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第4話
草太がシーガルで働き始めて、三日目だ。
持ち前の元気さで、どんなお客さんにも明るく対応し、忙しくともきびきびと働いてくれている。
カフェシーガルでは、ランチタイムは午後二時に終わる。
あとはデザート類やケーキ類の軽食とコーヒーやカフェラテなどの飲み物のみとなる。
「俺、結構賄いって好きなんですけど、知樹さんのが今まで食ってきた中で一番うまいです」
「今までで一番は言い過ぎだよ、もっと格式高いレストランとかでバイトしてたこともあったんでしょ?」
「食材の良し悪しじゃないっすよ。愛情がこもってる。知樹さんの優しい気持ちを賄いを通して俺の中へと入っていく……」
「もうほんと、変なこと言い過ぎ。野菜の切れっぱなしの炒め物だよ」
一番忙しい時間は過ぎ、草太には先に昼食を摂ってもらっていた。
愛情がこもっているだとか、草太の中へ入っていく、だとか、大袈裟な草太の表現にも慣れつつある。一緒に生活をしていることも影響しているのか、だんだん草太という人間自体に慣れてきていた。
初めは若くて、チャラくて、態度も言動も軽いけど、性格はいい子だなあ、と思っていたが、今は明るくて、周りも巻き込んで元気にしてくれるという認識だ。
そんな草太との日々を知樹は楽しく感じていた。たまに距離が近くて、まだドキドキしてしまうこともあるけれど。
「ごちそうさまでした。お先にありがとうございました」
「どうも、僕も食べちゃうね」
今日の賄いは、ほうれん草とキャベツの切れっ端と余った空豆を特製の麺つゆで炒めただけの野菜炒めだ。ご飯は白飯に細かくちぎった大葉と赤酢を混ぜたもの。これがさっぱりしていて、かつ簡単に作れて美味しいのだ。
知樹が食事を摂っていると、来客を告げる鐘が鳴った。思わず立ちあがろうとするが、草太に制される。
「ご飯、食べててください。何かあれば言います」
入ってきたのは三人家族だ。まだ年若い夫婦と、四、五歳くらいの男の子である。
子供はぶすっと不機嫌そうな顔をしている。この暑さと慣れない旅行で疲れているのかもしれない。
草太が席に案内し、メニュー表を渡すと、母親は子供に優しい声で話しかけた。
「コウちゃん、ほらジュース飲もう。アイスもあるよ、ママと同じオレンジにする?」
「……いらない、ジュース飲みたくないもん」
「ならパパと一緒にアップルジュースにするか? コウキ、昨日もホテルでアップルジュース好きだって言ってたよな? ここのも冷たくて、美味しいぞ」
「いらない、今は飲みたくないもん」
子供は頑なだ。父親と母親が機嫌を取ろうと何か話しかけても、嫌だ、というばかりで、仕舞いには俯いてしまった。
何かあったのだろうか。賄いを食べ終えた知樹はキッチンに立ち、様子を見ることにした。
「ほらこの人参ケーキ食べれば、コウキの病気も治るぞ。人参は栄養いっぱいだからな」
「パパの嘘つき……、手術しないと治らないってお医者さん言ってた……、この旅行が終わったらまた入院しなきゃいけないんでしょ……」
子供の目にはみるみる涙が溜まっていく。ポツリと一粒溢れると、子供の頬を濡らした。
泣きじゃくるわけでもなく、静かに諦めたように泣く子供の姿は見ていて痛々しい。
「いっぱい手術しても、ぼくの病気、全然治んない……、楽しくない、お外でたくさん遊びたいよ……」
沈黙が店内を覆う。何か慰めてやりたい気持ちにかられるが、事情もわからない知樹が変に慰めても、余計に子供の頑なな心を傷つけてしまう可能性もある。
一介の店長である知樹には何もできない。はらはらと様子を見守っていた時であった。
「すみません。何か、ご事情があるのですか?」
いきなり草太が三人家族に話しかけた。
