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第3話

「え……? ああ! えっと、あの時はありがとう」 「別に」 「……」 「……」  なんだ? 何故話しかけてきたんだ……? 会話の終了と同時に水槽へと向き直っていたが、黙り込んだ伊佐名がやっぱり気になって、チラリと盗み見てみる。伊佐名は京丞よりも更に身長が高いので、少し見上げるような感じになった。  伊佐名は水泳の為に鍛えているだけあって、同い年とは思えない身体の厚さをしていた。そして、京丞に負けず劣らずの整った顔立ちをしているが、要素だけでいったら正反対。伊佐名はどこか硬派な印象だった。黒髪で、短めの直毛。釣り目がちな凛々しい瞳で、なんというか、彫りが深い感じ。その洗練された独特な雰囲気は、きっと何処に居ても目が惹かれてしまう。  水槽の上から差し込んだ光が、水中とガラスを通って、そんな伊佐名の横顔やワイシャツへと綺麗な光の模様を映し出していた。それを見て、先日京丞と話したことを思い出す。  ……伊佐名は、本当は海の中で生きるべき生物なのかもしれない。 「なあ、なんで水族館に鯨っていないんだろうな」 「……何故そんなこと、俺に聞くんだ」 「なんとなく……? やっぱり、鯨が大きすぎて入れる水槽がないからかな」 「単純に、デカすぎて運ぶのが大変なんじゃねえの」  ……あれ? なんだ、意外と普通に喋ってくれるらしい。 「そうかも。あと、いっぱい食べそうだから、餌代もかかりそう」 「……なんの話だよ。というか、俺に聞くよりネットで調べた方が早いし確実だろ」 「そうだけど……。こうやって、『ああじゃない?』『こうじゃない?』って想像を巡らせて話す時間って、結構楽しくない?」 「…………そう、かもな」  伊佐名の、少し緩んだように感じられた空気が嬉しくて、俺も頬が緩む。久しぶりだった。京丞以外の人と、こんなにも話していたいと思ったのは。この深く息が出来るような安心感は、伊佐名の気取らず裏表のなさそうな性格と、多少のことでは動じなさそうな雰囲気のせいだろうか。  そんなことを考えていると、ずっと水槽を見ていた伊佐名が此方へと視線を向けた。意思が強そうで、真っ直ぐとこちらを射抜くような瞳。見つめられると、何故だろう……後ろ暗いこともないのにドキリと心臓が跳ねた。 「……綺麗だな」 「へ?」 「水槽。お前の眼鏡に映ってる」 「あ、そういう……」  ずり落ちてもいない眼鏡を、まるで直すように押し上げた。いや、そりゃそうだろう。なんで伊佐名が平凡男の俺を綺麗だなんて褒めるんだ……。 「孝汰!」  急に肩を強く掴まれて、後ろへとバランスを崩しかける。傾いた身体は何かにぶつかり、尻もちはつかずに済んだ。……こんな展開、前にもあったような気がする。 「お前なあ、探したんだぞ! ほんとに毎回期待を裏切らない男だなお前は!!」 「ご、ごめん」 「まあ、無事に会えたから良いけど。……そんで、お前は一人でなにしてる訳? 班の奴らが、さっきお前のこと探してたぞ」  京丞が伊佐名の方へと視線を向けて話しかけた。 「そうか、悪い。どこら辺にいた?」 「出入り口。もう一周して探すかって言ってたから、ここで待ってればそのうち来るんじゃねえの?」 「分かった。ありがとう」 「いいえ。……ほら、孝。俺達は行くぞ」 「あ、うん」  いつの間にか京丞に手が握られていて、急かすように引っ張られた。俺は、なんとなく伊佐名との時間が名残惜しくなって、振り返る。すると、まだこちらを見ていた伊佐名と視線がかち合った。 「今度……」 「え?」 「鯨を見に行こう」 「っ、う、うん」  京丞に引っぱられて歩き始めてから、ようやく言葉の意味を理解する。 