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第6話

 エレノアとの待ち合わせは温室とした。今日は作業をするのではなく、花を見て、楽しむだけなので、普段の作業着は着ていない。  メアリルがエレノアを待っていると、風に乗って濃い化粧と、執拗なくらい振られた香水の香りがした。 「お待たせしたわね! 衣装を選ぶのに手間取ってしまって!」  相変わらずゴテゴテとした服装をしていて、派手な帽子を被っている。 「いいえ、本日は来て頂いて光栄です」  メアリルが頭を下げると、エレノアに手を取られる。 「嬉しいわ! 本当にあそこは退屈なの。貴方が話し相手になってくれて、本当に感謝しているわ。早速行きましょうよ! 今日のお礼にお昼はわたしの使用人が用意をしたから、後で一緒に食べましょうね!」  エレノアは三十すぎだが、まるで少女のようにはしゃいでいる。エレノア自身の香りは香水や化粧の香りに紛れてしまい、わからなかった。 「ええ、どうぞ。ご案内しますよ」  季節は夏真っ盛りだ。温室の中は薄着をしていても汗ばむほどである。 「ここはちょっとした実験場も兼ねていて、季節外れの花を咲かせているのですよ」  そう言って、戸の側に植えられているダリアを指差す。  黄色のダリアだ。エレノアの顔が強張ったのをメアリルは見逃さなかった。 「美しいですよね、太陽みたいな堂々とした香りも良い。亡き王太子殿下の病室にも飾られていたとお聞きしました」 「……ダリアは嫌いよ。わたしの庭では一切育たないんだもの。他を見せて頂戴」 「かしこまりました」  不機嫌そうに言われてしまい、メアリルは温室の奥へ進んでいく。  途中で、ネモフィラ、かすみ草、パンジー、葉牡丹、シクラメンなどを見せる。するとだんだんエレノアは機嫌が良くなっていく。 「本当に素敵だわ、わたしの屋敷の庭にもいくつか見繕ってほしいぐらい!」  エレノアはメアリルの手をとり、奥へと進もうとする。 「あ、エレノア様!」 「うふふ、二人だけでお話がしたいわ! 奥には朱天蘭があるんでしょう?」  ラインハルトにエレノアとは二人きりになってはいけない、と言われていたので、側の侍女に目線を送る。しかしいたのはいつもメリルに仕えている侍女ではなく、見知らぬ者だった。 「いってらっしゃいませ、昼食の準備をしておきます」  一礼すると、見知らぬ侍女は去っていった。 「良いじゃない、早く見せて!」  エレノアの手を無理に振り払うこともできない。メアリルは仕方なく、エレノアに半ば引きずられるようにして着いて行った。 「あ! あれが朱天蘭ね!」  赤く大きな蕾が見えてくる。エレノアはメアリルから手を離し、側に駆け寄った。 「花を咲かせるどころか、栽培ですら難しいと聞いたわ。すごく大きな蕾をつけているわね。もうすぐ咲きそうね」  エレノアは目を大きく開け、覗き込むようにして、朱天蘭を見ている。やはりエレノア自身の香りはわからない。 (何か害意があるようには見えないなあ……)  大体、悪意で追いやったとしたなら、わざわざメアリルを訪ねてきたりするだろうか。もしかしたらメアリルに対する誤解はもう解けているのかもしれない。けれど、立場もあるから、証言を覆すこともできなかったのだろう。  きっとそうだ、とメアリルは自分を納得させた。純粋に花を楽しみ、元王太子の病状を心配していたエレノアをこれ以上疑いたくはない。  単純に、ラインハルトを守ろうとしたエレノアの善意を信じたい。 「朱天蘭は赤月夜にしか咲かないそうです。しかもこれは十年前の赤月夜からずっと蕾をつけたままで……、わあ!」  いきなり何か顔に吹き付けられた。思い切り吸い込んでしまい、鼻の奥がつんざくように痛い。目には入らないよう、ゴシゴシと袖で目元を擦る。 