知樹は驚くというより、ぎょっとした。草太は一体、何をしようとしているのだろう。
若い父親と母親は一瞬驚いたような表情をして、顔を示し合わせたが、母親が口を開いた。
「この子、心臓の病気なんです。それで大きな手術を控えているので、その前に家族で旅行に来ているんですよ……」
弱々しく母親は微笑んだ。父親は硬い表情をしている。
子供の前で言うのは憚られるが、おそらくその手術は生死に関わるものなのだろう。なのでこれが家族で過ごす最後の旅行になるのかもしれない。
「そうですか……、ちょっと俺に任せてもらってもいいですか? これでも医学部に通っていて、医者の卵なんでお力になれると思います」
「……はい」
不安そうだが、両親は草太からの申し出を承諾する。医学部に通っていて、医者の卵という言葉が効いたのかもしれない。
草太は俯いている子供の目線に合わせ、膝をついた。そしてしっかりと子供と目を合わせる。
「コウキくん、こんにちは。俺は草太って言います」
「……こんにちは」
小さな声だが、子供は草太の言葉に返答した。
「病院は嫌だよね? 手術も嫌い?」
「嫌い、痛くて、何回もしてるのに病気が治らないんだもん」
「だよな、実は俺も五回手術をしてるんだ」
そう言うと、草太はエプロンの肩の紐をずらした。そして着ていたシャツの前のボタンを開け、胸元を子供に晒す。
草太の胸元には引き攣ったような傷跡がある。それを子供に見せた。
(手術の跡だったのか……)
これは知樹も初耳だった。カモメ型の傷跡は、大怪我の跡などではなかったのだ。
「これ、見て。手術をした跡。俺もコウキくんと同じ心臓の病気だったんだ。全然治らなくて、ずっと入院してて、お外でも遊べなかったんだ」
草太は真面目な表情を崩さない。けれど安心させるように、優しい声で話しかけている。
「これ、痛そう……」
子供の小さな手がそっと草太の胸元に触れた。カモメ型の傷をなぞり、さわさわと優しく撫でている。
「超痛かった、何回も手術も本当に嫌だった、けれども俺は今年で二十四。髪の毛も金色にできて、こんなオシャレなカフェでも働けて、医学部に通ってて、医者になる勉強もできてる。それに毎日が楽しいし、幸せだ」
ふ、と草太は表情を緩める。慈愛に満ちた表情だ。しかしどこかもの悲しさも感じられる。きっと過去の辛かった闘病生活を思い出しているのだろう。そして、草太と同じ辛い経験を今から小さな彼は経験するのだ。何か思うところがあるのかもしれない。
いつもの真っ直ぐに元気な表情以外の草太の笑顔を、知樹は初めて見た。
また不意にドキドキしてくる。見つめられて、話しかけられているのは子供なのに、甘苦しい動悸が止まらない。
彼の明るさの土台にあるものにはきっと過去の辛い闘病体験が多分に含まれている。その上で、それを克服した上で、草太は今を明るく、幸せに生きている。
「ここには俺を生かしてくれた人の思いが詰まってるんだ。だから何回もあった怖くて、嫌な手術も、痛い注射やお外で遊べない悔しさも、乗り越えられたんだ」
「お兄ちゃん、すごいね……、僕もお兄ちゃんみたいになりたい。なれるかな?」
ぱあ、とわかりやすく子供の顔が明るくなる。
そんな子供に草太はいつものように明るく、底抜けに幸せそうな笑顔を向けた。
「なれる! 絶対に。今は痛いこと、苦しいことばっかりかもしれないけれど、それを乗り越えられる強さをコウキくんは持ってるはず。だから俺みたいになれるぞ!」
「うん! 僕、頑張れる気がしてきた……、入院も、手術も頑張る。それでお兄ちゃんみたいに髪の毛、金色にする」
「髪の毛はお母さんとお父さんに許可を貰ってからだな。だけど、その調子だ! それじゃあ、注文はどうする? 何かジュース飲む?」
子供がアップルジュースが飲みたい、と言ったので、キッチンにいた知樹はアップルジュースの用意をした。
