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第19話 蓉
さっきまで土砂降りだった雨は上がり、外に出ると雨上がり特有の、もたついた空気が身体にまとわりつく。
住宅街を抜けていつもの川沿いの道に入った。ここを真っ直ぐ歩いて行けば嫌でも家までたどり着く。
さっきまで雨が降っていたので、川沿いの道に人の気配はない。ひとりで歩くこの道は寂し気であり静かでもあった。
川沿いの道はきれいに舗装されているところもあれば、これから舗装するであろう、デコボコな道もまだ残っている。
デコボコな道のところには、土砂降りの後の、水たまりが点々とできていた。水たまりを避けながら歩いていくので、蓉は必然的に足元だけを見ながら歩き進むことになる。
ぽつぽつと出来ていた水たまりを避けて歩いていたが、突然目の前に道の端から端まで続く、横に長い巨大な水たまりが出現した。その前で、蓉は足を止めてしまった。
どうしても避けられない巨大な水たまりは、右に動いても、左に動いてみても、足を踏み入れないと向こう側へ渡ることができないようだ。
濡れて不快な思いをするのがわかってるのに、この巨大な水たまりには、必ず足を踏み入れなければ、前に進むことができないらしい。
足が濡れるとわかっているのに、踏み出さないといけないってことは、決意をする時間が必要だ。何となく、今の自分の気持ちに似ているかもしれないと思った。
遠くから、バシャバシャと水たまりなど気にせず走っているであろう人の音が聞こえる。
足元が悪い中、ランニングをしているのだろうか。物好きな人もいるもんだと、蓉は水たまりに写るぼやけた自分の姿を見つめていた時、ザッパッと、全身に水しぶきが降りかかってきた。
水たまりをぼんやり見つめていた自分の姿とは別に、紺色のバスケットシューズの、つま先が見えた。
蓉は一瞬遅れて、水たまりの水を全身に浴びたと気がつき、バスケットシューズの足元から上を見上げていくと、よく知っている顔があった。
「海斗?あれ?どうした…」
蓉が足を踏み入れるのを躊躇していた巨大な水たまりを、海斗は気にもせず怒った顔をしながらバシャバシャと大股で歩き進み、蓉の腕を掴んでその水たまりの中に引き寄せた。
「先輩。俺、怒ってるからね」
海斗はそう言うと、蓉の手を掴みグイグイと引っ張り家の方に向かって歩き始める。躊躇していた水たまりは、海斗によって呆気なく足を踏み入れることになった。
どうしたってことだろう。海斗は蓉を迎えにきたのだろうか。さっきまでは会いたくないと思っていた男に、手を引かれて歩いている。
海斗の、紺色のバスケットシューズは、水に濡れて色が変わっていた。家からずっと走ってきたのだろうか、水たまりに入ることも気にせず走ってきたのだろうか。
「海斗、なに?どうしたんだよ」
聞いても答えてはくれず、怒った顔はこっちを見てもくれず、前だけを向いている。
「先輩、携帯は?なんでずっと連絡取れないの?隣に住んでいるのに、居留守?俺のこと避けてるよね。今日のこと、俺には教えてくれないの?」
「今日?ああ、玖月さんのところに行ってたことか」
「違うよ、でもそれは知ってる。さっき、岸谷さんから連絡もらったから。だからこの道を通って先輩が帰ってくることもわかってた。だけど、俺が言ってることは違うことだから」
掴まれた手は離されない。海斗は怒っているが蓉の手は離さず、掴んだままでいる。
「な、なんだよ...違うことって」
「異動でしょ?内示されたんだよね、経理部に。戻れるんでしょ」
そうだった。自分の気持ちが忙しくて、経理部に異動することは忘れていた。
早く家に帰って吉田に連絡をしなければならない。夜遅くになってしまったので、連絡は明日の方がいいのだろうか。いや、それでは異動先の上司に対して失礼であると、蓉は慌て始めた。
