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第7話

「もう付いて来ないか?」  助手席から後ろを見ながら、蒼真が呟いた。 「…と思うが、まだ油断はしない方がいいだろう」  ルームミラーを確認して、圭吾が答える。  空港から逃げ出してから2時間。実際ならもうとっくに東京地区内の圭吾のマンションに着いているはずだが、追っ手がついた。  とにかくしつこくて、圭吾達は予想もしなかった遠回りをさせられ、ほんの1時間の道程を2倍もの時間をかけて走っている。 「大丈夫じゃないのか?いくらなんでも」  蒼真は追っ手の車が確認できないことを確かめると、ようやくゆったりとシートに身を沈めた。圭吾が黙って差し出したタバコを 「サンキュ」  と言って受け取ると、一心地ついたように煙を深く吸い込み、そして吐き出した。 「で、一体何がどうしたと言うんだ。落ち着いたところ早速で申し訳ないんだが、話を聞かせてもらおうか」  咥えていたタバコを外して、圭吾はチラッと蒼真を見、そしてルームミラーで翔の表情を伺う。 「翔…くんか?翔くんの運動神経能力を欲しがっていると言うのは…」 「本当だよ」  こちらはタバコを咥えたまま表情も変えずに答える。 「圭吾も見ただろ、翔の事は」  確かに拝見させていただきはした。30mはあるビルから、ジョイスを抱き抱えて降りてくる…いや、落ちてくるという光景を。  そのせいでジョイスは、今もなお翔の膝の上で失神を敢行中なのだから。 「しかしそれなら、翔くん1人を捕まえれば済む事だろう。なんで蒼真まで?」  鋭いところを突いてくる。 「鋭いな、圭吾」  蒼真は片足をシートに立てて苦笑した。 「嘘は言わせないわけね」 「嘘を言える立場じゃないだろう」  そりゃそうだ…と蒼真は舌を出す。 「あの、圭吾さん…。本当にありがとうございました。おかげでたすかりました、本当にどうもありがとう」  膝の上で失神しているジョイスを起こさないように気を遣いながら、翔が後部座席からそう言ってきた。  圭吾『さん』と呼ばれて一寸こそばゆい。 「いや、それはいいんだが、俺のことは呼び捨ててくれて構わない。こちらも遠慮なく翔と呼ばせてもらうことにするから」  苦笑いをする圭吾をみて、隣で蒼真が声を殺して笑っていた。 「お前はちゃんと話せ」  笑っている蒼真の頭をこずく。 「いてえ」  頭をおさえながら、蒼真は指まで来てしまったタバコを灰皿で揉み消した。 「だからMBL(ラボ)が翔を追ってるのは本当なんだよ。…で、なんで俺がっていうのはぁ」 「蒼真…」  うしろから翔が心配そうに声をかける。そんな翔に、蒼真は頷いた。 「翔のついでになんで俺が一緒になって捕まるかっていうと、俺は…MBL(ラボ)で翔を調査するプロジェクトにいたからさ」  圭吾は思わず蒼真の顔を見る。 「知りすぎた人間が実験材料を連れて逃げ出したんだ。あっちだっていい加減焦るじゃん」  今時と言われるタイヤを鳴らして、圭吾は路肩に車を停めた。  蒼真は立てていた両足をめんどくさそうに降ろして、靴を履く。 「俺はそんな中にいたから、翔に対する実験の内容とか、その結果とか解っちゃう訳だよ。だから翔を連れ出したんだ。あんな所に置いておけない」  圭吾は振り返って翔を見た。黙って俯いているが、キツく噛み締められた唇が蒼真の言葉を裏付ける。  嫌なことを思い出させてしまったことは圭吾にも解った。 「そんなことが行われているのか、MBL(あの中)では…」 「ハワードのことは知ってるだろ?大抵のことは免除されるよ。5年前に発表されたHIVのワクチンだって、決してまともな研究じゃあなかったぜ」  そう話している蒼真の声は、気のせいかもしれないが少し震えているようだった。  20世紀の終わり、全世界を震え上がらせた後天性免疫不全症候群。俗に言う『AIDS』だが、その特効薬の開発に成功したのがハワード…リーフ率いるプロジェクトチームだったのだ。  今までも進行を遅らせたり止めたりする薬は開発されていたのだが特効薬となると次元が違う。今ではその薬のおかげでHIV感染者の80%が完治すると言われている。 