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第77話 12章 春遠き、春近き

「三郎、よいか」  成利が、おもむろに声を掛ける。何か大事な話があるのだろうか、三郎はかしこまって聞く姿勢をとる。 「久世様に、殿とお呼びすること、わしに敬称をつけないことをお願いした。城を落ちて、その城はもう存在しない。つまり、今のわしは一介の素浪人だ。客人ではない。久世様の庇護を頼みとする者だ。故にそうするのが、本来の在り方、そう思うのだ。久世様、殿もお許し下さった。故に、そなたも、久世様を殿とお呼びし、わしのことは殿と呼ぶでない。よいか」  それには、三郎も全く異論はない。城が焼失した今、頼れるのは久世だけなのは言うまでもない。 「それは、承知いたしました。しかし、それではなんとお呼びしたら」 「高階でも、あざなでも、そなたの好きに呼べばよい」 「……では、仙千代様と」  成利のあざなは、幼名と同じ仙千代だった。 「そなたには苦労ばかり掛けて、何も報いてやれんかった。誠にすまないことだと思っておる。しかし、これからは久世様、殿に従っていけば、報いてくださるだろう」  成利は、当初はこの城を出ることを考えた。寺に入り、両親や亡くなった家臣たちの菩提を弔いながら、残りの人生を過ごす。そう考えて、久世に申し出た。  しかし、それは久世に強硬に反対され、止められた。渋る成利に、久世は菩提を弔うための寺を建立するとまで言った。その熱意に、成利もこのまま留まることを決めた。  しかし、客人としてではなく、配下として。当然、あなたのことは殿と呼ぶと。それは、久世も承知した。  そう決まると、成利は三郎にとっては、良いことと思えた。三郎は、まだ若い。自分が、何も報いてやらなかった分、久世が報いてくれるだろう。  確かに、久世に従っていけば、この先間違いないだろうと、三郎も思う。しかし、三郎は成利の言葉に胸が一杯になる。 「そのようなこと……私こそ、お守りできなかったこと、誠に申し訳なく……」 「そなたは、守ってくれたぞ……」  二人の主従は、お互いそれぞれに、来し方を思った。感慨深く、胸が溢れそうな思いになるのだった。  久世を殿と呼ぶと言うことは、久世を主とすること。しかし、二人の主従関係は生涯続くと、二人ともに思うのだった。 「それでだな、この部屋から出ることもお願いしたのじゃ。ここは、客人ならともかく、こうなった身には、あまりにも分不相応だと思うのじゃ」  ここは、北の丸なのだ。本来、北の丸は、正室の住まう御殿なのだ。ここに自分が居座っては、正室も迎えられないと、そう思うのだ。 「他に、相応しい部屋を与えてくださいとお願いしたのだ。しかし、お許しいただけなかった」  当たり前だと、三郎は思った。ここは、久世が、成利のために造ったことは明白。それが分からぬのだなあ、このお方はと思う。こういったところは、本当に鈍いのだ。常は聡明なお方じゃのにと、三郎は思う。しかし、この鈍さが、このお方の良きところとも思うのだった。 「他に与える部屋はない、ここにおれとおっしゃるのだ。しかしなあ……」  思案気に、自分を見る成利に、三郎は言った。 「久世様、殿がここにおれと、おっしゃるのなら、それに従うべきでしょう。それを、別の部屋を望むのは、かえって我儘とも捉えられかねません」 「我儘……そうか……それもそうじゃな」  漸く、成利は納得するのだった。

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