「忘れてた!吉田さんに連絡しないと!ヤバい、携帯は充電が切れてるんだ」
とにかく、早く家に帰って充電をしなければと、慌てて足がもつれそうになったところ、手を繋いでいた海斗が立ち止まってしまったため、グイっと身体をまた引き寄せられてしまった。
「どうして!そんな大切なこと忘れるくらい何を考えていたの?もう経理部に戻りたくないの?先輩がわからない。今まで何を考えていたか教えて...だけど、とりあえず早く吉田部長に連絡した方がいいよ。これ使って」
海斗がデニムの後ろポケットから携帯を取り出し、吉田へ電話をかけてくれていた。
数回コールして吉田に繋がった。
「…はい、ありがとうございます。経理部に戻れるのは、吉田部長にご尽力いただいたおかげです。また頑張りますから…はい…」
海斗から携帯を借り、無事に吉田へ連絡をすることができた。来週からまたよろしくお願いしますと最後に伝え、電話を切った。
吉田はやはり、蓉からの連絡を待っていたようだった。蓉からメールをもらったが、返信出来なかったこと、それとあの時のことは、直接、蓉に会ったら謝りたいと言っていた。
来週、本社に出勤したら時間をとって話をしたいと吉田は言っていた。
やっぱり今夜中に連絡をしておいてよかった。吉田の立場では色々なことがあったことも、何となくわかる。力不足により、復帰が遅くなってすまないと、吉田からは何度も言われた。
その吉田との電話の会話を聞いていた海斗は、少し落ち着いたように見える。静かな川沿いの道だから、通話口から声が漏れて聞こえていたようだ。吉田のホッとした声と、蓉の感謝の声が交差して聞こえ、海斗は安心したような顔を見せていた。
携帯を海斗に返すと、また蓉の手を海斗は握り歩き始めた。さっきよりはゆっくり歩いている。
「家に着くまでに、ひとつずつ教えて。なんで俺を避けてた?携帯も充電してないなんてさ、どういうこと?」
「それはさ...お前が忙しそうだなって思って。だから邪魔しちゃダメだろうって思ってたから…」
「俺は先輩のこと邪魔だなんて思ってないし、そんなこと言ってない!先輩が勝手に距離を置いてるだけじゃん。忙しくても会ってもいいはずだし、会うことはできるよ。隣に住んでるんだし。それに俺の仕事は今までとそんなに変わらないよ?多少、遅くに帰ってくる日はあったけど...やっぱり、急にそんなこと言うなんておかしいよ、先輩。じゃあさ、家の鍵は?なんで返した?それから、先輩の欲求は?どうなったの?」
立て続けに海斗が質問をしてくる。
隣同士で住んでいるとはいえ、お互いがそれぞれの家の合鍵を持ってることは、普通ではないと答えると海斗は、言い返すことはしなかったがムッとしていた。
「それと欲求は...もう、いいだろ?最近は食事も人並みだし、睡眠も十分取れてるよ。それと...性欲は、もうお前の世話にはなれないし。ほら、お前に俺の面倒みてもらうのも悪いじゃん。大丈夫だよ、なんとかなってるから。そんな無理してお前がやらなくても大丈夫だから」
本当は、食事はのどを通らず、眠りは浅い、性欲なんてどこかへ行ってしまったようで、全く無い。海斗にバレないように、必死に嘘をついた。
胸が凍りつきそうだった。
心臓が冷たくなる。
人の性欲の面倒をみるのなんて、どう考えても普通じゃない。今までがおかしな関係だったんだ。快楽のためだけにセックスをしていたなんて。
あの頃はそれが出来ていた。海斗に蓉の性癖を偶然にも知られてしまってから始まった関係だ。蓉の性欲を満たすうちに、お互いの快楽だけを求めてセックスをしていた。
だけど今は違う。
恋という名前がついている。
今の気持ちを持ったまま、海斗に抱かれることは出来ない。好きな人から、快楽のためだけに抱かれるなんて、そんな辛いこと考えただけでも心臓が凍りそうだ。
