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第10話 恋文

 脩吾のいない市ヶ谷はどこか物足りなかったけれど、それを誰に伝えることもできなかった。自衛官を辞めたのだから、官舎も出て行ったはずだ。彼がどこで何をしているか知る術はなかった。  それから更に一年が経過し、今、俺の目の前には一通の遺書がある。網代脩吾の遺したものだと言う。彼と俺との真の関係は誰も知らない。それなのに巡り巡って俺の元にこれが届き、解読せよと指示されるのは一体どういう因果なのかと思う。  俺はいくつかの方法で解読を試みたが、さっぱり分からなかった。「暗号」は経文のような漢字の羅列で、縦六〇文字、横五〇文字のマス目を埋めるようにびっしりと書かれており、遠目には若干縦のほうが長い、黒い長方形に見えた。ボールペンで書かれたらしき筆跡はインクも筆圧も均一で、たとえばある種の薬品をかけると色が変わるといった代物ではなさそうだ。同じ漢字が何度か出てくるが、それが句点を表しているといったわけでもない。そんな安直な作りなら警察がとっくに解読しているはずだった。  行き詰まった俺は、今更になって気づく。狐塚准尉曰く、脩吾が死んだのは二週間前だ。今日から二週間遡ると――九月一日。そうだ、最後に一緒に飲んだ日、子供の出産予定日も確かその日だと言っていた。いや、娘の三歳の誕生日の翌日に死んだとも言っていたな。俺は狐塚准尉に内線をかけ、脩吾の子の正確な誕生日を聞いた。 「それなら警察から提供された調書にも記載がある。長女、希海。八月三一日生まれだそうだ。そう言えばおまえと名前が同じだな。そんなに仲が良かったのか」 「いえ、特には……。ただ、私の名前は海自にぴったりだとは言っていました」 「なるほどねえ」  それには大して興味がないと言わんばかりに狐塚准尉は言う。  内線を切った俺は、いよいよ確信を深くした。彼の子が予定日より一日早く産まれたのは偶然だろうが、予定日通りに産まれていたなら、おそらく彼の命日は一日ずれた二日になっていたに違いない。    一九八三年九月一日。大韓航空機撃墜事故。日本人最年少の犠牲者はわずか三歳だった。脩吾は、我が子が三歳になるのを見届けて死に臨んだのではあるまいか。  俺はそれらの数字から割り出せるマス目の漢字を拾い出した。拾った漢字を読み、意味の通らないところは音読みして、頭文字だけ抜き出していくと、案の定文章らしきものが浮かんでくる。初歩的な換字式暗号ではあるが、彼と俺が最も忘れ難い数字に連想が働かなければ解読は難しいだろう。しかし、完全な文章にするにはまだ少し足りないようだった。ほかに何か関連のある数字はないか。機種はボーイング747ー230、大韓航空007便。犠牲者数二六九名。思いつく限りの数字で文字を拾い上げていく。 希みえ 横すかからすきだつた ずつと愛してた おれの子わ 実の子でわない あの日しんだ男の とう結せい子で生まれた つまはおさななじみ おれに優しくしてくれた おれがちち親になつてやりたかつたが 無理だつた もうし訳ない おまえにも つまにも むすめにも悪かった 希み おれ一人だけだと聞いてうれしかつた 永えんに愛す しゆうご もっと読みやすくするならこうなるだろう。 希海へ。 横須賀から好きだった。ずっと愛してた。 俺の子は実の子ではない。あの日死んだ男の凍結精子で生まれた。 妻は幼なじみ。俺に優しくしてくれた。俺が父親になってやりたかったが、無理だった。申し訳ない。おまえにも妻にも娘にも悪かった。 希海。俺一人だけだと聞いて嬉しかった。永遠に愛す。 脩吾  俺は彼の妻のこと、そして「出たかった」という故郷での暮らしぶりを調べた。  脩吾はロシア人のクオーターで、その血を色濃く引くのが見た目で分かる母親が、女手ひとつで育ててきた。では、あの堪能なロシア語は母親に習ったのかと思ったが、母親はロシア語を解さなかったというから違うようだ。父親は不明で田舎町では様々な憶測が流れた。母親を侮辱する言葉もしばしば聞かれたらしい。中学生の頃、その母親が亡くなると天涯孤独となった脩吾を容赦なくいじめが襲った。そのとき唯一彼を庇い、優しくしてくれたのが後に妻となった女性だった。彼女もまた病気がちで学校にあまり行くことができず、二人は辛い時期を励まし合ってきたようだ。  脩吾は進学を機に故郷を出て、失ったルーツを取り戻すようにロシア語を学びはじめた。数年後には彼女も治療のため上京し、入院先で知り合った男性と恋仲になったが、相手は抗がん治療を控えており、将来のために精子を凍結したのだという。晴れて治療を終え、結婚の約束をした二人だが、しかしながらあの日、彼は偶然にも出張帰りにあの便に乗ってしまった。遺された彼女は悲しみを乗り越え、凍結精子による妊娠の決意をしたが、不安は尽きない。そんなときに脩吾と再会し、脩吾は生まれてくる子の父親になると申し出た――。 「わたし、知ってました、あなたのこと」  俺は脩吾の墓前で彼女と会った。

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