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Overwrite me your love

「もうファックはしたくない」  ベッドへ仰向けに横たわり、茫洋と天井を見上げていたハリーがそう呟いた時は、聞き間違いかと思った。  いや、普通はそうあるべきなのだ。タクシーが到着するなり、来客を中から引きずり出すようにしてベッドへ追い立て、そのまま夜中までずっと体を絡ませ合う。冷蔵庫へ残っていた軽い夜食を食べて2回戦目。  その後も食べてはファックし、ファックしては眠るの繰り返し。ヴェラスコがこの家の敷居を跨いでほぼ48時間経った今、8時間近く死んだように惰眠を貪っていたハリーはようやく目を覚まし、開口一番がこれだった。  そもそも、ヴェラスコが来る前に10日近く掛けて、3人の男のお相手をしている。いい加減睾丸も空っぽになってしまっていたのだろう。昨晩のハリーはペニスから精液でなく、透明な液体を撒き散らし、挙げ句の果てに気絶するかの如くベッドへ頽れてしまった。 「降参ですか。僕はもう少しお相手出来ますよ」  朝からプールで泳ぎ、念願の日光浴を楽しんだヴェラスコは、濡れ髪をタオルで擦りながらベッドを見下ろした。 「もう日焼けは諦めました。毒喰らわば皿まで、家を出るまでお相手します……何だか痩せたんじゃありません?」 「流石、若いな」  がらがら声で「水取ってくれ」と言われ、ナイトテーブルの上で生ぬるくなっていたエヴィアンのボトルを差し出す。痩せたと言うより引き締まったのかも、或いはそう見えるだけか。2週間の休みでいい肌色になっている。小麦色は逸らされた喉へ刻まれた鬱血も見えにくくするが、少なくとも複数あることは間違いない。一種のメッセージボードのようなものだ。多分喉仏に近いものが自らのサイン。 「休暇に来て疲れたんじゃ意味がないでしょう」 「心配して貰わなくても、十分英気を養えた」  どちらかと言えば精気を吸い取ったと言う方が正しいかも知れない。笑いながら、ヴェラスコは思い切り伸びをするハリーの膝へ、水着を投げ寄越した。軽薄なトランクスタイプのそれは、2日間風の当たる場所へ吊るされ、十分に乾いている。 「なら、暫く日向ぼっこでも。その有様じゃ暫くはジムのプールで泳げませんし、今のうちに裸になっておいて下さい」  スイムウェアには脚を通したものの、ハリーはプールサイドに腰掛ける以上に水へ身を浸さない。ヴェラスコが拵えたフローズン・ダイキリを啜るのに忙しいふりを貫き、理想的とは言えない平泳ぎのフォームでプールを行き来する今日の情人へ、気怠げな横目を投げかけている。  ヴェラスコも何気ない風を装いながら、その実ハリーの挙動を観察し続けていた。ぽちゃぽちゃと緩く飛沫を立てる、水中へ浸された爪先。揺れる波間の煌めきを反射したかのような、エメラルドの瞳。  ぼんやりしている彼は、案外魅力的だった。これまで余り検討したことのない観点だ──ヴェラスコにとってハリーは、市長であるのと同時に、ローファームで辣腕を鳴らしていた先輩でもあった。隙など決して晒さず、そう見えるものは恐らく相手の油断と好感を誘う為のポーズ。セックスの時ですら、それは継続される。  英雄としての彼を奉っていたから、突如人間らしい姿を見せられると戸惑ってしまうし、企んでしまう。この男を手に入れることは、案外簡単なのではないかと。カトリック教徒同士による同性婚などという、突飛な手段を用いらずとも、もっとシンプルにやってみれば良いのかもしれない。  すうっと泳ぎ寄ってきたヴェラスコへ脚の間に収まられ、ハリーがびっくりしたように目を見開くまで、数秒のタイムラグがある。その隙に、ヴェラスコはプールサイドへ手を突き、ざばりと身を持ち上げた。  触れるなんて言うどころか、ほんの掠めるようなキスに、ハリーはびくりと処女の如く肩を跳ねさせた。瞳が焦点を絞るまでに、生ぬるい水中へ戻る。そのまま身を翻し、腹筋の隆起に汗を溜める下腹へ頭を預けられた部下の頭を、普段の彼ならば軽く引っぱたく位はしていただろう。 「可愛い僕を構ってくれないんですか?」  