恋は厄介だ。こんな気持ち、持たない方がよかった。今まで出来ていたことが出来なくなるなんて、本当に厄介だ。
「面倒なんて思ってない!俺の気持ちがそうだろうって?勝手なこと言うなよ!俺の気持ちを勝手に作るなよ!」
急に立ち止まり、大きな声を出し海斗は怒っている。
だけど繋いだ手は放してくれない。
繋いだ手が視界に入ると、何故か胸が痛くなる。切なくなるとは、こんな気持ちなのだろうか。
「いや…だって、お前、結婚するかもしれないんだろ?」
言いたくない言葉を言う。
聞きたくないのに、問うてしまう。
海斗が認める姿を見たくない。それなのにこんなことを言わせるなんて、海斗のことをひどい男だと勝手に思ってしまう。
海斗と昼も夜も行動を共にしている女性がいるのはわかっている。実際、蓉だって二人の会話を耳にしたこともある。
「結婚?なんだそれ。俺は知らないよ?結婚なんてしないし、知らない。誰だよそれって、俺の相手は誰だか教えてくれよ。なんで、先輩がそんなこと言うの?ひどいよ!俺にこんな苦しい想いをさせて…本当に先輩は、ひどいことをする」
「はあ?なに言ってんだよ。苦しいのは俺の方だろ?いい加減にしろよ!お前がランチでデートしてるのは、知ってるんだよ。バカにするな!この前本社に行った時、後ろの席でお前が女性と二人でランチしてたんだよ!会話が聞こえてきた。昼も夜もいつも一緒にでかけているから、本社ではそろそろあの二人は結婚するんだろうって、言ってみんな知ってるんだよ。なんで隠すようなことするんだ!」
頭にくる。
言いたくないことを言わせられたことに腹が立つ。胸が痛くてたまらない。喋るたびにチクチクと胸が痛む。
「先輩...俺、女の人と二人でランチなんてしてないよ。勘違いじゃない?その時…俺のこと見た?ちゃんと俺だった?ねえ、そこは、はっきりさせて欲しい。俺、このままだったら胸が張り裂けそうだよ」
考え込むように、海斗がトーンダウンして話し出した。だけど鋭く見つめられている。目を離すことは許されない。
「み、見てない。けど...だけど!声はお前だった。女性の声も聞いたし、お前の名前も呼んでいた。夜、どうする?って確認して…なにか、持っていくみたいな話を…していた」
「それさ…総務の清田さんだよね?確かにランチは一緒だった、多分、会社近くの店だな。だけどその時は、俺と、清田さんと後輩も一緒にいたけど確認してる?二人きりじゃないよ、清田さんと二人で食事なんてしたことないから。それさ…仕事だよ。清田さんの叔父さんと契約したくて、ここ最近は毎日その叔父さんのところに行って交渉してたから。だから清田さんにランチを食べながら、叔父さんとアポ取るのをお願いしてた。後輩の仕事だけど、なかなか進まないから、俺が一緒に行ってたんだ。それから後輩って、辻井 だよ。先輩、知ってるよね?辻井」
「へっ?辻井…?」
辻井は営業第二部に所属している者だ。営業部にいるのに、ものすごく物静かな男だから、企業との契約や交渉が上手く進まなくて、営業部みんなで手を焼いているというのは社内で有名だった。
「アイツさ、やっぱりまだ交渉とか苦手でさ、これからどうしようかって部内でも話が出てるんだよね。ランチも夜の交渉も嫌がらないで着いてくるんだけど、話が出来ないから…俺と二人だと喋るんだけど、ランチでは清田さんもいるから、多分アイツ一言も喋ったことないと思うよ」
わかる。目に浮かぶ。辻井とはそういう男だ。経理部に辻井が来ても、蓉と二人だと話はするが、優香や他の人がいると一切喋らなくなる変わり者だ。社内のほとんどの人が、辻井の声を聞いたことがないと言っている。それは有名な話だ。
「辻井なら、なんか…わかる気がする。あの場にいても喋ることはなさそう…っていうのはわかる…」