母親はハンカチで目元を押さえ、父親は震える声で草太にありがとうございます、とお礼を言っている。
草太が、大したことはしていませんよ、と謙遜しているのが聞こえた。
「アップルジュース三つと、バニラアイス一つお願いします」
家族から注文を受けた草太が知樹に注文を伝えにきた。
それに、はい、と返事をして、知樹はコップを三つ取り出し、アップルジュースを注ぐ。
バニラアイスを平皿に装うと、いつもはミントを添えるのだが、知樹はそれをやめた。
代わりにデコレーション用のチョコレートペンを取り出し、バニラアイスの上に半円を二つ、カモメを描いた。
「できたよ、これ、お願い」
アップルジュース三つとカモメが描かれたバニラアイスクリームがのったトレイを渡す。
「あ、これって……」
いつもとは違うバニラアイスクリームに気がつき、草太が目を瞠った。
「コウキくん、何度も大峰くんの手術痕に触れてただろ? だから僕からも入院や手術を頑張れるようにサービス。それに子供にはハーブよりもチョコの方が良いかな、と思ってさ」
このカモメの形がまだ幼い子供の中で、勇気の象徴になれば良いと思った。それに知樹にはそれくらいしか、彼を励ます方法が思いつかない。
知樹は自分が関わることで逆に子供を傷つけてしまうかも、と思い、何も行動ができなかった。しなかった、と言っても良いかもしれない。
草太のことを純粋に尊敬する気持ちが湧き上がってくる。すごい、と思った。積極的に関わり、子供を勇気づけたのだ。
知樹にはきっとできない。子供を傷つけてしまったら、と思うと、自分の心を守る為にもそういった行動には出られないだろう。
「きっと喜ぶと思います、ありがとうございます」
草太はなぜか知樹にお礼を言うと、三人家族の座るテーブルへと飲み物とデザートを持っていく。
案の定、子供が嬉しそうにはしゃいでいる声が店内に響いた。
「お兄ちゃんの胸の傷跡と同じ形だー!」
「そうだ、店長もコウキくんのことを応援してくれてる。だからがんばろうな!」
草太はまた床に膝をつき、子供と目線を合わせている。そして、わしゃわしゃと子供の頭を撫でると、子供はさらにはしゃいだ。
先ほどまでの草太の笑顔に小さく含まれていた物悲しさはもう見られない。真っ直ぐで、元気な草太らしい笑顔だ。
(大峰くんに子供ができたら、きっと良いパパになるんだろうなあ……)
無意識にそんなことを考えていると、なぜか胸がちくりと痛くなった。立っていられなくなり、ふら、とする。転けないよう、カウンターに手をついた。
明るくて綺麗な奥さん、元気で可愛らしい子供、二人に慈しみの視線を向ける草太。
当たり前だが、そこには知樹の居場所はない。
嫌だ、とはっきり心が訴えた。草太の元気な笑顔も、たまにする真面目な視線も、全部全部知樹だけに向けられていてほしい。
そんなことを考えている自分に気がつき、知樹は息が止まりそうになった。
なぜこんなことを考えてしまっているのだろう。疑問に思いつつも、一つの答えが浮かび上がってくる。
(あ、これ……、僕、大峰くんのことが本気で好きなんだ)
知樹の恋はいつも嫉妬から始まるからだ。側にいてほしい、自分だけを見ていてほしい、自分だけに笑いかけてほしい。
好意を自覚して、一番最初に思ったのは、触れてはいけない感情に気がついてしまった、という焦りだった。
変に動悸がしてくる。恋に気がついた喜びはない。ただただしまった、という感情が心に広がっていく。
望みもない相手に恋をすること、嫉妬を覚えることの辛さはよく知っている。知樹は立っているのが億劫になり、奥の部屋の椅子に座り込んだ。
(なんで、こんな……、歳も離れているし、彩奈の友達なのに……)
