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第15話
中絶するか、産むか。アンの計画書を見ながら、一人帰国した暁は静かに考えていた。
あの日、怪我をして戻って来た公彦はまるで獰猛な獣の様な顔をしていた。それでも、暁にかける声は優しかった。
「君の選択も必ず守るから、出来る事を何だってする。どんな事でも、どんな無理難題でも。君を最愛に思う、糸輪公彦という一人の人間として」
そう言っていた。それは、暁の希望を受け入れたという事だった。
常識では到底考えられない様な事態でも、糸輪公彦なら何とか出来るかもしれないと思わせてくれる。そんな、あまりにも深刻な表情だった。お腹の中に居る本来なら産まれてはならない、不自然な小さな子供も本当に守ってくれるかもしれない。たった一つの公彦との繋がり。そして、絶対に叶わないはずの夢。
中絶しても産んでも、どちらも自分の身勝手だと思った。人生は何が起きるかわからない。何不自由の無い生まれ育ちをしてもいきなり性転換されて孕む……なんてこともある。かもしれない。どんなに自分が愛情を注ごうとも不幸は起きる。どんなに自分の選択が不適切でも幸福な時は訪れるだろう。そして、お腹の中に居る小さな人間は独立した一人の人間なのだ、五体満足では産まれないかもしれない、寧ろ生きて産まれないかもしれない、どうしようもない病気や事故で命を落とすかもしれない。生まれて来なければと思う様な苦しみを与えるかもしれない。しかし、憎まれるなら直接憎まれよう、産まれて、立ち上がり、言葉を話す人間に罵詈雑言を浴びせられよう、この子にいつか殺されたって構わない。そう思いながら、産もうと決めた。
暁は、東雲を頼った。姉を頼る事はしなかった。彼女も助けてくれるという確信があった、そういう人だ。しかし、だからこそ、出来なかった。
東雲は啞然とした、そして暁のやりきれなさを代弁する様に心底から憤慨した。当たり前である。しかし、彼はすぐに出来る対処をしようと言った。自分がいくら手を尽くしても暁も子供も共に死んでしまうかもしれない。しかし誰が対応しても同じなら、頼られたという事を受け止めようと考えた。
そして、ひっそりと東雲の別荘に匿われながら、黒岩にも隠しながら、ひっそりと出産した。そして、顔見知りだった糸輪の代理人に、まず自分では騒ぎを起こさずには戸籍さえも作れないからと、産まれたばかりの赤ん坊を託した。
たった数カ月お腹の中に居て、たった数ヶ月乳を与えただけなのに、何故こんなにも心細くなってしまうのだろうかと感じながら、暁は赤ん坊を見送った。生きていれば、きっとまた再会出来ると、夢見た。産まなかったら、そんな生きる甲斐すら思い付かなかっただろう。赤ん坊と一緒に死を選んだだろう。
そして、暁は身体の性別が急激に変化し、ホルモンに関わる臓器を取り払った代償としてβとしては鋭かったαとΩに対する嗅覚を失った。
暁は、達彦と輝基が地下に籠もってから目が覚めた。
「今、若者達は自分達の番を奪い返している最中だよ」
傍らに、公彦が居る。髪に白いものが混ざっていても、目覚めた時に一番に目に入る微かに微笑む顔には、昔と変わらない、頼もしさと、落ち着かなさを覚える。
「二人はずっと惹かれ合っていたから」
「そうみたいだね」
「産まれた時からだよ、3歳だった輝基くんは、産まれたばかりの達彦に会っているんだ。その頃は、黒岩くんが大学に通っていたから、東雲院長が子守していた」
「随分報告させてはいたけど、知らない事が沢山あるな……」
「その時にね、達彦は大泣きしながら輝基くんに手を伸ばしていたよ。泣く以外の表現が出来なかったのだろうね。産まれた時から運命の番だったのかもしれない」
「私は彼がΩの学園に入るまでの間、会いたくてつい預け先に度々出向いて居たんだ。彼はいつも寝ていた」
その頃は公彦の父親がまだ健在で、多少融通が効いた頃だ。公彦が達彦を抱くと寝てしまった、おむつの交換でもミルクの時間でも、構わず寝てしまう。少し大きくなってからも、公彦が屋敷に近づくと何かを察する様に寝てしまった。乳母が不思議そうにしていた。この現象によって公彦の顔を知らないからこそ、余計な面倒事に巻き込まなくてすんだのかもしれない。
「わざとかな……不思議だったよ。今もなかなか不思議な子ではあるけど……」
「さっきもヘニャヘニャした顔をしていたね。副交感神経が優位になるのかもね。私もαの親には安心感を覚えていたよ。姉にもだけど」
「不思議だな、私にとっての両親はαしか居ないが、ただの壁だった」
「興味深いね」
二人の会話を、アンは扉の外で聴いていた。自分の生み出した薬は、自分の過ちに留まらずに何度も悪用されて人を傷付けてきた。運び込まれた人を治療しても、後遺症の残った人も、治療した所で幸福になれない人も居た。それでも自分は生きて手を尽さなければ償えないのだ。アンは苦しくて仕方がなかった。
しかし、暁がここにやってきた事は後ろめたさを差し引いても、尚も幸福な事だった。そのくらい大好きだった。あまりにも浅ましいと、壊れた脳味噌で思う。
「アン、そこに居るんだろう?」
暁の優しげな、懐かしさを感じさせながらも、更にふくよかな声がする。びくりとしていた。
「なあ、アン、本来のエヴァ4は何のために作ったんだ?」
「……あれ、あれは、べーたぁがベタのままあるファのつが、つがいなれるかなて。巽が公彦といっいっいっしょに……」
薬の切れているアンは舌が上手く回らず、自分の頭を殴りながら喋る。
「結果的に、1.5の解毒に使えてるな。それに、もしかして4は、ホームの若いΩを救えるんじゃないか? 適齢期寸前のΩは元の番の愛用品に囲まれながら、満たされて、冷静さを保ちながら穏やかに過ごせるんじゃないか?」
「でも、アンは、ここわ、こわい……しっ失敗する……」
「アン、歴史も勉強したじゃないか、皆沢山失敗してきた、悪用もされてきた、そうやって人類は医学を発展させてきた。諦めずに一緒に考えて一緒に発展しようよ」
「アン、ここ、でれない」
「僕がまた来るから」
「ほん、ほんと? また、ピクニックしてくれる?」
「ピクニックしながら考えよう」
「公彦も?」
「ああ、ピクニックしよう、二人が考えた物は私が引き受ける」
アンは、ひょこりと顔をだす。
「あとね、しゅう、げきははははん、ヴァレンタイン、公彦にいい、は、ははなしたいて……」
端末を公彦に見せる。
「なるほど……まあ、この件は任せなさい」
公彦の全身から冷気とも熱気ともとれる雰囲気が渦巻く。
上品な良家の子息だった若い頃のイメージから、随分と擦れてしまったと、暁は苦労をかけた事を深く実感した。
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