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第9話 裏切り
「知らなかった。……今日は奢るよ、祝儀だ」
「気を使うなって。いつも通り割り勘でいい」脩吾は猪口に顔を近づけたまま俺を見たから、上目遣いになった。「希海のそんな顔が見られたから、満足だ」
「は?」
脩吾はぐいっと酒を呷った。空になった猪口を元の位置に置き、手酌で徳利から酒を注いだ。
「一応はショックを受けてくれたみたいだから」
「何を言って……」
「少しは好きでいてくれたんだなあ、と」
「……友達として、な」
「友達が友達の結婚を聞いてそんな顔をするもんか」
「都合良く考えすぎだ。びっくりしたがそれだけだ」
「びっくりついでにもうひとつ。デキ婚なんだ」
「えっ」
「もうすぐ生まれる。九月一日が予定日だ」
「九月一日」
「俺たちにはあまり良い日じゃないが」
それはまさに、「大韓航空機撃墜事件」の起きた日だ。あれからの数年間、調別はマイナスを埋めるのに必死だった。ようやく最近になって「各国並み」に追いついたところだ。
「生まれてくる子には関係ない話だ。めでたいものはめでたいよ。冷戦も終結に向かっているしな」
この前年、一九八七年にはついに米ソ間で中距離核戦力全廃条約が調印され、両国の冷戦が招いた世界各地の内戦も次々に終結していった。カンボジアの内戦も近々和平会議が開催されるという。
「そうだな。何しろ平和が一番だ」
脩吾はそう言って、何故だか淋しそうに微笑んだ。
「平和はおもしろくないか?」
「馬鹿を言え、そんなわけがないだろう。……ただ、なんていうのかな。空しさがある。希海も言っていただろう、俺たちのターゲットにも親がいて、子がいる。自分の子の誕生を間近にして、ようやくおまえの、あのときの気持ちが分かる気がするんだ。希海はすごいな。あんな若いときに、既にこんな感情を知ってたんだな」
それを救ったのが、ほかでもない、脩吾じゃないか。俺はそう詰め寄りたかった。そのおまえが、何故、今になって俺を捨てる。ほかの誰にも体を許すなと命令したくせに、結局あんなことはあれきりで、俺はずっと一人で悶々としている。おまえのせいなのに。おまえが、俺を好きだと言ったからなのに。心の中は饒舌なまでに罵倒しながらも、口に出たのはまったく違う言葉だった。
「所帯持ったってことは、もうあの部屋じゃないんだな?」
「ああ。家族用の官舎に入った」
「そうか。――俺は近々、異動すると思う」
「そうだ、昇格したんだったな。曹長、おめでとう」
「脩吾だって受ければ間違いなしだろう」
「いいんだ、俺は」
「給料だって上がるんだ。奥さんもそのほうが喜ぶだろう。これからいろいろ物入りなんだし」
「希海のほうが所帯じみてるな」
脩吾はまた笑った。その笑顔を見て、急に淋しさがこみ上げてきた。
「脩吾」
だが、その先は何も言えなかった。俺はテーブルの下の足先を、脩吾の靴の先にコツンと当てた。それに気づいたであろう脩吾が、そっと手を伸ばしてきた。カウンターの奥まった席。誰からも見えないテーブル下で、俺たちは手を繋ぎ、足先を絡めた。
「好きだったよ、希海。いや、今でも好きだ」
「何言ってる、妻帯者が。裏切り者め」
俺の言葉を、脩吾はフフンと笑った。
「裏切られたということは、俺たちは相思相愛だったわけか」
「おまえの言った通りになった」
「俺が何?」
「俺は勝ち目のない賭けはしない。希海はきっと俺を好きになる……あの日、おまえが俺に言った」
「それは惜しいことをした。もっと早く素直になってくれりゃ良かったのに」
「そうすれば、結婚なんかしなかったのか?」
脩吾の手の力が、強くなる。
「そうかもしれない。そうじゃなかったかもしれない」
「それは俺が言ったセリフだ。なんだかあの日とあべこべだな」
「随分と細かく覚えてくれてるんだな」
「そりゃあね」
その瞬間、脩吾は何かに気づいたようにビクッとして、握っていた手も、触れ合っていた靴先も離した。
「あの日だけなのか? その、あれ以来、おまえは誰とも」
「脩吾がそうしろと言ったんじゃないか」
「……そうだったな」
脩吾が髪をかき上げる。かき上げるほど長くもないのに。
「安心しろ。責任取れなんて言わない。異動したらもう会うこともないだろうしな。お互い、若かりし日の思い出ってことで」
「……今日は悪酔いしそうだ」
「そうなる前に新妻の待つ家に帰してやるよ」
「はっ」
脩吾は珍しく捨て鉢な笑い方をして、また猪口を空にした。
間もなくして俺は別の基地に異動し、二年間勤務した後に、再び市ヶ谷の古巣に舞い戻ることとなった。転々と各地を異動することの多い幹部候補としては珍しいパターンだが、その理由もまた、脩吾だった。脩吾が突然、職を辞したのだ。
そうと知ったのは戻ってから数ヶ月過ぎてからのことだ。出世の気のない脩吾は、一生を一技曹として過ごすつもりのように思えたから、もしかしたらまだ市ヶ谷にいるのではないかと思い、二年前、俺と入れ違いにここに赴任してきた部下にそれとなく彼の所在を聞いたのだ。だが、返ってきた答えは「退職されました」だった。特定の技曹は常に不足している。その上頼りにしていた脩吾がいなくなり、とりあえずの「手当て」に俺が呼び戻された格好だ。あくまでも推測の域を出ないが、タイミングを考えるとありえないことではなかった。
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