「うん!!」 「水族館で大声だすな」  頭を叩かれた。……強めに。 ◇  校外学習から一週間が経とうとしている。俺はあの日、帰宅して布団に入ってから、「あれ……? 俺と伊佐名、どうやって連絡をとるんだ……?」という問題点に気が付いた。そう、俺達は連絡先を交換していない。もしかすると、「今度遊ぼうね~!」と言いつつ社交辞令……というパターンかとも思ったが、伊佐名がそういう事を言うタイプには思えなかった。仕方がないので直接確認しようとすると、京丞が何かと邪魔をしてくる。雛鳥かという程に後をついてくる。このままでは伊佐名と話せないぞ……と、素直に「伊佐名と話してくるから」と言えば、「話ってなに?」「俺が居るのに?」なんて彼女のようなことを言ってきた……。まあ、同じ学校な訳だし、そのうち会うだろう……と諦めたのが二日前の事だ。  今日の俺は日直で、少し帰りが遅くなる。それでも俺を待とうとしてくれていた京丞は、あの日水族館を一緒にまわっていた友達グループに引きずられて、カラオケへと連行されていった。  なんだか天候がぐずついているらしい。予報外れの雨が降り出す前に早く帰りたいなと思いながら、俺は学級日誌にペンを走らせる。まずは時間割と、その学習内容や授業態度……。京丞は要領が良いから、一、二個ほど授業が終わったらその都度パパッと書いてしまって、放課後は最後の一言だけ書けば良い状態にしているらしい。俺はというと、後で苦労すると分かっていたのに、こうして後回しにして頭を使う羽目になっている。  はあ……京丞が居たら、「ここはこうだったろ」とかって呆れた顔をしながらも助けてくれるのにな……と思ってから、「いつまでもアイツを俺に縛り付けていちゃ駄目だ」と頭を振った。京丞は京丞で、友達との交友を深めるべきなんだから。そして、俺も――。  最近、気が付けばいつも伊佐名のことを考えている。あの日の巨大な水槽と、その前に佇む伊佐名。もう何度も夢に出てきた。その度に、絡み合った視線の熱に思いを馳せる。 「また、話がしてみたいな……」  ペンが手からポロリと落ちて、慌てて持ち直す。  そうだ。これを書き終えたら、伊佐名の教室を覗いてみよう。  それをご褒美のように感じている自分。  そんな自分に違和感すら覚えない、自分……。  なんとか最後の『感想と反省』まで書き終えて、職員室へ提出しに行く。日誌を受け取る先生越しの窓に、降り出した雨が見えた。 「うわ、早く帰らないと……」 「気を付けて帰るんだぞ」 「はい」  階段を一つ飛ばしで上っていく。肩で息をしながら、通りすがりに覗いた隣の教室に伊佐名の姿は見当たらず、俺は肩を落とした。しかし、何故かどこかでホッとしている自分もいる。……こわいんだ。伊佐名の前に立つのが。自分のものじゃないみたいに騒ぎ立てる心臓が、勝手に震えてしまう心が、こわいんだ。認めてしまったら、いよいよ自分は『普通』の枠組みから外れてしまうから。  教室で自分の鞄の中を覗いて、やはり入っていなかった折り畳み傘に溜息をつく。 「どうしよ……」  とりあえず昇降口へ向かおう。罪悪感はあるが、誰かの置き傘を借りるか……。もしくは、もう一度職員室へ行って、持ち主不明の処分対象になっている傘を借りるかだな。  そう思いながら歩いている間にも、雨脚は強くなっていく。  昔から、雨が苦手だった。あまり良くない思い出があるから。  少し息苦しくなって、取り出した外靴を地面に置いた姿勢のまま、立ち上がれなくなる。湿っぽい雨の香り。濡れたコンクリートと、植物の匂い。降り出した雨が地面にぶつかって、パシャパシャと跳ね返るその音が、妙に大きく聞こえ始めた。……大丈夫だ。ゆっくり深呼吸すれば、きっと大丈夫。 「どうした」  突然かけられた声。  