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第8話

 湖の側に寄ると、涼しい風が吹く。薄い神装束では少し肌寒かった。    霊感なんかないつもりだが、ここが神聖な場所だということは肌で感じる。  龍庵湖。原初の龍神が天から落ちてきた場所。その衝撃で山が窪み、その後に降り続いた雨のせいで水が溜まったとされている。  そして、この湖底に原初の龍神は眠っている、と言われていた。その後、天に別れを告げてきた龍神たちがここいらを神域として暮らし始め、流れてきた人間と交わり、子孫達が龍人として、今も生きている。  賢木はふう、と深呼吸をした。緊張で親指を拳に握り込んでいる。  愛仁に別れの手紙を書き、美邑の取り次ぎで龍帝と面会し、賢木は自分が斎宮として身を捧げるつもりであることを伝えた。  そして、愛仁の廃太子の件や愛仁が斎宮となることは取りやめてほしい、ということ、橘家に仕えている使用人を宮廷で雇い、路頭に迷わないようにしてほしいこと等を伝え、承諾された。  初めて相対した龍帝には力強さを感じた。愛仁に良く似ている。年齢と病で頑健さは衰えているものの、若い頃はさぞ強く、勇ましい皇族であったのだろう。  龍帝との面会の後は、神宮で過ごしていた。斎宮として身を捧げるため、禊を行ったり、祝詞を覚えたりと、とにかく儀礼的なものが多く、それらをこなしていくうちにあっという間にこの日が来てしまった。  あれから愛仁とは会っていない。誰との接触も禁止された。  賢木は今、湖のほとりに建てられた社の中にいる。背の高い社だ。太い板が真っ直ぐに伸びており、そこから湖へと身を投げるのだという。  神聖な儀式であるので、限られた者たちだけで行われている。  少し離れた場所で龍帝、その妻である中宮、皇太子である愛仁、その弟の直仁等々が儀式に参列していた。詩空は参列を許されなかった。降嫁し、もう皇族ではなくなったからだ。  賢木はわざと皇族方は見なかった。愛仁の顔を見るのが恐ろしかったのだ。 (怒っているでしょうね……)  けれど、そちらの方がいいのかもしれない。何の相談もせず、勝手に出ていった賢木に怒りを覚えて当然だろう。そのまま嫌いになってくれた方が彼の為になる。そのまま、賢木のことなんか忘れて、然るべき妃を娶り、国を繁栄させ、幸せな生涯を送ってほしい。  賢木はぐ、と拳を握り込んだ。そんなものは建前だ。ただの綺麗事だ。 (本当は、私の決心が、覚悟が鈍るから……、なのに……!)  あの青色を見ると、共にいたいと思ってしまう。守ってやる、という言葉に甘えてしまいそうになる。  だがそれではダメなのだ。賢木は透咲角を持つ龍人、愛仁は皇太子、やるべきこと、役目があり、それはお互いに違うのだから。  賢木はこの身を持って、国の凶事を食い止める。愛仁は凶事が終わった煌安帝国を建て直し、民の為に良き帝として君臨せねばならない。 「斎宮様、こちらを」  頭を下げた神官が恭しく、盆を差し出してくる。  盆に捧げられたのは朱塗りの杯だ。酒が並々と注がれている。  賢木はそれを一気に飲み干した。  カッと身体が熱くなった。度数の高い酒だろう。意識を混濁させて、苦しみの少ないように湖へ身を投げるのだ。  杯を盆へと返すと、神官がさっと道を開けた。  いよいよだ。賢木はふらつきそうになる足をぐっと堪え、一歩、一歩踏み出していく。  覚悟はとうにした。自分が犠牲となり、国の凶事が終わり、後のことは愛仁が何とかしてくれるだろう。  大丈夫だ、私はこのまま逝ける。  そう思い、さらに一歩踏み出した時だった。 「賢木っ!」  雷鳴のように鋭い声が辺りに響く。驚き、賢木は立ち止まり、振り返ってしまった。 「行くな! 待て!」  社の手前で、兵に取り押さえられた愛仁が賢木を見て、叫んでいる。  いつの間にこんなところまで来たのだろう。参列者の席にいたのではないだろうか。 「殿下、落ち着いてください!」  