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第17話 蓉
スーパーへ出勤し、品出しをして、バックヤードでダンボールを畳んでいたら、すっかり夕方になっていた。そろそろ退勤時間だなと思っていたら、下野に店長室まで来るようにと呼ばれた。
「おっ、蓉!お疲れさん。今日は大変だったよな、搬入が多かったろ?海斗が頑張ったオリーブオイルのシリーズだろ?あれのドレッシングが発売されたから、張り切って多めに発注したんだよ」
自社開発した商品の人気ランキングで、先週堂々一位になったのは、新発売したあのオリーブオイルだった。
海斗の目論見通り、モンジュフーズマーケットの利用者は、富裕層で意識が高い人が多いため『健康!美容!ダイエット!いずれもに効果的』がセールスポイントである、あのカロリー大幅カットされているオリーブオイルが爆発的に人気になり、今では売り切れ続出している店舗が多くあった。
今度はそのオリーブオイルを使い、ドレッシングの展開が始まっていた。どこの店舗も多めに発注しているから、取り合い合戦が始まっていると下野は言っている。
「下野さん、何ですか?俺、呼び出しされたけど…」
店長室に入ると、モニターがついていた。下野はいつも店長室に自分以外の誰かがいる時は、モニターの電源をオフにしているので、今日は珍しいなと思い、蓉は何となく目で追っていた。
「蓉、内示だ。急だけど、来週から経理部へ異動となる。頑張れよ」
「…えっ?」
「よかったな!やっと、経理部に戻れるぞ。来週の月曜日からだから、とりあえず経理部の吉田さんに電話入れとけよ。お前の復帰は、吉田さんがかなり頑張ったらしいぞ。俺は痩せた〜って、電話してきたから、相当大変だったらしい。それと、この前ここまで来た可愛い子?あっ、彼女じゃないってわかってるから…あの子も頑張って、蓉が戻ってきて欲しいって訴えたらしいよ」
「本当ですか…わかりました。下野さん、ありがとうございます」
やっと戻れる。経理部の吉田部長にしつこいくらい連絡をしていたのが伝わったようだ。それに、下野もきっと蓉の異動に向け、動いてくれていたんだろうと思う。蓉は下野に深々と頭を下げてお礼を伝えた。
「…なんか、元気ねえな。大丈夫か?最近、飯もそんなに食べてないだろ。海斗どうした、あれ?今日は来てないか?」
下野がモニターに目を動かした。無意識だろうが、モニターをいつもチェックしているのが動作でわかる。
「ああ、海斗は忙しいみたいで…俺は大丈夫ですよ。最近ちょっと疲れてるみたいだから、元気なかったかも。でも問題ありません」
あれだけ戻りたいと思っていた経理部だが、海斗のことを考えると少し気が重い。海斗と、あの女性が一緒にいる姿を、本社で目にすることが多くなりそうだ。
「スーパー店舗に異動なんて、畑違いだし大変だったと思う。それなのに、蓉は本当によく頑張ってくれたよな。レジのシステム開発も考えてくれてるし、現場のみんなは便利になれば喜ぶよ。それにコミュニケーションも蓉はバッチリだったな。パートのおばちゃん達とも仲良くなってたし、いなくなるってわかったら、みんな寂しがるだろうなぁ…蓉は王子様って呼ばれてたしな。あはは、じゃあ、あと一週間?ってとこか…それまではよろしく頼むぞ!」
「はい!ありがとうございます。俺、本当にポンコツだったけど、下野さんと一緒に仕事できてよかったです。最後まで精一杯頑張りますから、よろしくお願いします」
下野に改めて挨拶し、店長室を出たところでパートの人から「蓉くーん、探してたよ。ちょっと助けて!レジ!」と声がかかった。蓉は走ってレジまで向かって行った。
◇ ◇
仕事が終わると自宅に帰るだけだ。今日はレジでトラブルがあったから、早番だけど少し遅くに仕事が終わった。
今日も海斗の帰りは遅いのだろう。最近は全く顔を合わせていない。メールやメッセージアプリの連絡も、何となく読むのが嫌だから、ここ数日は携帯を放置し持ち歩くこともしていなかった。携帯は充電が切れたまま、部屋の隅に置きっぱなしにしてある。
だけど、経理部の吉田部長には、異動の内示を受けたと連絡をしなくてはならない。家に帰ったら、今日こそは携帯を充電しなければと思う。