だめだ、だめだ、と自分に言い聞かせるが、片思いは止まらない。それもまた経験のあることだ。
知樹は思わず両手で顔を覆う。
(大峰くん、僕のことも……、励ましてくれないかな……、救ってくれないかな……)
自分と草太では明らかに釣り合わない。心の中に重たいものを抱え、自虐的に生きている知樹と、辛い過去を乗り越え、幸せに今を生きる草太とではあまりにもかけ離れた存在だと感じた。だからこそ、彼の何かを乗り越えた明るさに惹かれたのかもしれない。
知樹は何の希望もない望みを口の中で噛み殺し、知樹はエプロンの胸元についたピンバッジをぎゅっとにぎしめる。
草太の胸元と同じカモメ型のマークが描かれているものだ。
草太への思いを自覚したが、馬鹿正直に伝えられるわけもない。
表面上はいつも通りに接し、テキパキと店の仕事をこなしていく。五日目ともなれば、草太も慣れたもので、知樹が何か指示する前に動いてくれる。嬉しい反面、何だか寂しさも感じ、そんな自分を知樹は恥ずかしいと感じた。
それに明らかに客足が普段よりも多くなっていた。不思議に思っていたが、草太に教えてもらい、原因がわかった。
草太が来て、初日に接客した派手な服装とメイクの若い女性二人組はネットで、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる存在だった。そして彼女たちのアカウントで、シーガルが掲載され、その好意的な内容と、お店の写真や料理の写真があげられ、おしゃれで美味しい、とネットでちょっとした話題になっているらしい。それで来客数が増えているとのことだった。
特にお昼時は目の回るような忙しさだ。店に入りきらず、店外に列ができる日もあった。
今日もそれなりに忙しい。客足は途絶えず、知樹はキッチンから出られないでいる。
一生懸命、フライパンを振るっていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あ、また来てくれたんですね!」
「今日で帰るから最後に来ちゃった〜」
「イケメンのお兄さんたち見たくて!」
シーガルをちょっとした有名店にしてくれた女性二人組がまた来店してくれた。
草太が二人に接客している。
「テラス席しか空いてないんですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です! 最後に外でランチ食べるのも美味しそうだし」
ランチを作りながら、チラチラと草太と女性たちの様子を確認する。二人は草太の案内で、外に出て行き、テラス席へと座った。
それを見届け、知樹は小さくため息をついた。
(やっぱりああいう若い女の子が好きなんだろうな……)
最早、嫉妬心さえ起きない。それが当たり前のことだからだ。知樹のような三十路の男を好きになる方がどうかしているような気さえしてくる。それは自分でも、自分のことを卑下しすぎだろうか。けれども草太が振り向いてくれる可能性が全く見えない以上、そうやって諦めていくしかない。
恋愛に対して積極的になる方法が、自分ではわからない。
「日替わりランチ、二つお願いします」
「……はい」
あの女の子たちの注文だろう。ちょっとそっけなく返事をしてしまった。しかし忙しいから余裕がない、と思われただけだろう。
草太は別の客席に呼ばれ、お冷やを持っていってしまった。
今日の日替わりランチは、玄米丸麦ご飯、豆腐と蕪のあんかけ、キャベツとにんじんの味噌汁、エリンギとセロリのソテーだ。
急いで作っていると、腰が痛くなってきて、ふと知樹が伸びをした時だった。
テラス席で日替わりランチを待っている女の子二人組の余った席に若い男性が二人座っているのが見えた。
女の子たちはこの前のように二人だけで来店していた。男性連れではなかったはずだ。それにあの男性二人が入店した覚えはない。
