18 / 46

第18話 蓉

「苦しくて、息ができないってことないですか?大きく深呼吸が出来ないっていうか…それでいて、考えると心臓が冷たくなりそうな気がするんです。ゆっくり寝ることもできないし、寝たってすぐに目が覚めちゃう。それに、何を食べても美味しくない。全てに味がしなくなったっていうか… 今、そんな感じなんです。さっき玖月さんに会った時も、足が前に進まなくなって、 家に帰るのもなぁ、めんどくさいな…って考えてた。怪我も病気もないし、至って健康なんですけどね。これから本社に異動となったし、頑張って仕事しなくちゃいけないんだけど、どうしちゃったんだろ、俺。何か変なんですよね」 玖月に向かって蓉は心に置いてある気持ちを打ち明けた。気持ちを打ち明けられた玖月は目の前で、キョトンとした顔をしている。 「蓉くん?それってさ、恋の話だよね。今、恋の話をしてるよね?」 「ええっ!恋じゃないですよ。何で恋って思うの?違いますって」 恋だと言い出した玖月に、今度は蓉が怪訝な顔つきになった。 「そうだよ?きっと。蓉くんさ、今のそれって誰かのことを思い出して喋ってない?」 「誰かって…」 蓉はそう言いかけたが、その後の言葉が続かなかった。 それは心当たりがあり、玖月の言う通り、誰かを思い出し喋っていたからだ。しかも蓉が思い出している人は、ひとりしかいない。それは海斗のことだ。 思い出しては、心臓が冷たくなるような錯覚があり、足が前に進まなくなって、ベンチに座り込んでいた。 海斗の見たくない姿を見てしまうかもしれない、海斗から聞きたくない言葉を聞いてしまうかもしれない。 そんなふうに考えると、また苦しくて、息が上手くできなくなってしまう。この前からずっとその繰り返しだった。 「誰かのことを考えると、苦しくなったり、息が吸えなくなるって。それってきっと…」 玖月が窺うように蓉を横から見つめている。そうだよね?と玖月の目は言っている。 「いや…いやいやいや、違いますよ。だって...ほら、玖月さんだって恋してるじゃないですか。岸谷さんに恋してるでしょ?だけど、心臓が冷たく感じたり、苦しくなったりしないでしょ?だから違いますって。恋じゃないですよ、こんなの」 玖月の言葉を笑い飛ばそうとして、無理矢理に笑おうとするが、自分が笑えていないことはわかっている。 「蓉くんが知ってる恋ってどんなこと?浮かれてるってこと?」 「そうそう、玖月さんと岸谷さんみたいな感じ。ずっと二人の世界にいるっていうか…そんな感じ?でしょ?恋してるって」 うーん、まあそうだけどさぁ…と、玖月は苦笑いしている。自分たちが周囲からそう見られていることは、わかっているようだ。 「でもさ、恋って厄介だから浮かれることばかりじゃなさそうなんだよね。気持ちが沈んだり、胸になんか挟まってしまったような痛い感じがする時があってさ。その人のこと考えると、悪い方にばっかり考えが偏っていったりして…あれって、なんだろうね。嫌だよね」 あははと玖月は笑っている。いつも明るい玖月でも、そんな想いをすることがあったのだろうか。今の玖月からは想像がつかない。 「それにさ、蓉くんは恋って二人ですることだと思ってない?」 「うん…そうかな…。そう思いますよ、甘ったるくって、イチャイチャ二人でするのが恋なんじゃないですか?」 「甘ったるくか…でも、それは多分、愛なのかな。難しいね日本語って、恋も愛もあるし」 「愛?愛と恋なんて同じでしょ?言い方が違うだけで、一緒じゃないですか」 愛だの恋だの、よくわからないが同じこと。ふわふわとしていて掴めないが、ずっと浮ついてるのが続いてることだと思う。 「恋って…満たされなくて、どうしようもない気持ちだと思うよ。人によって感じ方は違うのかな、ワクワクする人もいるだろうし、胸が苦しくて息ができなくなる人もいると思う。恋をしてイライラする人だっているっていうよ?感じ方は人それぞれ違うけど、いずれも満たされてないから、自分の中でギャップが埋まらないんじゃない?なんだこれ?って、なんでこんな気持ちになるんだ?って。そうやってひとりですることが、恋なんだと思う」 「げぇ…そしたら、厄介じゃないですか。ずっとそんな気持ちのままでいたら、押しつぶされちゃいますよ。自分では手に負えないギャップなんて、俺、嫌ですよ。今でも、もう嫌でたまんないのに」 あははと、やっと蓉は声を上げて笑えた。 今の状況が嫌だと口から出た言葉を、認め始めている。 「本当に厄介だよね…」 隣に座る玖月の声が心地いい。ここ最近ずっと眠りが浅く、よく眠れていなかった。 理由はよくわからない。だけど恐らく、その厄介が原因なのかと思い始めている。 隣にいる玖月の声で気持ちが落ち着いてきていた。もしかしたら今日はよく眠れるかもしれない。 「恋か…あーあ、玖月さんに、この気持ちに名前をつけられちゃったかぁ…」 玖月に気持ちを言い当てられて、唖然、呆然を通り越して、笑っちゃう気分だ。 