まるで玉座へ鎮座まします王の仕草だ。太腿へ両腕を引っ掛けながら、ヴェラスコは真上の顔を仰ぎ見た。銀盆の上に乗せられていた、口をつけられていないダイキリのグラスはすっかり汗を掻き、こんもり盛られていた氷も溶け出して久しい。引き寄せた際指へ垂れる、バナナ味のシャーベットを舌で拭い、そう尋ねれば、ハリーは苦笑して身を屈めた。  逆さまの接吻は顎を捉える指先、そして舌の冷たさをまず意識する。だからレモンジュースの爽やかさにもったり混ざり込む、バナナのむせかえるような甘みを無視する事が出来た。 「困った元婚約者だなあ」 「使えるものは何でも使いますよ。弁護士時代、あなたが教えてくれたことでしょう」 「僕以外の人間へ行使するようにとの意味だったんだが」  この秘密の隠れ家を訪れる男達に吸われ過ぎて、幾分腫れぼったくなった唇が、拗ねた形で捻じ曲げられる。あはは、と今度はヴェラスコが笑い、ストローからずるずると行儀も悪くカクテルを飲み込んだ。 「どうです。休暇は楽しめましたか」 「ああ、色々やったよ。モーと蛸料理を食べたり、エルとモンフォルテ城や、教会を幾つか観に行ったな……ゴーディとは、ずっとテーマパークに酒を置くかどうかの議論をしてた気がする」 「彼は仕事を続けないと死ぬ病気に罹ってますからね。それにしても、蛸ですって?」 「そう思うだろう? 案外美味いんだよ。ヴィーニョ・ヴェルデとよく合った」  眼下の柔らかい癖毛を指で梳きながら、ハリーはふうっと息を吐いた。 「君は、掃除とゲーム?」 「何日かは実家へ顔を出しましたが」 「ご両親はどうだい」 「特に変わりませんよ。ご機嫌に過ごしてます、それが息子にとっては一番だ」  いかにも気楽な態度でそう言ってのけたが、とんでもない。駅のリニューアルオープン以来、初めて2人と真正面から顔を突き合わせて会話した。緊張しなかったと言えば嘘になる。けれど父はこそこそと実家のドアを潜った息子に、ただ苦笑して肩を叩くだけだった。「お前がビートン&オリアンでパラリーガルをやると言った時は絶望したが、確かにあそこは修行をするのに良い場所だったらしい」  普段ならば無言で同じ表情を返すだけだったろうが、今回は別だ。「違うんだよ」と、ちゃんと返す事が出来た。あれは全部、市庁舎で学んだことだ。どちらも、先生は一緒だったけどね。 「ハリー、僕を愛してますか?」 「うん」 「今少し考えましたね。別に構わないんですよ、エル達と同じ列に並べてくれても」  逞しい太腿を濡れた指で撫で、ヴェラスコは言った。可哀想に、くっきり歯型が残っている。こんなところへ噛み付いた奴は一体誰だろう……僕か、と、すぐ思い至る。「レスリングじゃないんだぞ」と悲鳴混じりなハリーの訴えなどお構いなしに肩へ担ぎ上げ、バーベキューソースでも掛かっているかの如く、思い切りかぶりついた。痛みを伴う刺激に、ハリーは四肢を突っ張らせて絶頂し、潮を吹いていた。 「僕も精一杯やってますけど、彼らの愛の大きさに勝てるかどうかは分かりません。一応、上位の方にいる自信はありますが」 「分かってる。僕も今この瞬間は、君を誰よりも愛してる」  つむじに落とされた唇は、やはりひんやりとしていた。 「君は執念深いから、それをずっと覚えていてくれるんだろうな」 「誤用です、そこは普通、記憶力が良いって言うもんでしょう」  太陽の光を一身に集め、きらきら輝く水面、そして敷地を囲うように植えられたコルク樫の葉の青さに目を細める。誰にも邪魔されない、2人だけの時間。大袈裟だと笑いたくば笑え、ヴェラスコはこの瞬間、世界を手に入れたように思えた。これからずっと、固く握りしめていなければならないものが今掌中にあると、強く感じた。  レモンジュースの甘酸っぱさを覚えていたくて、氷が残っているのにグラスを盆へ戻す。 「サンオイルも塗らずに、そんなところでずっとぼんやりしていたら焦げますよ。少し泳いだら?」 「激しい運動は、下半身に力が入らないから嫌だ」 「もう何もしませんってば、安心して下さい」  手を引いて促せば、ハリーはそろそろと身体を水の中へ滑り込ませた。 「両親と話していて思い出したんですが、僕は小さい頃、オランダに来たことがあるらしいんです。