仕事終わりに川沿いの道を歩き、自宅に向かう。このまま真っ直ぐ歩くと到着する。
もしも今、自宅に帰って隣に住む海斗と鉢合わせをしたら、どんな顔をしていいかわからない。それに、海斗が誰かと一緒だったらと思うと尚更だ。
早く自宅に帰り、携帯に充電をし、吉田に連絡をしなくてはいけないのに、家に帰りたくなくて、ノロノロと川沿いを歩く。
とうとう川沿いにあるベンチに座ってしまった。自宅までの帰り道、足が重くなり急に歩きを止めてしまった。
蓉はボケっと川を眺める。夕方になり少し風が出てきたようだ。日も暮れてきたので、帰宅をする人が多い。みんなこの川沿いを抜けて、住宅街に向かう。蓉とは反対方向に歩いている。
このまま夜中になるまでここにいようかなと、意味のないことを考え始めていた。
「あれ?蓉くん?」
「…あっ、玖月 さん」
スーパーにいつも来てくれている岸谷の恋人である玖月に、ばったりと会った。
「どうしたの?こんなとこ座って…」
「えっ?あ、うーん、なんとなく?」
玖月が怪訝な顔をしている。
なんて答えようかなと思っていたら、突然大粒の雨が降り始めた。この時期の雨は嫌いだ。降り始めの雨は尚更嫌いだ。
「あれ?雨降ってきたよ。げっ!やば!めっちゃ降ってきちゃった〜。ちょっと蓉くん、うちに寄っていきなよ。傘あるから、ほら、走って!行くよ!」
自分と同じくらいな体型の玖月に、腕をグイグイ引かれてしまった。案外、玖月は力強い。蓉はされるがまま引っ張られ、玖月と走って家まで行くことになった。
岸谷と玖月の家は、この辺では一番大きなマンションの最上階にあるペントハウスだ。以前、海斗と二人で遊びに行ったことがあるが、部屋も広ければ、部屋数も多い。初めてお邪魔した時は、あまりの豪華さに唖然としてしまった。
「蓉くん、大丈夫だった?もう〜、最近よく降るよね。今日はずっと天気いいはずなに…」
はい、とタオルを渡された。さっきいた場所から近いとはいえ、急に降り始めた雨の勢いは強く、意外と服が濡れしまっていた。
「玖月さん、すいません。ありがとうございます。でも、思ったよりすごい濡れちゃってるから、このまま帰りますよ」
こんな綺麗なペントハウスを、雨で濡れた服で汚すわけにはいかない。しかし、もう帰りますよと伝えるが、玖月はパタパタと動き始め、スウェットを用意してきていた。
「これ!着て。蓉くんの服を乾燥機に入れておくから。ほら!こっちきて、濡れてるから、早く!ここで着替えて上下の服をちょうだい。下着まで濡れてたら、新しいのあるよ?交換する?」
「い、い、いいです!大丈夫だよ」
「じゃあ、早くね!」
有無を言わさず強引な玖月を唖然と見ていた。見た目とは違い、案外強引で力強い人なんだなと蓉は思った。
借りたスウェットは玖月のものらしい。サイズは蓉にピッタリだった。
「玖月さん、本当すいません。ありがとうございます。俺がボケっとしてたからさ、迷惑かけちゃったね」
「本当はさ…さっきから蓉くんを見てたよ?」
ソファに座っててと言われ、玖月はキッチンで紅茶を入れているのだろうか、いい匂いが部屋に広がってきていた。
「あのね、さっきの川沿いのところで、あれ〜?蓉くんかな?似てるけど、雰囲気が違うなぁ…って思って立ち止まってジッと見てたんだ。それで、やっぱり蓉くんだ!って思ったんだけど…元気ないね、どうしたの?」
どうぞと出してくれたのはやっぱり紅茶だった。ソファに二人で座り、紅茶を飲むとあったかくて少し落ち着いた。
「今度さ、本社に戻ることになったんです。元々いた経理部に異動で。やっと、戻れるって思って、嬉しいんですけど…」
「わっ!そうなんだ!経理部に戻れてよかったじゃない。なのに、どうしたの?」
会社の人間ではない玖月に、少しだけ気持ちを聞いてもらいたくなってしまった。
「玖月さん?変なこと聞きますけど…心臓が冷たくなるって思うことある?」
本当に変なことを言い出したと玖月は思ったようで、眉間には皺がよっていた。
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