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第5話

 ――そいつは、ある日突然、俺の腕の中へと降ってきた。 「あ、えっと、助かった。ありがとう……」 「……別に」  久々に触れた人の熱。俺が、人との関りを極端に避けてきたせいだろう。  こういうと語弊がありそうだが、別に生まれ育った境遇のせいで……なんて、そういう訳では決してない。  寧ろ、俺を引き取ってくれた叔父にあたる母親の弟はとても良い人で、彼の奥さんもまた良い人だった。  両親と姉の葬儀で、俺の引き取り手や遺産相続の話が醜く飛び交う中、自分たちも大変だろうに引き取り手に名乗りを上げてくれて、愛想の無い俺に懲りることなく面倒をみてくれている。  引き取ってもらったばかりの頃は、夜になると毎日のようにうなされていたし、目が覚めれば夜中だろうと何回目だろうと家の中の全ての扉や窓の鍵を確認してまわり、赤ん坊のように聞き分けなく泣いてしまう俺を、根気強くあやして慰め、二人の真ん中で眠らせてくれた。  捨てる神あれば拾う神ありというやつなのだろうか。大変な思いは沢山したけれど、俺はこの二人に心の底から感謝をしている。  二人には、俺より四つ年下の娘さんがいて、今年十三歳の中学一年生と多感な年頃になる。彼女はまだ何も気にしていなかったが、二人はそうではない。とはいっても、「俺と彼女の間に間違いがあってはいけない」ということを気にしている訳ではなかったらしい。  一番の気がかりは、俺や彼女の周りの人たちが「年頃のいとこが同居している」「好きなんじゃないか、性的な目で見ているんじゃないか」などと、面白おかしくある事ない事噂し始めないか……という点らしい。俺が昔、事件のニュースや噂で色々言われていたことを、俺よりも気にしていた二人らしい心配事だと思った。  また、彼らは俺に対して、本当の家族のように接してくれていた。俺も彼らには常に感謝と敬愛の気持ちを抱いていたが、本当の家族のようにまでは心を開いて打ち解けられずにいたことを、二人はどうも気にしている様子があった。  そこで、少し早いが一人暮らしを提案されたのだ。俺が既にそこそこしっかりして、叔母さんの家事の手伝いに慣れていたことと、叔父さんが不動産関連の仕事をしていたことが大きいだろう。俺は二つ返事で了承した。  週末は叔母さんが料理の作り置きを持って来てくれるし、二人とも洗濯や掃除などを手伝ってくれて、生活費や家賃の援助までしてくれているので、今のところ特に不自由なく、寧ろ前よりも精神的に楽をさせて貰っている。だから俺は、早く水泳で稼げるようになって、この二人にどうにか恩返しがしたいのだ。  毎日それだけを考えている俺には、周りの声は雑音でしかなかった。 『なんと彼、△年前の一家四人刺殺事件で唯一生き残った少年なんだそうです! 凄いですよね! でも噂によると、その傷痕を見せ続けることで、世間にあの悲惨な事件を忘れないで欲しいのでは? とも言われています』  ――俺は、ひたすら目標の為に泳ぐと決めた。 『あえて傷痕を晒すことで、自分を戒めているんじゃないでしょうか』  ――俺は、ひたすら目標の為に……。 『悲劇を乗り越え今を生きる、イケメン水泳選手の感動ドキュメンタリーを撮りたいのですが、オファーを受けて頂けませんか?』  ――俺は  嗚呼、俺の生きる世界が水中だったら良かったのに。  そうすれば、よけいな音なんて聞こえてこない。  巨大な水槽をぼんやりと見つめながら、羨ましく思った。水中から見上げる地上の光は、こんなにも綺麗に見えるのに。実際の地上は騒がしくて疎ましいことばっかりだ……。溜息を吐き出しながらも、目の前の世界に夢中になる。 「すごい……」  感嘆したように呟かれた言葉。無意識に自分の口から零れたのかとも思ったが、それにしてはあまりに純粋で、邪気が無い。呟いたのはどんな奴なのだろうと、チラリと横目で盗み見る。そいつは、まるで幼い子供のようにキラキラと目を輝かせて、興奮したように目を見開いていた。  不思議と、先日抱きとめた身体の温度を思い出す。  彼の無邪気に感動する様子を見ていたら、なんだか無性に同意を返してやりたくなった。 「ああ、そうだな」 「……え?」  水槽を見つめていた瞳がこちらを向いて、そこに自分が映り込んだ時、かつてない高揚を感じた。自分の中の何かが、みるみるうちに満たされていく。 「また会ったな」  眼鏡に映った水槽が綺麗だと思ったのは嘘じゃない。  けれどもあの時本当は、その心も、瞳も、佇まいさえも……全てが綺麗だと思ったのだ。 『なあ、なんで水族館に鯨っていないんだろうな』 「……」 ――水族館 鯨 いない【検索】 「……そうか、シャチとシロイルカが……いや、でも俺達が言っていたのはもっとデカイ、鯨って感じのやつのことだ……ええと…………」

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