それに、自分も恋が出来る人間だって知ってびっくりもしている。 恋愛なんて必要ない、このままずっと自分はすることがないものと思っていたのに。 「名前がつくと、どうなるかな?」 「うーん、どうでしょうか…俺は、何か変わるのかな。玖月さんどう思う?」 「恋なんだから、仕方ないじゃんって開き直れるんじゃない?誰にも迷惑かけないし、気分が上がったって下がったって、恋なんだから。ひとりで恋してんだって思えば、自分の中のギャップも納得できるんじゃない?」 憎たらしいけど、認めなくてはならない。この気持ちが恋ということ。海斗に恋をしているということも…認めたら、しっくりきてしまったことも。 「ただいま」と、岸谷の声が聞こえてきた。長い時間、玖月と話し込んでしまったようだ。 「岸谷さん、お邪魔してます」 リビングで会った岸谷に蓉は挨拶をした。玖月の恋人である岸谷が帰宅していた。 「おっ、蓉!久しぶりだな」 「優佑さん、おかえりなさい。さっき土砂降りの雨の中、蓉くんに会ったんです。蓉くんの洋服を乾燥機に入れておいたから…乾いたかなぁ」 玖月はニッコリを岸谷に笑いかけた後、パタパタとランドリーの方に走っていった。 「蓉、飯でも食べていくか?蓉はいっぱい食べるからなぁ。俺が張り切って作っちゃおうかな。なっ、何食べたい?ちょっと待ってろよ、すぐにシャワー浴びてくるから」 そう言って空気を明るく流してくれる岸谷は、帰宅した家に蓉がいても驚かなかった。多分、玖月が既に岸谷に連絡をしていたのだろう。蓉には何も聞かずにいてくれる、岸谷の気持ちも嬉しい。 「蓉くん、洋服が乾いたよ。雨も上がったようだし良かった。夕ご飯食べていくでしょ?何食べる?何がいいかなぁ」 「玖月さん、ありがとうございます。だけど今日はこのまま帰ります。色々お世話になりました。洋服も乾かしてくれて...それと、名前もつけてくれたし?」 あははと、また蓉は声を出して笑えた。このまま笑って、苦しい思いから解放されればいいなと思う。 「あはは、名前ね...案外、愛着湧くかもよ?」 玖月も一緒に笑ってくれた。恋という名前がついたものに、愛着が湧くようなればいいなと思う。 海斗に会いたい、会いたくない。 ウダウダとそんなこと考えたくないが、恋なんだし仕方ないじゃんと、玖月が言ってた通りに受け止めてみた。 それでもいいかと思えてきた。玖月に教えてもらったことで、気持ちの整理がちょっとだけついた。 「そうなの…帰る?じゃあ送って行こうか?」 「ええーっ、大丈夫ですよ。子供じゃないし、ゆっくり歩いて帰ります。もう平気です、ありがとうございます。それと…」 「それと?」 「それと…玖月さん、前に俺が言ったこと覚えてる?俺も岸谷さんみたいに恋して浮かれてたら、笑ってくださいよって言ったこと」 玖月に尋ねた。玖月はそのことを覚えていたようで頷いて笑っている。 以前、蓉と海斗で岸谷のこの家に遊びにきた時に、玖月にそんなことを伝えたことがあった。 大人になると恋愛って落ち着くのだろうと思っていたけど、岸谷や玖月を見ているとそうでもないんだなと、その時思った。だからもし岸谷と同じように、愛や恋で浮かれていたら、その時は俺のこと笑ってくれていいよと、玖月に言っていた。 あの時、自分は絶対そんな感じにはならない、恋愛に左右されることはないと思っていたから、そう言えたんだ。 それなのに、今ではその恋という厄介なものに振り回されている。恋して浮かれている大人だと、岸谷を見て笑っていたけど、 浮かれることができることは凄いことなんだなと、今はそうわかり、岸谷や玖月が羨ましく思う。 「あの時は…よくわかんなかったけど。今は、わかるかなぁ。岸谷さんみたいに、楽しそうに浮かれることができないから、ちょっと俺の状態はよくないけどさ。厄介なことの当事者になると、全く笑えないことがわかりましたよ。大人になる前に、その辺のことは誰も教えてくれなかったから、今から勉強します」 「蓉くん、また遊びにきてよ。その時に優佑さんみたいになってたら、笑ってあげる。もし、なってなかったらまた二人で厄介なことについてトコトン話し合おう。その時は、夜中まで付き合うよ」 玖月の言葉がいちいち心に響く。岸谷と玖月の関係が改めて羨ましく感じる。 乾かしてくれた洋服に着替え、玄関に向かっている途中に、シャワーから出てきた岸谷に会った。 「おっ、なんだ?蓉、帰るのか?飯は?食ってけよ」 「あっ、岸谷さん、突然お邪魔しました。玖月さんが服も乾かしてくれて...色々ありがとうございました。今度また呼んでください。その時はうちの会社の新しい商品をまたいっぱい持ってきますから」 「ああ?そうか、じゃあ気を付けて帰れよ」 何となく、蓉の気持ちを察しているのか、やっぱり岸谷は大人だなと思う。 玖月にありがとうと伝え、蓉は二人のペントハウスを後にした。

ともだちにシェアしよう!