制止している兵が必死に愛仁を抑え込んでいた。腕を取られ、背に乗られ、そんなことをされたら愛仁の身体に傷がついてしまうのではないだろうか。  彼の美貌が悲壮に歪んでいる。だが、青い目は縋るように賢木を見つめていて、賢木は一瞬動けなくなった。 (あっ、これは……)   いけない。これはいけない感情だ。視界がぼやけてきて、急いで目元を乱雑に拭う。  そして、振り切るように、愛仁に背を向けた。 (さよなら、愛仁様)  まだ愛仁が賢木を呼ぶ声が聞こえる。それを振り切るようにして、賢木は板を走り切り、思い切り湖の中に飛び込んだ。    まず賢木の中に混乱が押し寄せた。賢木は一人で龍庵湖に飛び込んだのだ。なのになぜ一緒に愛仁まで飛び込んでいるのだろう。  抱き寄せられ、唇を合わせられる。空気が送り込まれ、呼吸が少し楽になった。 「お前が好きだ! 俺もこの恋に命をかけさせてもらう!」  はっきりと愛仁の声が聞こえる。不思議な感覚だった。  現実味を帯びていない。もしかして死ぬ間際、自分に都合の良い夢を見ているのだろうか。  しかし手を握られた。大きく、暖かな手のひらだ。  何か、頑なであったものが氷解していく。思わず賢木は手を握り返した。  そして、賢木の心に、とっくに諦めたはずの、『生きたい』という感情が湧いてきた。 (こんな風に死にたくない! この人と恋がしたい、愛したい、愛されたい、共にいたい、もっと、もっと生きていたい!)  身体の中で何かが渦巻いている。賢木は愛仁の手を握り返し、彼の青い瞳をきっと見据えた。 「私も愛しています! 共に生きたい! 命をかけて貴方を愛したい!」  水中で、そう叫んだ時だった。  龍角に衝撃が走る。びりびりと角が痺れる感覚があり、賢木は目を閉じた。  すると、頭の中に古代の龍神と人との神話が入り込んできた。  流れてくる映像の言葉は当に失われた言語だ。何を言っているのかはわからない。だが、賢木はどうすればいいのか理解する。  聞いたことも、言ったこともない言葉が口をついて出る。力の解放の仕方、繋がれている愛仁の手からも力が流れ込んできた。  二人の龍性が重なる。青雨角は本来、雨を司っており、黄雷角は嵐を司っている。  そして、透咲角で全ての力を調和するのだ。  二人がひし、と抱きしめ合うと、湖底から龍の鳴き声が聞こえてきた気がした。    その日は久々に雨が降った。大地を潤し、乾いた空気を一掃させた数日後、嵐がやってきた。その後は晴れが続いている。  だがもう晴れが続き、旱魃となることも、雨が降り続き、川や池が氾濫することもないだろう。  あの日、斎宮として龍庵湖に身を沈めた賢木を、愛仁は制止を振り切り、追いかけてきた。そして、湖の中で愛仁の愛に触れ、賢木は『愛仁と共に生きたい』という思いが爆発した。  その気持ちの高まりが起爆剤となり、賢木の本来の龍性と、愛仁の龍性が重なり、凶事を食い止め、煌安帝国に雨を降らせた。  「大丈夫ですか? 皆さんに変に思われないでしょうか……、すっかり龍角が様変わりしてしまいましたから……」  賢木は鏡を見ながら、不安そうに呟く。 「そうか? 俺はかっこいいと思うけどな」  賢木はもう一度、鏡で自分の龍角を確認した。  賢木の左右の龍角は二叉に分かれており、透き通っている。ただ右は青く透き通っていて、左は黄色く透き通っていた。  このような龍角はどこの文献にも見当たらないという。 「降雨を司る青雨角と、嵐を司る黄雷角、そしてそれらを調和する透咲角、お前は三つの力を持ってるんだ。そして文字通り、この国凶事を止めたし、これからは俺と煌安帝国を守っていく義務がある」 「すっかり帝らしいことを言うようになりましたね……」  賢木が悪戯っぽく笑う。気分は晴れ晴れとしていた。以前は『皇族としての苦悩や悩みに自分は寄り添えない、力になれない』と賢木は苦しく感じていた。だが今は違う。  二人で悩みも、苦しみも分かち合うことができ、賢木は愛仁の力になることができるのだ。