「そんなお世話になっちゃあ、今更どんな実験で薬が開発されたかを知ってもだれもハワード(や つ)を責めたりしないだろうしね」  蒼真の靴はつま先でふらふらと揺らされている。 「でもさ…」  と圭吾を見る。 「あの場所に圭吾がいてくれて、本当に助かったんだ。仕事だったんだろ?悪かったよ。でも…助けてくれてありがとう…」  最後の方は照れ臭かったのか前を向いてしまったけれど、それは蒼真の心からの礼だったのだろう。仕事というわけではなかったが… 「もし、捕えられたとしたら…どうなるんだ?」 「そりゃあ、翔は実験に戻されるだろうし、俺は…どうなるかわかんない」 「警察の保護は」 「言ったでしょ、通用する相手じゃないって」 『下手すりゃ売られるよ』と言って再び足を抱え込む。 「それじゃあこれからどうするんだ?」  エンジンをかけながら、後方の車を確認した。いつまでも止まっているとかえって不審である。、  しかし今のホイールレスの時代に、ホイール車は割り込みがしにくい。どうしても初動が遅いので十分間を取っても入る時には追いつかれてしまう。走り出して仕舞えばスピードはそう変わらないのだが。  タイミングを見ながら後方を伺っていると蒼真が 「シブヤで降ろしてくれれば知り合いがいるから、あとは…」 「あれ〜?」  いいかけたとき、後方でジョイスの間抜けな声がした。 「目、覚めました?」  翔が膝の上のジョイスに、よかったーと言いながら声をかけるが、ジョイスは 「覚めたけど…覚めてないみたいな…?君、あれ?目が赤いよ?うさぎさんみたいだねえ」  バカみたいにニヘ〜っと笑ってジョイスの両手が伸びる。  まだ停車中の車内で、そんな声を『なんだこいつ』という気持ちで聞いていた前の座席の2人は、ジョイスの次の行動に時間差で声を上げることとなった。  目が赤いね〜辺りで振り向いた蒼真は次の瞬間 「ああ〜〜っ!この!ばかやろ!離れろっばかばか!」  蒼真が後部座席にのめって行く。  「なんなんだ一体!静かにし…ジョイス!」   雪崩れ込んで行った蒼真のカーゴパンツのベルトを掴みながら後ろを見た圭吾は、翔の頭を下から引き寄せ翔にキスをしているジョイスを見て思わず叫んだ。 「馬鹿かお前!何してる離れろ!」  翔が上になっているので蒼真も引き離すのに難儀をしていて、圭吾も蒼真の体の下からどう出したのか足を突っ込んでジョイスを踏みつけている。  そんな騒ぎの中、当の本人翔がいきなり顔を上げてジョイスを引き剥がすと、つられて上がってきたジョイスの顔に思い切り平手を喰らわせた。  120%は出ていないと思われる…が、蒼真と圭吾は一瞬呆然とその光景を見守ったが、蒼真の方は『あ〜あ、そりゃそうだよなぁ』と言った顔。  翔は真っ赤な顔をして荒い息を吐きながら俯き、今の平手で流石に目が覚めたジョイスは、頬を撫でながらシートに座り直した。 「いてえ…そんなに強く引っ叩かなくたって起きるよ?俺は」 「とんでもない寝ぼけだな」  圭吾は深いため息と共に妙な体勢でいた足を抜き、運転席へ収める。 「一寸お前!」  そう言いながら蒼真は助手席から後部座席の翔の隣へグイグイと割り込み、 「前行けよ!」  とジョイスの身体を前に押しやる。 「なんだなんだ?痛いって〜なんだってんだよ」  蒼真が後部座席に来た経路は、2m近い大男には無理だ。 「痛えな!なんなんだよお前こそ!誰のせいで…」 「ジョイス…お前が悪い。大人しく外からここへくるんだな」  圭吾が心底呆れた様子でナビシートを叩くと、 「え?お前も俺の敵?なんなんだよ!なんで俺が」  ブツブツ言いながらもジョイスは、一旦車を降りて助手席へ移動する。 「なんな訳?引っ叩かれるわ追い出されるわさあ!」 「お前本当に何も覚えてないのか?」  圭吾がタイミングよくあいた道路へと車を発進させながらチラリとジョイスを見た。 「何を?俺は可愛い子と純粋なチュウする夢を見て…」 言いかけて、ジョイスは圭吾が指を刺すままに後方へ目をやる。 「なに?なに?彼氏何落ち込んでんの?」  途端に困ったように圭吾の腕を掴んだ。 「あんたがエッチなことしたからだろ!」  後部座席で翔の肩を抱きしめ、動物だったらガルルルとでも言いそうな顔で蒼真がジョイスを睨みつける。 