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第10話 蓉

「あー美味い!ビールもご飯も美味い!労働の後は本当に美味い!」 「先輩、あんまりお酒強くないから、次は、ほらウーロン茶頼むね」 スーパーから少し離れたところにイタリアンバルがあった。 この辺は高級住宅街なので、そのイタリアンバルもおしゃれな感じではある。ここはリーズナブルで美味しんだぞと、下野おすすめの店であった。 「ほら、もっと頼めよ、今日は俺の奢りだから。蓉は大食いだもんな、いっぱい食べろよ」 「下野さん、ありがとうございます!じゃあ...肉食べたいです、いい?それとパスタと…あとは、海斗頼んで」 下野はクラフトビールを美味しそうに飲みながら、蓉と海斗をニコニコと見ている。 すいませーんと、海斗が手を上げ店員を呼び、注文をしてくれた。 最近は海斗の手料理ばかり食べているので、お店の料理でも海斗に選んでもらった方が安心する。 「何?お前ら同じマンションの隣同士に住んでるんだって?で、海斗が食事を作ってるのか」 「そうなんです。こいつ、すっげぇ料理上手いんですよ。何を作っても美味しくて、 俺の胃袋は完全に掴まれてます」 蓉はアルコールに弱いため、少ししか飲んでいないが、それでも酔ってきているらしい。いつもより饒舌になっているのが自分でわかる。ビールグラス半分で酔ってしまったようだ。 「そうか!蓉、よかったな。じゃあ、今日もいっぱい食べろ。それに海斗、お前は必死だな」 カカカカッと、下野は何故か海斗を見て爆笑しているが、海斗は下野の言葉を無視しているようだった。 下野と飲むのは久しぶりだ。本社にいた頃は、海斗や陸翔と一緒によく飲みに連れて行ってくれていた。その頃のことを思い出し話を始めると、三人でバカみたいに笑い合うことになった。 笑い合って少しお腹も落ち着いた頃、下野がピザを摘みながら真面目な顔をして聞いてきた。 「それで?どうした、何があった…」 やはり、蓉がこんな時期に異動をしてきたのはおかしいと、下野は思っているのだろう。 「今回は陸翔のバカが起こしたミス。先輩はそれに巻き込まれちゃっただけ。関係ないんです、本当は」 海斗が不貞腐れた顔をして、下野に話し始めた。この話になるといつも海斗は不貞腐れてイライラした口調で言う。 海斗が一方的に喋って下野に説明している間、当事者である蓉は、海斗の不貞腐れた横顔を見ながらズッキーニのフリットを口に放り込んでいた。フリットは熱いうちに食べると本当に美味しい。 「なるほどなぁ…営業部、相変わらずだな。そうか、蓉は自宅待機って言われたのに、いつの間にか異動に切り替わってたってことになるのか。変わらないなぁ…」 下野も心に引っかかることがあるのか、そんなに驚くこともなく「なるほど」と言いながら淡々と聞いていた。 「で、どうすんだ?この後は。人事は、なかなか進まないぞ~。蓉は戻れるのか?」 「そんな楽しそうな言い方しないでくださいよ。下野さんだってわかるでしょ?とにかく俺は先輩を経理部に戻したい。それと、陸翔とあの女には、しかるべき処罰が適用されて欲しい。お咎めなしなんて、ずるい。そんなの世間では許されない」 海斗はずっと蓉を経理部に戻したいと言っている。それは、蓉が経理部で働いているのが適材適所であり、会社の成長のためにも絶対必要であると言う。理不尽な異動は許さん!と言っている。 残りのフリットを全て食べ終え、蓉は考えていた。 三日間、下野のところで働いてみて、このままスーパーの店舗で働くのもいいかもなと、思っていた。 経理部は、月次決算やら四半期決算などの時期は忙しく、家に帰るのも遅くなる時が多い。自分の仕事だけじゃなく、部下の仕事にも目を配りミスを出さないようにと、 いつもピリピリとし、ストレスを感じることもあった。 部下がいると楽しいこともあるけど、業務の面倒を見たり、時にはモチベーションを上げたりしてあげることも出てくる。 だけど、現場であるスーパーの店舗は違う。体力勝負ではあるが、経理部のようなプレッシャーを感じることはない。店長だと大変そうではあるが、蓉の立場では部下もいないし自分ひとりだから気楽である。まだ数日しか働いていないが、ピリピリとしているところはないように感じる。 知らなかっただけで、別の世界があり、自分には他の仕事が向いているかもしれないと、それにもう忙しい部署から外れて、気楽に生きていこうかなと、蓉は少しそんなことも考えていた。 「蓉は、どうなんだ?経理部、戻りたい?」 「え?」 下野から突然質問をされた。この話の当事者は蓉なので、聞かれるのは当然だ。 「うーん…どうですかね。戻るかどうかは…俺は、会社の判断に任せるしかないかなって思います」 「そうか…まあ、そりゃそうか」と言いながら、下野はまたニコニコとした顔になり、頷いてビールを飲んでいる。 「ダメ!先輩。ダメだよ、そんな弱気じゃ。先輩らしくない!」 横にいる海斗からダメ出しを食らう。弱気になっているつもりはないが、海斗から見るとそう見えるのだろう。 「まあまあ...海斗、蓉だってわかってて受け入れてるんだって。それに異動が絶対ダメっていったらそうでもないぜ?」 「だけど、このままだと先輩は転職しちゃうかもしれない。