とても誇らしくて、嬉しい。  だが、愛仁は拗ねたように唇を尖らせている。 「仕方ないだろう、今日は即位の儀なんだ。それらしいことを言っておかないと、気合いが入らないだろう」  愛仁の言うとおり、今日は愛仁が龍帝として即位をする日だ。  あの日から半年が経った。先の龍帝は期限と決めていた五年を待たず、皇太子である愛仁に龍帝の地位を譲位することを宣言、いくつかの儀を終えた後、本日が一番要となる儀、即位の儀の日であった。  そしてここで愛仁は龍帝となり、賢木は龍帝の妃、中宮となる。  衣服や髪は菊織枝と長鳥丸に用意してもらった。二人とも、生きて戻ってきた愛仁と賢木を見て泣いて喜んでくれた。  支度は早めに終え、二人は控え室で最後の確認をしている。  愛仁は即位の儀用の礼服を着ている。代々受け継がれてきたもので、全体的に紫色である。色合いは暗いが、気品がある。衣服の透かしも皇太子の時のように鶯ではなく、菊があしらわれていた。 「本当は白色を着てほしかったのですが……」  やはり真っ青な龍角に合うのは白色だと思う。暗めの色は合わない気がした。  賢木が残念そうに言うと、愛仁は賢木の手鏡を開けた。 「こればっかりは仕方ない。儀礼だからな。だが、お前の服は特注で作らせてよかった……」  賢木の服は、花山吹を基調として、青色の糸や帯がところどころにあしらわれた意匠だ。全体的にヒラヒラとした布が多く、風が吹くと、神秘的な印象となり、人目を引いた。 「やっぱりこれにしてよかった。お前には伝統的な色が似合う……」  顔を寄せられると、鏡越しに目があった。 「終わったら、今夜はこの服で俺の部屋に来てくれないか……?」 「朝から恥ずかしいことを言わないでください……」  ちゅ、と頬に口づけを落とされると、賢木の頬に朱が差す。 「行きます……、けれど、服を汚したくはないです」 「善処する」 「絶対ですよ」  恥ずかしい。だが前はできなかった甘やかなやりとりができるようになり、賢木は嬉しかった。  以前はさまざまなしがらみがあり、素直にはなれなかった。けれど今はきちんと愛仁からの思いを受け止められるし、自分からも伝えられる。  賢木が愛仁を見上げ、直接見上げた時だった。  「先帝陛下の御成りです」  先帝とは先の龍帝だ。几帳があげられ、頭を丸めた先帝が中へ入ってきた。  賢木はさっと愛仁から身体を離す。そして頭を下げようとした。 「父上、何かありましたか?」  愛仁が警戒したような声を出した。この二人、元々仲は良くはなかった。  なぜ譲位の儀の前に先帝が現れたのか、賢木も不安になる。 「良い、そのままで」  先帝は賢木に近づく。そして、賢木が手に持っていた手鏡に触れた。 「花びら一つ金色の椿……、やはり砂月(さつき)姫のものだ……」  そう言って、先帝は目をつむる。頬を一筋の涙が濡らした。  この手鏡の持ち主を知っているのだろうか。先帝は賢木の実母を知っているのだろうか。 「先帝陛下、この手鏡の持ち主を知っていらっしゃるのですか? 誰なのですか? これは私の実母の唯一の形見なのです。これと私を橘夫妻に預け、実母は不幸な災害で亡くなった、と聞いております」  無礼だと思いつつも、言葉が止まらない。自分の出自を知っている人がここにいる。やはりそこだけは賢木にとって、ネックに感じるところであった。 「教えてください、何があったのですか?」  しばらく先帝は口を引き結んでいた。そして思い口を開いた。 「彼女は、砂月姫は……、貴方と同じ、変則的な透咲角の持ち主だった。わたしは彼女と従兄妹だったんだ。従妹と言っても年齢はだいぶ離れているがね」  昔を思い出しながら語られたのは、賢木が知らない真実だった。  賢木の実母の名は砂月。普段は黄雷角だが、発情期が訪れたり、性的に興奮を覚えると龍角は透明になる変則的な透咲角であった。しかしそれを知るのはごく一部だけ。  やはり隠されて育てられていたのだ。