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31.
サッと、足を引いてしまった。
しまった。余計なことを言ってしまった。
「だいじょうぶだよ。しっかりとうきわにつかまっていたら、こわくないから」
「ほんと⋯⋯?」
「ほんとだよ」
不安げに眉を下げた朱音は、紫音のことを少し見た後、海の方を見つめていた。
やや長くそうしていたのち、一歩二歩とおずおずと海に入っていくのを、半歩後ろでついていく。
「あまり遠くまで行かないようにね」
「パパも一緒に入るか」
紫音の後ろに朱音の父親も引き連れて、朱音の様子を見守った。
膝下まで入った時、「しおんにぃ、つめたい!」と両手を上げて、助けを求めていた。
「だいじょうぶだよ」とその手を握った。
砂や小石の感触を足裏で感じ、初めての海をも感じていた。
プールでは、鼻にツンとくる塩素の匂いがしたが、海は水族館で嗅ぐような生臭さが鼻の中を通り抜けていった。
「しおんにぃ! あかと、ういてる!」
腰辺りまで浸かった時、朱音が紫音の手から離れて、その場をくるくると回っていた。
「海、楽しいだろう?」
「うん! でも、くさい!」
「はは、そうだなぁ。くさいなぁ」
きゃっきゃと言う朱音に、父が水をかけていた。
「つめたい!」と父の真似をして水をかけ、そのうちかけ合うのを紫音は微笑ましげに見ていた。
何のためにやっているのか分からない習い事の水泳や、紫音に何かあったら、その両親に言われるかもしれないと思っているのか、気を遣っているのが目に見えるほど、自由に泳ぐことさえもさえてくれない幼稚園のプール。
だから、あのように自由気ままに水のかけ合いをするだなんて、もっとの他──。
「⋯⋯っ!」
突然、何をされたのか分からなかった。
全身に海水の冷たさを感じ、目をぱちくりさせていた。
「あははっ! しおんにぃ、びしょびしょ〜!!」
朱音が指を差して、無邪気に笑っていた。
そこでようやく、不意を突いて、水をかけられたことに気づいた。
誰にも気を遣われずにかけられたのは、初めてだった。
「ほら、紫音君」
「え、わっ!」
父親もかけてきて、こちらもかけざるを得ない状況となった。
だから、思いきって二人にかけた。
「きゃー! つめたー!」
「紫音君、すごすぎるって」
朱音が笑っていると、つられて笑ってしまう。
とても楽しいと心からそう思える。
ずっとこの遊びをしていてもいいなと、紫音は思っていた。
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