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第8話 青天の霹靂

 脩吾は横になったまま半身を起こし、俺の頭を撫でた。 「そんなこと言うぐらいなら、俺とつきあってよ」 「まだ好きかどうか分からない」 「体は全身で好き好きって言ってくれた気がするけどな」 「心と体は別物だ」 「じゃあ、言い方を変える。少なくとも体は俺だけにしてくれ。ほかの奴と寝るな」 「……まあ、それなら」  ほかにこんなことを頼める相手もいない。 「よし」脩吾は言い、握った手の力が更に強まった。彼はニッと笑って続けた。「体が許した相手なら、心もすぐにほだされるもんだぜ?」 「逆じゃないのか」 「心の相性より体の相性のほうが正直だ。心は、嘘をつくからな。他人にも、自分にも」 「それは分からなくもない」 「今はそれで充分だ」  俺たちは最後にもう一度キスをして、そうして、俺は自分の部屋に帰った。  週明けの職場は、予想通り陰鬱な空気が流れていた。もっとも、普段でも明るい職場ではないのだから、俺の気持ちが反映されてそう感じるだけかもしれない。  それから日々入ってくる追加情報もろくなものはなかった。墜落した機体、特にブラックボックスの捜索もソ連の妨害で満足にできなかった。たまたま北海道沿岸に流れ着き、日本の漁船が見つけた機体の一部や遺体の断片はあったにせよ、ごくわずかだった。遺体の損傷はひどく、人としての原型をとどめているものはないに等しかった。乗客名簿で犠牲者の身元は判明していたが、一人として満足な形で故郷に戻ることはできなかったと思われる。日本人最年少の犠牲者は三歳だった。  ソ連は相変わらず自国の軍用機が韓国の民間機を撃墜した事実を認めようとせず、西側諸国をはじめ世界中から批難が集中した。そんな中で、米大統領が再びソ連の撃墜を強く批判し、その十一日後にある声明を出した。 「軍事衛星による航法システムを世界の民間航空機に無料で利用させる」    軍事衛星による航法システムというのは、即ちGPSのことだ。十年前から軍事利用目的で秘密裡に開発されていたこの技術を、一気に世界中に公開するというのである。撃墜事件は大韓航空機が自身の航空経路を正確に把握できていなかったことに端を発しており、GPSが利用できていれば回避できた確率が高い。平和・安全利用のための大盤振る舞いの情報公開というわけだ。  ただし、この大統領声明はアメリカ軍部にとっては寝耳に水だったようで、軍事関連施設の所在漏洩の危惧から強い反発が起きたが、結局はそれらの位置については正確度を低下させるために故意にノイズを入れることで妥協した。  レーガン大統領が軍を通さず軍事技術の公開を強行したという点では、例の傍受データの提供の一件と似ているようにも見えるが、中曽根首相が官房長官や防衛庁の反対を押し切ったのとはわけが違う。アメリカが公開したGPS技術はソ連も同様のものを開発済みだろうとの西側共通の見解があった。その公表に際し、このタイミングで先手を打つことでアメリカの優勢を世界に印象づけ、更には民間利用を許可することでソ連の同技術の無効化に成功したのだ。それに引き換え、日本政府がしたことの報酬といったら、「ヤス」が仲良しの「ロン」に頭を撫でてもらえたぐらいのものではないか。  だが、いつまでもそのことを引きずって苛々している場合ではなかった。日本の傍受技術の水準が白日の下にさらされた今、各国が軒並み日本への警戒を強めてしまった。俺たちが今まで築いてきた蓄積は白紙となり、一から、否、マイナスからのスタートだ。  心を亡くすと書いて忙しい、とは良くできている。忙しさに紛れているうちに、俺はいつしか憤りも悲しみも失い、淡々と与えられた任務をこなすだけの機械のようになっていた。  そうして時は過ぎ、三〇歳を迎えて受験資格を得た俺は、すぐさま曹長に昇格した。昇格に興味がないらしく、一曹のままの脩吾に報告するのはどこか後ろめたくて躊躇っているうちに、彼が結婚するという噂を人伝てに聞いた。  あれ以来、脩吾と体を重ねることはなかったが、たまに飲みに行くことはあった。彼の部屋ではなく、ごく普通の居酒屋だ。そこではもちろん仕事の話はしない。では何の話をしていたかと聞かれると困る。思い出せないのだ。この酒肴が旨いとか、応援している球団だとか、とりとめのない、その場限りの話しかしていなかった気がする。だが、結婚の話など出てこなかったことは確実だ。つきあっている女性がいるとも聞いていない。意を決して、初めて俺から飲みに誘った。  結果的にはそれが最後の飲みの席となった。年季は入っているが、安くて賑やかな店。その賑やかさが会話の空白を誤魔化してくれそうで選んだ。今日も店は繁盛しておりほぼ満席で、L字のカウンターの、奥の狭い席しか空いていないと言われた。男二人が並ぶには確かに狭いが、今更ほかの店を探すのも面倒で了承した。座ると同時に俺は生ビール、脩吾は日本酒を注文する。出てきたおしぼりを使いながら、なるべく何気なさを装い、俺は言った。 「結婚するのか」 「ああ。もう籍は入れた。挙式はしない」 「……おめでとう」 「ありがとう」  脩吾は笑った。何故笑えるのかと、久々に感情が動いた。店員が「前からすいません」と言い、カウンター越しに酒を渡してくる。

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