「なんで俺があの子にそんなことしなきゃならないんだよ…」 「本当に覚えてないんだな…」  圭吾の声はすでに憐れみだ。 「お前が見たと言う幸せな夢の結果が、()のあの様子という事だ」  車は調子のいいピッチで走っている。圭吾のマンションへも順調に着きそうだ。が!  車内の約1名は、非常に立場のない様子で黙り込んでいた。 「大丈夫か?翔」  車の中に2人残されて、蒼真は顔を上げてはいるがまだ調子の悪そうな翔を覗き込む。 「うん、平気だよ。具合が悪い訳じゃないからもう、大丈夫」  圭吾のマンションへ向かう途中、車内の冷たい空気に耐えられなくなったジョイスが、夕飯を皆に奢ると言い出した。  しかし追われている身としては外でお食事というわけにもいかないので、テイクアウト2.3品買って、あとはデリバリーということになった。  まだ16時の4月は明るい。夕飯まで凌げる何かがあればいいのだ。 「まだだめみたいだな」  蒼真の言葉に翔は、頷いたのかそうでないのか曖昧な仕草で俯いた。  蒼真のいう『まだ』というよりは、自分では『もうだめ』じゃないかなということを翔は感じている。  翔はセックス恐怖症だった。MBL(ラボ)での体験が翔をそう言った行為から遠ざけて久しい。  逃げ出してから何度となくそんな機会はあったのだが、その度にひどい吐き気と頭痛でとてもじゃないが、いいムード所じゃないのだ。  翔はきっともう、そういう事は自分にないだろうなと思っているのだ。  その過去を振り払うように首を振ると、翔は話を変えた。 「そんな事より蒼真、あんなことまで言っちゃって大丈夫なのか?」  今度は翔が心配そうだ。  翔がしたくない話は蒼真も早々に打ち切るに限る。 「大丈夫だろ。だってああでも言わなきゃ信じそうになかったじゃないか」  そう言って肩をすくめて見せた。しかし蒼真にしてみれば大したことは言っていないのだ。 「でも俺たちの殆どのこと言ってるじゃないか」 「まあねえ…」  翔の知っていることと、蒼真の知っていることにはとても大きな差があった。  翔の知っていることというのは、さっき蒼真が圭吾に聞かせたことと、『ピュア』に関する自分たちの仕事のことだけである。  しかし蒼真は違った。  もっと複雑な、心身ともにボロボロになりそうな知らなくても良かったことまで知っていて、圭吾に話したことなど本当にそんな中の産毛にも満たない話なのだ。 「あの話はユージにもしてるし、俺たちを解ってもらうにはああするしかなかっただろ?」  翔は黙ったままだ。 「MBL(ラボ)の専用機から降りてきておいて、なんのことか判らないうちに攫われました。じゃ無理でしょ」  翔はーそうだなーと頷いた。  蒼真も翔がそこまで言ったことに対してではなく、(自分)の事を初対面の人間にあそこまで言われたことが引っかかっていることは解っていた。それでも蒼真は、黙っていてそれ以上のことを突っ込まれでもしたら今の自分たちの立場で誤魔化し切れる自信がなかったのだ。しかも相手は警察官だ。一般の人間だったらできたかもしれないが、警察官相手に誤魔化しが効くとも思えなかった。。  翔もきっと解ってくれると信じているから蒼真はもうそれ以上のことは言わなかった。 「ところで翔、コンタクト外れてるぞ」  そうみたいだな、と翔は自らの目に手を当てる。 「さっきジョイスに目が赤いって言われた時、ビクッとしちゃったよ」  少し笑いながらの蒼真の声に、翔も微笑みながら 「だからおれ、顔をあげられなかったって事もあったんだよ」  ポケットから小さなケースを取り出して、シートを一枚取り出すとそれを両目いっぺんにペタッと貼って、黒い色のコンタクトを装着した。 「そうなんだ。ジョイスの奴、翔が落ち込んでると思って晩飯まで奢るって言い出したな。騙されてやんの、ププーッ」 なんだか心底嬉しそうな蒼真に、『なんで蒼真とジョイス(あの人)はこんなに仲悪いんだろう』と翔はちょっと不思議になった。ケンエンノナカってやつかな…翔の頭に蒼真に似た犬と、でっかい猿のいがみ合いが浮かんでいた。 「まあでもさ、ジョイス(あの人)が寝ぼけてくれてて良かったよ」  目をぱちぱちさせて翔が笑う。 「俺も気づかなかった、気をつけよう」  翔の目が赤いというのは充血とかそう言ったものではなく、瞳そのものが赤いのだ。