竹崎は戸惑った。
「命に別状はなく疲れが原因か、って書いてます。命に関わることじゃないみたいで、良かったっぽいっすけどね。」
「…大丈夫だと…いいな」
「そうっすね。竹崎さん仲良いから、マネージャーさんから連絡とか無いんすかね」
「鈴木さんもそれどころじゃないだろ」
「まぁ、そうっすよね。仕事とかも立て込むだろうしなぁ、大変っすね…」
「……」
竹崎は収録後の仕事も集中出来なかった。
「…流石にだめか…」
仕事が終わり、車に乗り込んだ竹崎はカオルか鈴木さんに電話でもしようかと考えたがやめた。
ネットニュースを見返した。
〝【速報】俳優 藤野カオルが倒れ救急搬送 〟
〝〇〇〇テレビ局にて休憩中だった俳優 藤野カオル(25)が突然倒れ、都内の病院に救急搬送されていたことが判明した。命に別状はなく、藤野カオルの所属事務所は、多忙による疲労の蓄積が原因だと認識しており、今後は一定期間の活動休止を考えていると発表した。〟
「……疲労って…」
なんだか心当たりしかなかった。ただただ心配だった。元気でいればそれでいいんだけど。
竹崎はカオルのことで誰かに連絡を取るのは控えておいた。
次の日の現場。竹崎はこの日、午前で仕事が終わった。そして、偶然にもカオルのマネージャーの鈴木がいた。
「鈴木さん。」
「あっ!竹崎さん!丁度良かった!」
「……か、カオルは…」
「そうなんです。カオルのことで。」
「大丈夫…なんですか?」
「はい。今は入院してて。意識もあるし、普通に喋れるし食べてるし…。今のところ、全然問題はないんですけど。」
「…けど?」
「…元気が無くって。落ち込んでる?っていうか。…竹崎さん…なんか喧嘩とかされました?」
「あ…えっと…いや…喧嘩っつーか…」
竹崎は流石に言葉に詰まった。
「……まぁ、お二人のことなんで、僕が介入することないと思うんですけど…。良かったら会ってやってください。元気でるかもしれないから…」
「…はい。」
「…△△病院の0462号室です。」
「……分かりました、行ってみます。」
竹崎は直ぐに向かった。
大きな病院の一室に、看護師から案内された。
「藤野さん、お客さんですよ」
「はい」
個室に一人、カオルがベッドにいた。窓の外を眺めていた。
「…カオル。」
「…!?」
カオルは驚いた様子で目を見開いた。
「…大丈夫なのか。これ、差し入れ。」
「……ありがとう…ございます……」
机の上に、買ってきた飲み物やちょっとしたお菓子が入った袋をどすんと置いた。
「…ご主人様…」
「……そんな目で見ないでくれ」
寂しがる子犬のような目。勘弁してくれよ。
「…ご主人様、会いたかったです…。」
「そりゃどーも…、お前倒れてんじゃねぇよ。」
「はい…」
「困った野郎だな」
「上手く時差ボケから抜けれなくて」
「それだけじゃねぇだろ。40手前のおっさんの世話してて疲れましたって言え、バカ。」
「そんな…!」
竹崎はベッド横にある椅子に座った。
「…それもあるだろ。ただでさえクソ忙しいお前が、おっさんの世話までして。身体壊すのも当たり前だっての。」
「…ご主人様は、自分を責めないでください」
「責めてねぇよ」
「…僕が倒れたのは、ご主人様のせいではありませんから。」
「…あっそう。」
「ご主人様に、会えなかったのが辛かったんです」
「はいはい……」
カオルは体調的に大丈夫そうであった。
顔色はよく、極端に痩せている訳でもなく。
竹崎は少し安心した。
「活動休止、するんだろ?」
「鈴木君が事務所に話をしてくれたみたいで…」
「良かったな。少しは休めそうか」
「……」
「…そんな顔すんな」
カオルはまた寂しそうな顔をした。
「…ご主人様…」
「…んじゃ、俺これから予定あるんだ。」
「また…来てください…」
「ははっ、仕事が終わる頃には面会時間過ぎてんだよ。悪ぃな」
「でも…」
「短期入院だろ?ま…、またいつか来るから。」
「…ご主人様…。」
「寂しいか?」
「はい…」
竹崎はカオルの頭をがしがしと撫でた。
「……」
「早く復帰しろよ」
「ご主人様…、んぅ…!」
耐えられなかった。カオルに思わずキスをした。
「…んぅ♡ご主人様ぁ……♡」
カオルもずっと我慢していたご主人様。また離れてしまうと、首に手を回した。
病室でキスを交わす二人。
誰か入ってきたらどうしよう、そんなことを考えながらもキスを続けた。というより、やめれなかった。
「ご主人様…行っちゃだめ……」
「また来るから…、んっ…」
竹崎がやめようとしても、カオルの腕は離してくれない。
「……おい、もうダメだ。」
「…ご主人様……。行かないで。」
「…早く回復して、お前が来ればいい話だろ?」
「…それなら…鍵…」
「やんねぇよ」
竹崎は微笑んだ。カオルはまだ寂しそうだったが、我慢して病室を去った。
本当は用事なんて無いけど。
あのまま二人きりでいたら、カオルを連れ去ってしまいそうで。
「寂しがってんのは、おっさんの方か。」
竹崎は鼻で笑った。
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