女の子たちも何だか迷惑そうな顔をしている。
ここからでもわかるほど、男性たちの顔は紅潮している。もしかしたら酔っ払って、女の子たちに絡んでいるのではないだろうか。
とにかく何か異常事態が起こっているのはわかる。知樹は草太の姿を探すが、草太は別の人の注文を受けていて、女の子たちの席の様子に気がついていない。
知樹は一旦ガスコンロの火を消し、手を拭く。そしてテラスに出て、女の子たちの席に近づいた。
「お客さま、何かありましたでしょうか?」
物腰は柔らかに、笑顔は絶やさないようにする。女の子たちの知り合いという可能性も捨てきれないからだ。
しかし女の子たちの発言で、その可能性は消え去った。
「店長さん、知らない人なんです!」
「勝手に椅子に座ってきて、一緒に飲もうってしつこくて……」
二人は縋るような目つきで知樹を見ている。
やはり知樹の予想は正しかった。しつこいナンパに合っていたようだ。
「はあ? オレたちもお客さんですよ、店長サン」
「そうそう、この子たちと一緒に遊びたいだけだし」
下品な笑い方をする男たちだ。きっと酔わせてどこかへ連れ込んだり、何かしようとしているのだろう。
女の子たちは彩奈ぐらいの年齢だ。彩奈がもしこんな下卑た男たちに絡まれていたら、と考えると、怒りではらわたが煮えくり返りそうだ。この子たちはただのお客さんだが、彩奈と被り、同じような気持ちに駆られる。それに大事なお客様だ。店長である知樹はお客様を守る務めがある。
「お知り合いではなさそうですね。別席をご案内いたしますので、ここから退席してくださいますか?」
「あぁっ!」
男の一人がどんとテーブルを強く叩き、立ち上がった。そして知樹の前に立ち、迫ってくる。
「ごちゃごちゃうるせえな! ここで良いって言ってんだよ!」
「大きな声は他のお客さまのご迷惑になります。お控えください。店の規則をお守り頂けないようであれば、ご退店をお願いします」
「舐めてんのか? その綺麗な顔、ぶん殴ってやろうか」
もう一人の男性も知樹に近づき、ガンを飛ばしてくる。
二人とも背丈は知樹よりも大きく、体型もがっしりしている。本当に殴り合いになれば知樹に勝ち目はないだろう。
しかしここで引くわけにはいかない。ここのカフェの店長は知樹だ。責任者が不当な暴力に屈するわけにはいかない。
正直に言えば怖いに決まっている。特に酔っているから、何をするかわからないような雰囲気があった。
しかし知樹は引かず、微笑みながら男性たちを睨みつける。
「どうぞ、ご退店を。他のお客様の迷惑となる方をお店に入れるわけには行きません」
「はあ? 何言ってんだお前」
どんと肩が押され、突き飛ばされた。こけるほどの力ではないが、身体がよろけ、後ろへ下がってしまう。
その時、知樹を押した男がお冷やのコップを手に持つのが見えた。女の子たちのために用意したお冷やだ。まだ中身が半分ほど残っている。
男がその中身を知樹にかけようとした。
冷たいものがふりかけられる予感がし、知樹は思わず目を閉じる。
「知樹さん!」
草太が知樹を呼ぶ声がした。目を開けると、目の前に草太の背中が見える。
いけない、このままでは草太が水を被ってしまう。
それはだめだ。ここの店長は知樹で、草太は店員だ。店長は店員とお客様を守らなければならない。その責任がある。兄だってそうしていた。
その責任さえ果たせないのであれば、知樹は何もできなくなってしまう。
「あっ」
知樹は手を伸ばすが、間に合わない。
男がぶちまけた水は知樹ではなく、草太にかかった。
草太の顔や胸元が水に濡れ、毎朝ヘアアイロンできちんとセットしている髪が乱れた。
「は! 二度と来ねえよ、こんな店!」
「別のところで飲み直そうぜ!」
がしゃん、とコップの割れる音がする。男がコップを地面に放り投げたのだ。