燃えたつルビーの(あか)である。  翔に施された実験のせいでなった…、と翔はそう聞かされている。無論蒼真にだ。  翔が実験材料だったことは圭吾たちに知らせたというのに、なぜこうも敏感になっているかというのには理由がある。  蒼真たちの『バイオレット』という呼び名。それは最初から2人が名乗っていたわけではなく、ある取引で偶然どこかで見られたのであろう翔の(あか)い目と、蒼真の、今は赤く染められているが、本当は綺麗な空色の髪からついた名前だった。  誰がつけたのかはわからない。ただある日突然ネットで 『Mr.orMs. Violet PURE please』  と言う取り引きを願う書き込みからだった。それから『ピュア』の販売元は『バイオレット』だとされた。  緋と青を混ぜてバイオレットと呼ぶのは、中々うがった根性の持ち主だと、当時蒼真は感心したものだ。  とまれ、その名前の由来を警察(サーカス団)がどこまで掴んでいるか判らない以上、不用意に緋い目と青い髪を晒すわけにはいかない。 「それで、これからどうする?蒼真」 「取り敢えずユージのとこでも行って…と思ったけど、今日は飯奢ってくれるって言うし、圭吾ンとこ行こう。ユージのところには後で行く」 「なあ圭吾」  軽く2.3品と言って買いに出たが、ジョイスの手元には既に4つも袋が握られていた。 「ちょっと買いすぎたか?まあ奢りだし。でもな、晩飯もお奢りとなると…」 「いや、違うくて、あの翔って子の話」  ピザの自販機の前に立ち止まる圭吾に追いついて、ジョイスは隣に並んだ。 「なんか変じゃないか?」 「何が」  16インチのピザを選んで、圭吾はジョイスに向き直る。  なにがといいながら、実は圭吾も釈然としないものを感じていたのだ。  圭吾はジョイスもやはり警官だったか、と感心しようとした矢先 「だってさ?今時キスっくらいで、泣くかな…泣かないよな?」  圭吾の肩がガックリと落ち込む。もう信用せん… 「ジョイス。自分のしたことを棚に上げるなよ?今時って言ったって、そう言う子もいるだろう」 「でもな?仮に!仮にだよ?翔くんがそう言う子だったとしてだよ?蒼真(あのガキ)はなんなんだ?えっらそうにさー!」   ムキーーッとカッカしてでっかい猿になっているジョイスだったが圭吾は、はたと気づく。そういえばジョイスは翔が10%の確率で助けられないと聞いた時の蒼真の取り乱し方を知らないんだったな、と。  しかしそう考えてみると、あの姿を見る限り『実験に使われていた翔をたすけて逃げ出してきた』…と言うだけでは言い切れない何かを圭吾は感じていた。 「あ!じゃあさ!したことなかったのかな」  まだ考えてたのか!呆れを通り越して放っておきたい気分だ。しかしジョイスは今度は罪悪感を募らせてきたようだ。 「そうかもしれないな。そんな純情な子のファーストキスをあんな形で奪った罪は重いぞジョイス」  そんなジョイスに適当なことをいって、流そうとしたが、その言葉は思ったよりも深く突き刺さったらしい。  ガーンとした顔をして立ち尽くしている。 「つっ償わなきゃだよな!なんとしても。うん。しかしなあ、あのクソガキがなぁ…」 ー何でこんなに蒼真(やつ)と合わないんだジョイス(こいつ)は…ーこっちはこっちで不思議な感情を抱いていた。 「いや、ジョイス、償うとかそこまではいいんじゃないか?」 「いいやっそうしなきゃだめだっ!俺の気がすまない!」  何だこのカッカメラメラは…しんどいな…と思う反面、まさかジョイス(こいつ)は…と言うのもなくはない。  しかしそれをジョイスに言うのはやめておいた。なんせ本人にその自覚が無いのだ。  オマタセシマシタ   流暢だがでもどこか機械の声で箱入りピザが吐き出されてきた。  圭吾はじっとジョイスを見る。 「はいはい…」  仕方なさそうにジョイスはピザをとり、 「ちょっと2、3品な量じゃねえぞこれ。もういいんじゃないか?」  確かにこの量は、夕飯までも賄えそうだ。 「そうだな」  圭吾も、足らなかったらデリバリーでいいかと、その荷物を見て頷いた。

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