「あははは、いい気味! どうして十年前に田舎へ追放してあげたのにまた戻ってきたの?」  これは香水だ。エレノアがメアリルにいきなり振りかけたのだ。香水は喉にまで張りつき、メアリルは激しく咳き込む。苦しくて、地面に蹲った。 「十年前、使用人に作らせたマフィンに発情促進剤を混ぜてやったのよ。あの時は薬の効き目が遅かったからかなりやきもきしたわ。真夜中にやっと効いてきて、アンタが発情期でラインハルトを誘惑し、王太子妃の座を狙ったことにしてやった。極刑は流石に可哀想だから王都追放で許してあげたのに。わたしの慈悲を無駄にするつもりかしら?」 「な、なんで、そんなこと……?」  咳がようやく引いてくる。息を小さく吸いながら、メアリルの頭に浮かんだのは小さな疑問だった。  エレノアを見上げる。彼女の視線には侮蔑と軽蔑と嘲りが混じっていた。  息も苦しいが、それ以上に心が苦しい。  咳が込み上げてきて再び疼くまる。両手で口元を押さえた。咳こむせいで生理的な涙が止まらない。雫がすっと地面へと吸い込まれていくのを眺める。 「……、んと、醜い」  ぽつりと小さく言葉が出た。 「何? 聞こえなかったわ、はっきり言って頂戴」  メアリルは真っ直ぐエレノアを見上げた。そして憐れむような視線を送る。 「貴方の心は、醜く、残酷で、とても、とても可哀想です」  いくらか咳は治まったとはいえ、息はまだ苦しい。けれど地面に蹲ってはいたくなくて、メアリルはふらつきながらも立ち上がり、エレノアと対峙した。 「わたしが……、醜い?」  ぎろり、と睨まれる。香りはわからない。けれど明らかにメアリルに対して悪意を持っている。 「ええ……、理由はわかりませんが、罪を作り上げ、他人を貶めた貴方の行いとそれを許した心はとても醜いです。元王太子殿下も貴方がそんな人であったなんて信じたくはないでしょう」  メアリルの頬に一筋の涙がすっと流れ落ちた。 「なんと、悲しい……」 「元王太子殿下は、キールハルト様は関係ないでしょ!」  エレノアは被っていた帽子を地面に叩きつける。  メアリルは驚きで目を見開いた。結えられていた髪は三十過ぎの女性とは思えないほど、髪は白く、ところどころ禿げも目立っていた。 「王太子殿下が亡くなって、わたしは王太子妃にはなれなかった! このわたしがよ! だから次に立太子され、いずれは国王となるラインハルトの妃に推薦してもらおうと思ったら、もう妃は決めてあるなんて言い出すのよ! 誰かと思えば、汚い神殿の犬じゃないの!」  エレノアがヒートアップしていく毎に、メアリルの心は冷めていく。 「王都から追放してやったのに、わたしは王太子妃にはなれなかった。しかもお父様も、今のラインハルトが行った一連の改革のせいで失脚して、ますます王宮でわたしは孤立していって……」  ざあ、と強く風が吹く。メアリルは重く、口を開いた。 「時の王太子殿下に薬を盛り、最後の白狼一族の私を謂れなき罪で十年間も王都から追放した。本来なら極刑に当たるでしょう。ですが……」 「首を切られるぐらいなら、貴方も道連れよ!」  エレノアは懐からナイフを出し、メアリルへと襲い掛かる。  最初から殺すつもりだったのだろう。感情の香りがわからないよう、執拗に香水を振っていたのだ。  間一髪でかわすと、彼女は悔しそうにうめいた。  次にエレノアは朱天蘭へと襲い掛かる。 「やめてください!」  蕾が潰される。赤い汁が飛び散った。 「王妃の屋敷にはわたしが住む予定だったのに! どうして貴方なの! こんな犬さえいなければ、王妃の座はわたしのものだった」  鋏も使い、他の花や植物もぐちゃぐちゃに切り裂いている。  この花や植物はメアリルが一生懸命、試行錯誤して育てたものだ。  花たちにはラインハルトとの思い出がたくさん詰まっている、十年前の思い出も、最近の思い出も。  