驚いた女の子が小さく悲鳴をあげた。
水をぶちまけ、コップを壊し、気が済んだのか、男たちは大股で去っていった。
地面に放り投げられたコップを見る。これもアンティークの貴重なものだった。知樹が大切に店で使ってきたものだ。しかし乱暴に壊されてしまった。
「大峰くん、大丈夫っ?」
コップもショックだが、今は草太の方が心配だ。知樹は草太に声をかけた。
「水、かけられただけです。それより店長は大丈夫ですか? お客様も、お怪我は?」
「私たちは大丈夫です、けど店長さんと店員さんが……」
女の子たちは突き飛ばされた知樹、水をかけられた草太を心配している。大きな目に涙を浮かべていた。
「僕は軽くこづかれた程度なので、大したことはありません。お客様、奥の個室が空いたのでそっちに移動しましょうか?」
何とか店長の役目を果たすため、知樹は出そうになった弱い心を押し込める。
(他人の目が気になるだろうから、まずは女の子たちを移動させて……)
この一連の騒動で、他の客がざわついている。
草太が女の子たちを店内の個室へ案内しているのを確認し、知樹は頭を下げた。
「お騒がせして大変申し訳ありませんでした。今後はこのようなことが起こらないよう、努めて参りますので、ごゆっくりとお食事、お飲み物をお楽しみください」
四方に向かって頭を下げる。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
ここには海辺の静かでゆっくりとした環境と、美味しい地元野菜の食事を楽しみに来てくれている人が多い。みんなの楽しい気分に水を差すような出来事を店で起こしてしまったことが、店長として不甲斐なくて仕方ない。
それに草太が水をかけられてしまった。
案内をし終わったのか、草太が戻ってきた。手には箒とちりとりを持っている。
「店長、二人は帰るそうです。少しショックを受けているようでした」
「……わかった」
ずん、と心が重くなる。
(もっと僕がしっかりしていれば……、もっと相手を見極めていれば……)
こういう時、兄ならこんな騒ぎも起こさず、問題を解決していただろう。
女の子たちも楽しく食事ができていただろうし、草太が水をかけられることもなかった。
「ちょっと身体も震えてますし、顔色が悪いです。まだ料理の途中でしょう? キッチンに戻ってください。片付けと後始末は俺がしておくので」
「う、うん……」
まだ草太の顔や髪、服は水に濡れていた。知樹はエプロンのポケットから急いでハンカチを取り出し、草太に渡す。
「本当に、ごめん……、よろしくお願いします」
それだけ言うと、キッチンに戻った。
店長として、お客様と店員を守れなかったことが情けなくて仕方ない。けれど今はそんなことを考え、止まっているわけにはいかないのだ。他のお客様に更なる迷惑をかけてしまう。それだけは避けたい。
とにかくまずは目の前の料理を作ることに集中し、知樹は鍋の火をつけた。
店はきっかり午後五時に終えた。
店締めをしようと作業をし始めた草太に近づき、知樹は頭を下げた。
「今日は、ごめんっ!」
「えっ! ちょっと頭をあげてくださいよ、知樹さんは何も悪くないじゃないですか」
そうかもしれない。けれど、知樹は自分で自分が許せない。
「店員を、従業員を危険に晒すなんて、僕は店長失格だ……、お客様もショックを受けて帰ってしまったし……」
「とりあえず頭をあげて、ほら、落ち着いてください。ここに座ってくださいよ」
肩を持たれ、近くにあった椅子に座らされる。草太も椅子を持ってきて、目の前に座り、知樹と向き合う。
「あんな奴ら、どう対応しても、乱暴なことしかしないんです。知樹さんに難癖つけて、店に難癖つけて、キリがない。あの対応であっていると思いますよ」