姿を見なくても、それが誰なのか、不思議と分かってしまった。 「伊、佐名……?」 「苦しいのか?」  目の前に影が落ちて、熱くて大きい手のひらが、背中に添えられた。そのままゆっくりと擦られて、痺れたように更に動けなくなる。血が巡って、熱をもつ。耳や頬は、きっともう赤くなってしまった。俺は、それがどうしようもなく恥ずかしくて、静かに俯いた。 「うん……」 「自販機で水買ってくる」 「ま、待って!」  咄嗟に、伊佐名の制服の裾を握る。何故だろう。なかなか会えなかったからか、いま少しでも目を離したら、また暫く会えないような気がして。 「少しこうしてたら、落ち着くから」 「いや、でも……」 「大丈夫だから」 「……」  しぶしぶといった様子で再び俺の前へとしゃがみ込んだ伊佐名。優しい奴……。今度は不器用に頭を撫でられる。そして意外なことに、次に喋り出したのは伊佐名だった。 「そういえば、この間のやつ」 「え?」 「俺達の、全部合ってたぞ。水族館に鯨がいない理由」 「……調べたの?」 「分からないままじゃ、気持ち悪いだろうが……」 「ふふ……」 「おい、笑うな」 「だって、真面目で……」  校外学習の後に、こっそりと検索サイトで水族館に鯨が居ない理由を調べる伊佐名を想像したら、何だか可愛くて、やっぱり笑い声が漏れてしまう。 「そんだけ笑えりゃもう大丈夫だろう……。俺、もう行くぞ」 「あっ、待って」 「なんだ」 「俺、傘忘れちゃって……」 「……」  伊佐名は、ふと後ろの傘立てに刺さっている何本かの傘に視線をやったが、逡巡した後「……家、どっち方向だ」と、折れた様子で溜息を吐いた。  扉を開くと、相変わらずの雨。伊佐名が開いた黒い傘は、その体格に見合って大きめだったが、二人で入ると流石に狭い。歩き出してから、今更ながらに申し訳なくなってくる。 「俺さ、雨の音が苦手なんだ。中学生の頃、雨の日に学校の暗い体育倉庫に一人で閉じ込められたことがあって……」 「……」  伊佐名は何も返事をしなかったが、僅かに俺の方へと傾いた傘が、彼の優しさを表しているようだった。 「暗いし、こわいし、叫んでも誰も来てくれない。自分の立てる音と、雨音しか聞こえなくて、そんな筈ないのに『このまま誰も来なくて死んじゃったらどうしよう』なんて思った」 「……そうか」  話をしながらあの日のことを思い出して、ふるりと身体が震えた。伊佐名が一歩、俺の方へと距離を縮めてくれる。 「雷とか、暗い所も嫌いなんだ。誰かと一緒にいると平気なんだけど、一人だと、どうしてもあの日のことを思い出しちゃって……」  そこまで言ってから、自分がそこに閉じ込められるに至った経緯を思い出す。 「あ……」 「どうした。急に立ち止まるな……おい、濡れるぞ」  傘を差しだして近づいてくれる伊佐名から、一歩距離をとる。自分から傘に入れて欲しいと頼んだくせに。 「ごめん、伊佐名。俺……用事思い出したから一人で帰る! 傘、ありがとう」 「待て」 「じゃあね」 「待て! せめて傘……これ、持っていけ」 「う、受け取れないよ……」  伊佐名の優しさが、胸に痛みとして残る。傘に、地面に、跳ね返った雨粒の立てる音を聞きながら、拒絶する手が震えた。 「……急にどうした」  伊佐名の方が、不安そうな顔をする。 「だって、俺……」 「……」 「伊佐名と一緒に居たら、伊佐名に変な噂が流れちゃうよ」  そうだよ。俺、忘れかけていた。京丞に守って貰って、一緒に居てもらって、高校に入って環境が変わって……すっかり平和な生活に慣れてしまっていたんだ。 「どういうことだ」 「俺は……男を好きになるんだ」

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