それが俺は嫌だ」 「転職か…しないよ、俺は」 今のところ転職なんて考えてもいない。だけど、経理部で頑張ってきたのに、急に自宅待機とされ会社から『お前なんかいらない』と言われたようなもんだと、感じているところはある。 それに、自分がいなくても経理部は回っている。当たり前のことだ。だけど、それも何だか嫌だと感じる。 さっきまではスーパーの店舗で働くのも心機一転いいかもなぁなんてことを考え、気楽に働いていこうかなと、気持ちを切り替えていたつもりだったが、心の奥にはモヤモヤとしたものが溜まっている。 そして、何だか悔しいけど、やっぱり経理部に戻りたいと思っている自分がいるのもわかっていた。本当は、まだまだ経理部でやりたいことが残っている。戻りたいという自分の気持ちを認めてしまうと、今回の異動が悔しくてたまらないから、気楽に仕事しようなんて、無理矢理考えている自分の弱さもわかっている。 下野は、蓉や海斗より年上であるが、いつもフランクに話をしてくれていた。意見を押し付けるようなことはせず、笑いながら、ゆるい感じで話を聞いてくれる。それでいて時には厳しく、物事を正しく教えてくれるところがある。だからだろう下野が本社にいた頃は、彼を慕う人を多く見た。 「何がしたいかよく考えてみればいい。畑が違う仕事をすると、色々と気づくことがあるだろうし」 クククと笑いながら下野はビールのお代わりをしている。海斗も続いて俺もと、ビールをお代わりしたが、蓉はウーロン茶を頼む。 「そんで?その肝心な商品は何だったんだよ。陸翔が間違えた契約は」 お代わりのビールには泡が綺麗に乗っていた。なんだっけ?泡の黄金比だっけ?と蓉は下野に届いたビールを眺めた。 「オリーブオイル。うちのオリジナル商品のやつ」 海斗がピザを摘みながらぶっきらぼうに答える。 それを聞き「おお!」と、下野が驚いている。ビールが溢れそうだった。 株式会社モンジュフーズは国内外から良質な食材を揃えて提供しているが、オリジナル商品にも力を入れている。陸翔が契約を間違えた商品は、一番人気である自社開発したオリーブオイルだった。 「あれを三ヶ月間も、原価割れして納品するって、(はる)ちゃん聞いたら怒るぞ〜。つうか、春ちゃん元気?」 驚いていた下野が急にニヤニヤとし始めていた。 「(はる)ちゃんって、春さん?佐藤(さとう)春樹(はるき)さん?」 佐藤春樹は、マーケティング部のリーダーだ。佐藤という名は社内にたくさんいるので、みんな下の名前で呼び、蓉や海斗も『春さん』と呼んでいた。 「うげぇ…下野さん、春さんと仲良いの?」 「何だよ、海斗、うげぇって。仲良いよ?俺は同期だし」 うげぇ、マジか、とまだ海斗は言っている。営業部とマーケティング部は衝突することがあるからだろう。海斗と春がやり合ってるのは何度も社内で見たことがある。 「春さん、見た目は大学生みたいなのに、めっちゃ男らしいですよね」 そう、春は蓉と同じくらい華奢で、少年っぽくて一見弱々しく見えるが、頑固で強気な性格だ。よく言えば芯がしっかりしているってやつだ。 「あれこれ言ってきてさ、春さんは譲らないんだよ。売り上げを伸ばすのを考えろって、この前も言われて…考えてやってるって!ってやり合っちゃった」 下野と春が仲がいいと聞き、海斗がバツの悪そうな顔をしている。 「あははは、春ちゃんは海斗のこと買ってるぞ?知らないのか?かなり評価高いけどな…」 「えーっ、マジで?そんなことないよ。絶対、嫌われてると思う」 「いやいや、あいつは骨があるって、いつも言ってるぞ。陸翔とは違うって」 スーパーの店舗に配属されてもマーケティング部とは連絡を取っているのだろうか。下野の話っぷりからすると、春とは相当仲が良い関係らしいのがわかる。 下野は、畏まることもなく話を聞いてくれる。それに茶目っ気があるというか、ユーモアがある性格だからか、何となく心を開いて、なんでも喋ってしまうような人であり、カッコいい大人の男だと思う。 海斗より更に身体は大きく、スーパーの従業員の主婦達からはワイルドと呼ばれるほど、見た目もかなりイケている。 「下野さん恋人いないの?」 唐突に海斗が下野のプライベートを聞き始めた。 「俺?俺は…ちゃんと口説いてる子がいるよ。残念ながらまだ恋人じゃないな…ずっと口説いてるんだけど、一筋縄ではいかないから、なかなか振り向いてくれないんだよなぁ」 「え?誰?スーパーの人?主婦しかいないじゃん!不倫はダメですよ…あっ!もしかしてお客様?それもっとダメ!お客様に手を出しちゃダメだから」 蓉はスーパーの従業員の顔を思い出し、下野に伝える。三日間だけしか勤務していないから、まだ知らない人はいる。 「違うよ、そんなんじゃないから。俺、結構頑張ってんだよ?だけどなぁ…」 「すげぇ…大人でも恋ってするんだね。俺、恋愛はパス。好きな人も、頑張り方もわかんないし、必要ないな」 そう蓉が言うと、下野と海斗に異常に驚かれた。 下野には「お前、おじいちゃんかよ!」と大声でツッコまれ、海斗には「先輩、その辺はマジで変わって!お願いだから!」と何故か力強く言われてしまった。

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