庶民には伏せられていたが、皇族の間で、透咲角という者は生贄という印象が強かったらしい。何か国に凶事があった際、命を賭して国を守る者。家族としても、娘をそんな目には合わせたくなかったのだろう。  なので彼女は遠い古勢の地の皇族に縁のある神宮に送られ、そこで神主としての役目を果たすはずだったのだ。  だが彼女は妊娠していた。しかも貴族でもなんでもない平民の男と恋に落ち、賢木を孕んでしまった。  娘の不義に怒り狂った父親は娘と男と引き離し、赤子を堕胎させようとした。しかし彼女は孕んだ赤子を守るため逃げ出し、それから消息不明となっていたのだ。 「わたしが皇太子だった頃、まだ小さな砂月姫と何度も遊んだことがある。この手鏡は祖母にもらったそうで、大層大切にしていたんだ。彼女が透咲角だとわかってからはほとんど屋敷に閉じ込められていたようだから、大人になった彼女とほとんど会えはしなかったが……」  先帝が賢木を見る。昔を懐かしむような、慈しみに満ちた表情だ。きっと賢木に砂月の面影を見ているのだろう。 「君には本当にすまないことをした……、彼女の忘れ形見を自ら生贄に捧げようとするなんて……」  先帝は賢木に向かって頭を下げた。思わず手で制する。 「ちょ、頭を上げてください!」  それでも先帝は上げようとしない。 「大丈夫ですから、もう実母のことも、今までのことも過ぎたことです。私はこうして、恋をして愛仁様と結ばれることができました。今はそれだけで十分なのです」  賢木は先帝の手を取り、許しは必要ない、と繰り返す。最後にもう一度、すまなかった、と言い、侍従に促され、先帝は退室した。  残された二人はしばらく無言だった。  実母のことは初めて知った。衝撃的な内容だった。だが長年の謎が解け、心のおこりが取れたような気分だ。  実母はまさしく命をかけて賢木を守ってくれたのだ。  賢木が愛仁を命をかけて守ろうとしたように、愛仁が賢木を命をかけて救おうとしたように。  見たこともない実母だが、自分の気性は母から受け継いだものなのだと確信し、より実母を身近に感じ、誇らしい気分になる。 「以前、花びらが混ぜ込んである手紙をもらったことがあると言っただろう?」  沈黙を破ったのは愛仁の方である。  突然の、脈絡のない話にキョトンとしてしまうが、記憶を探り、思い出した。 「あぁ、昔の技術が使われていて、美しいけれども丁寧に扱わないと、すぐにぼろぼろになってしまう香紙のことですね」 「俺が生まれた祝いの文にその紙が使われていたんだ。父上からは『大切な人からもらったものだから、お前に渡しておく』と言われていた。物心がついて、その文を読み、優しさと慈しみに溢れた文章に俺はとにかく感動した。それにいい香りがしていて、どこへ行くにも持ち歩いていて、子供の俺はボロボロにしてしまって、無くしてしまったんだ」  愛仁が遠い目をする。その文を思い出しているのかもしれない。 「差出人の名前は砂月姫だった。もしかしたら父上と砂月姫の関係は、俺と詩空と同じような関係だったのかもしれないな」  愛仁は賢木を見つめる。青い瞳が揺れていた。 「実母のことがわかってよかったです。それに愛仁様とも少しばかり関係があったのですね」 「賢木」  突然、愛仁は賢木に抱きつく。背中に手を回され、きつく抱きしめられた。 「愛している、今から即位の儀だ。どうか俺とと共にこの国をよくしてほしい、側にいてほしい、支えてほしい」  必死な声色に応えるように、賢木も愛仁の背に手を伸ばす。 「私も愛しています、どうか貴方が末長く賢帝として語られる帝となりますように、私の配偶者として、良き夫となりますように、そして、いずれ生まれてくる子の良き父となりますように」  しばらく互いの温もりを確かめていると、侍従が呼ぶ声がした。  もうすぐ即位の儀が始まる。少し緊張しながらも、愛仁と賢木は晴れやかな気持ちで、新たな一歩を踏み出した。

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