草太の言い分もわかるが、自分の中で納得が行かなくて、つい目を逸らし、俯いてしまった。
「それでも、僕の代わりに……、水を被ってしまって……、コップの片付けも、大峰くんにやらせてしまって……」
知樹は思わず唇を痛いほど噛み締める。
「他のお客さんに頭を下げていたでしょう? 誠心誠意、謝罪をしていた。それに女の子たちが酔っぱらいに絡まれてるって気がついて、男二人に立ち向かっていった知樹さん、めちゃくちゃかっこよかったですよ」
知樹の張り詰めた心を解きほぐすように、草太は柔らかい声色で、知樹に話しかける。
ふわりと優しい香りがして、知樹は顔を上げた。草太が立ち上がり、知樹に近づく。
「俺、知樹さんのすぐ行動ができるところ、好きですよ」
そう言うと、右手が差し出され、頬に触れられる。暖かく、大きな手だ。
草太に触れられ、知樹は動けなくなる。固まっていると、親指で唇をなぞられた。
(好きって……)
優しく何度もなぞられているうちに、噛み締めていた力は解けていく。力が加えられた親指が半開きになった唇の端を押し、手が離れていった。
何をされたのか、何を言われたのか理解できず、目を驚きで身開いたまま、知樹は草太を見つめる。
惚けた顔をしている自覚はあるが、自分をうまく取り繕えない。何も言葉が出てこず、知樹は草太から視線が外せない。
(唇に……、頬に、大峰くんに、触れられた……)
心臓が波打ち出す。血流が上がり、顔に熱が集まってくるのがわかった。
好きな人に優しく触れられた、という初めての経験に処理が追いつかない。
男同士なのだし、触るなよ、と冗談っぽく言えたらよかったのかもしれない。さっきの『好き』だって、『尊敬できる』という意味だろう。
けれどもそんな余裕はなく、知樹は頬に朱を差したまま、すがるような目線で草太を見つめてしまっている自覚があった。
(バレる、好きだって、バレてしまう……)
それはだめだ。草太は可愛い女の子が好きなストレートの男性なのだ。
一夏の心に秘めた片思いとして、心に締まっておくと決めたのだから。
「彩奈ちゃんから明日にはこっちに帰省するからバイトはもう大丈夫だ、と言われました。今夜が最後なんです、なのにそんな顔をされたら帰れなくなるでしょう?」
最後、と草太の言葉を、知樹は惚けたように繰り返す。
草太は元々彩奈の代わりにアルバイトに入ってくれた助っ人だ。彩奈が旅行から帰ってくるまでの一週間だけの、期間限定のアルバイトなのだ。
ここで嫌だ、と言えたら、どれだけ楽だっただろう。草太は大学に通っている。いずれ東京へ帰らなければいけないが、まだここにいてほしいと素直に言えたらどれだけ良かったのか。
草太ははにかんだ。けれどうわついた軽薄な笑顔ではない。しっかりと知樹を柔らかな目線で眺めていた。
「夕飯、俺が作ります。ホットサンドを作るんで、二人で海辺で食べましょう。その時、色々お話がしたいです」
思い当たることが全くない。見当がつかないことはとても怖い。
だが頬に差し伸べられた手の暖かさや、知樹の唇をなぞった親指の優しさから、草太が知樹を傷つけるような話はしないだろう、と思った。そう信じたかった。
「……わかった」
「それじゃあここのキッチン、お借りしますよ」
知樹がやっと絞り出したかのような小さな声で返事をすると、草太は立ち上がり、店のキッチンの方へと歩いていく。
(そうだ、店締め……)
ばくばくと心臓が締め付けられている。自分ではどうしようもない。もう何がなんだかわからなかった。
そんな状態でも何年間も変わらず続けてきた作業だけは、ぎこちなくともこなすことができて、知樹は遅れて椅子から立ち上がると、黙々と作業をした。
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