彼らが飾り窓街の見学して、行政組織や民間団体と意見交換する、研修旅行みたいなものに」  胸の辺りで立てられる漣は、背後へと波及する。体へぶつかる度に、掴んだハリーの手のひらがきゅっと微かに力を込めた。 「いや、正直に言うと、アムステルダムについては殆ど覚えてなかった。ずっと子守や他の子供達と一緒にホテルへ居ましたからね。チューリップの記憶は朧げにありましたが、てっきり街の州立自然公園の出来事かと」 「あそこのレクリエーション・エリアは毎年色々趣向を変えて花を植えるからな。もっと統一性を持たせた方が良いように思うが」 「確かにそうですね。州の自然局へ提言してみても良いかも知れません」  プールの中央で立ち止まり、振り返った時、ヴェラスコは内心、参ったな、と呟き、汗と水で濡れた髪を片手で掻き上げた。ハリー、あなたどうしてこう寄る辺ない表情を? いつかみたいに、僕の理性もプライドも粉々に叩き割るような、神話に登場する戦いの神みたいな猛々しさはどこへ行ったんです。このひんやりした、プールの中に溶けてしまったんですか。それとも。  ぐっと一度は殺した息を、ハリーは苦しげに吐き出した。 「そんな顔しないでくれよ、ヴェラ。まるで僕の知らない人みたいだ」 「どんな顔だって言うんですか」  ははっと小さく笑い声を立て、ヴェラスコは市長の逞しい胸板に両手を添えた。 「いつもの僕です。あなたの可愛い広報官ですよ」  顎を仰ぎ反らし、掬い上げるようにして唇を掠め取る。敬慕と、強い官能が込められたバードキスの合間、ハリーは切なげに息をつき、胸を喘がせた。 「そんな急に、男の顔をされたら、凄く困る」  もしかしてあなた、これまで僕のことを5歳児か何かだと思っていませんでした? そう訴えることこそ子供っぽく感じられて、結局ヴェラスコは言葉を胸にしまった。代わりに舌は、何度も執拗に接吻を繰り返された挙句、遂に開かれたハリーの唇へ滑り込む。 「ハリー、どうしたんです。もうしたくない?」  微かに仰け反る、と言うか明らかに腰が引けている様子に尋ねれば、ハリーは首を振った。 「それとも、泣いてるんですか」 「いや……いや、まさか、そんなこと、あり得ない。これは、汗だよ」  すっかり赤らんだ頬と、眦から流れ落ちる水滴へ対する釈明は、こめかみに浮かぶ玉の汗が補完してくれる。 「ただ、とても感傷的な気分だ。休みが終わるからかな」 「また来年来ましょう……誘って下さいね。次はちゃんと観光もしたいんです」 「どうだろう。あと2年は、選挙で忙しいかも」 「じゃあ次の年でも、そのまた次でも構いません」  顎を指で掴み、更に深く唇を重ねる前、届いたハリーの囁きと言ったら。法廷や議会で朗々と響く、毅然とした答弁が嘘のように、か細く弱々しい。 「君は、居なくならないな?」  この台詞を忘れることは決して無いだろうと、ヴェラスコは思った。 「おい、そう言う君が泣いてるじゃないか」  すぐさま端正な面立ちには、いつもの屈託ないはにかみが戻る。確かに今、泣き出したい気分なのは事実だが、残念ながら己の睫毛に乗るものは塩素臭いし、雫が伝っていなければならない筈の頬はすっかり熱を上げ、水分という水分を蒸発させてしまいそうだった。 「そうかも知れませんね」  けれどヴェラスコは、この愛すべき市長の照れ隠しを、黙って受け入れた。  水の中という利点を理解しているのはお互い様。腰に絡みついて来た片足を皮切りに、水着を突き破りそうな、たっぷりした尻の肉を両手で掴んだ。そのままよろめきながらプールサイドへ辿り着き、抱え上げた身体を強く押し付ける。歯がぶつかり合うキスの合間に、ヴェラスコは溶岩よりも熱く粘つく舌で、ハリーに囁いた。 「僕は執念深いんです。いつまでも覚えてますから」 「分かってる……教会へ行こう。蛸を食べよう。ついでに、美味いウイスキーも飲むんだ」 「ウイスキー? 国へ帰ってからで十分でしょう」  違いない、と切れ切れの息で放たれたはしゃぎ声ごと、ヴェラスコは相手の唇へかぶりついた。

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