確かに、優香とランチをした時は、声は聞こえていたが姿を確認することは出来なかった。そうか…辻井が一緒だったのか。
「先輩…俺、誤解されてた?」
繋いだ手を解かれた。手が離れハッとした拍子に海斗に抱きしめられた。思いっきり、キツく抱きしめられたから、海斗の心臓の音が身体に直接伝わってくる。トクトクとその心臓の音は速い。走ってきたからだろうか。
「先輩、俺、清田さんと結婚なんてしないよ?好きでもない人と結婚なんてするわけないじゃん。それよりさ、ねえ、教えて?先輩は、なんで苦しいの?」
「うげっ!」
そういえばさっき、苦しいのは俺の方だ!と勢いで言ってしまった。
売り言葉に買い言葉のようだが、自分の言葉を思い出し、びっくりした蓉は身体を離そうと身動きをするが、海斗はびくともせず抱きしめたまま、離してもくれない。海斗の身体が大きくて、逞しいと今知ったような気がする。
それに海斗はちょっと笑っているようで、身体が小刻みに揺れている。笑っている理由は、何故だかわからないが、さっきまで怒ってばっかりいたのに、急に笑い出すなんて憎たらしいと感じる。
「お、お前だって、苦しいって言ってただろ?」
たしか海斗も苦しいと言っていた。苦し紛れになんとか思い出して、言ってやった。
「言ったよ?俺は苦しかったもん。先輩がひどいから、ずっと苦しかった。俺の気持ちわかってる?だけど、先輩も俺と同じように苦しかったから、俺に会うのを避けてた?そうなの?教えてよ」
いつもの推しの強い海斗に戻ってきたようだ。抱きしめられているので、顔はよく見えない。
「俺、先輩のこと好きだよ。諦めようかと思ったけど、やっぱり諦められなかった。避けられて、めちゃくちゃへこんだけど、好きな気持ちは変わらなかった」
「ええーっ!お前!えっ?うそ?好きって…その…えっ…諦める?」
「はあ?今更驚くって…何だと思ってんの?いや…俺、結構わかりやすく好きって態度に出してたけど…先輩、恋人になってもらいたいって好きだからね。わかってる?」
ゆっくりと、抱きしめられていた手が緩く解かれていった。海斗の顔を見るのは怖かったけど、蓉は恐る恐る見上げてみた。
海斗はもう怒っていなく、少し笑いを堪えた顔をしている。やっぱり憎たらしい。
「先輩…避けないでね…」
背の高い海斗が屈んでくる。目を閉じる前に、ゆっくりと長いキスをされた。
キスをされたら全身に急スピードで血が駆け巡っていくようだった。手足の先まであったかくなり、心臓が動き始めたような気がする。さっきまで苦しくて、何をやっても上手くいかない気がしてたのに。
「よかった、避けられなくて…やっと先輩にキスができた。これからちゃんと俺と付き合って。いいよね?俺、毎日先輩と向き合っていきたい。好きだって気持ちを真剣に伝えていきたいよ」
海斗の強い眼差しに倒れそうになりながら、蓉は必死に足を踏ん張っている。
海斗はやっぱり真っ直ぐだ。
真っ直ぐに蓉を好きだと言ってくれている。
そんな真っ直ぐな海斗に、今、自分も素直に気持ちを伝えなくてどうするんだ。
伝えなかったら、これまでの苦しい想いが報われなくなる。カッコつけたり、恥ずかしがってる場合ではないと、蓉は海斗の顔を見ながらフル回転で考え始めた。
恋はひとりでするものだと玖月は言っていた。二人でするのは…なんだっけ、愛って言ってたよな、確か。大人になっても誰も教えてくれなかったことだ。
その気持ちを少し教えてやろうかと、海斗を見つめる。
「わかった…じゃあ俺も、今から本気でお前を口説く。二人で愛を始めることにしよう」
「何その殺し文句。最高!先輩」
もう一度抱きしめられてキスをされた。
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