それらが破壊されていくような感覚を覚え、メアリルはエレノアに縋った。 「やめて! お願いだから! わ!」 「触らないで!」  派手に地面へと転けてしまう。肘や腰を打ち、メアリルは痛みで顔を顰めた。  頬に熱さを感じる。手で押さえると血が滲んでいるのがわかった。きっとエレノアが持っているナイフの先端が頬をかすったのだろう。 「殺してやるわ……、死体なんて何とでもなるのよ」  目の焦点のあっていないエレノアがナイフを振りかぶる。 (あ、殺される……)   エレノアはもうメアリルを見てはいない。なのに殺意と、ナイフの先端は確実に、倒れているメアリルに向けて振り下ろされた。  怖くて動けなかった。全ての動きが遅くなり、ラインハルトの顔が浮かぶ。 (一度も、名前呼べなかった……、きちんと思いも伝えられなかった)  そんな後悔が胸の中を覆い尽くした時だった。 「メアリル!」  鋭く自分を呼ぶ声と共に、新緑の逞しい香りが鼻を掠める。雄々しくて、けれども爽やかで、凛々しい、大好きなラインハルトの香りだ。  諦めかけていた心に一陣の強い風が吹き荒れる。  こんなところで、こんな理由で死んではいけない。まだ名前も呼べていない。まだラインハルトの全てを受け入れていないのに。  身体を反転させ、エレノアの攻撃をかわそうとする。  すると腰から支えられ、大きな腕に抱き抱えられた。  誰が助けてくれたのか、見なくてもわかる。 (あぁ……、ラインハルト様が来てくれた)  たくましく広い胸はメアリルを受け入れてくれる。吹きかけられた香水で嗅覚が麻痺しているはずなのに、風が強く吹いた森林の清々しい香りに包まれたのがわかった。 「止まれ!」   メアリルを胸に、ラインハルトがエレノアに向けて怒気を放つ。エレノアはかたかたと身体を震わせながら、ナイフを取り落とした。 「へ、陛下……」 「エレノア、お前の使用人が白状したぞ! 十年前のマフィンのことを!」  メアリルはラインハルトに強く掻き抱かれる。 「お前の権力欲のせいで、俺の愛する者を傷つけ、十年間も奪った罪は計り知れない。屋敷で沙汰を待て、国王として、貴様を国法に照らし、処分をする」  エレノアはその場に泣き崩れ、子供のように泣きじゃくる。それをものともせず、ラインハルトの後ろから来た警衛が引っ立てていった。  エレノアがいなくなり、ラインハルトの張り詰めた空気が緩む。  そしてメアリルの顔を見た。 「頬に傷が……、あとはどこか怪我はないか?」 「香水を顔に振りかけられました。今、鼻が効きません……、あとは頬の傷がヒリヒリするぐらいです。転けたときに身体を打ち付けましたが、そこまで痛くはありません」 「そうか。だが後で医者に見せよう」  ラインハルトはメアリルの話を最後まで聞かず、行動に移す。  膝裏を持たれ、足が宙に浮いた。お姫様抱っこのような形になり、メアリルは赤面する。しかしラインハルトの心配する香りを感じ取り、されるがままになった。  先ほどのことはラインハルトに報告をしなければならないだろう。  メアリルは重い口を開いた。 「やはり……、十年前のことは仕組まれた事件であったようです」 「……ああ、聞いた。俺たちはあの女の一族と、あの女の悪意と権力欲で十年間も……、お前は不遇の生活を強いられ……」  ラインハルトは悔しそうに告げた。怒り、やるせなさ、けれどちょっとホッとした。。  嫌なこともあったし、見たくないものも見た。聞きたくなかったことも聞いてしまった。けれども、メアリルの心は不思議と以前よりも軽くなっていた。 「真実を公表する。何としてでもお前の汚名をそそぎ、十年間も汚されていたお前の名誉を回復させる。そして必ずお前の身も心も手に入れ、皆の納得を得られるようにする」  エレノアが逮捕されたことにより、十年前の事件の再捜査や裁判のやり直しが行われるだろう。  どうなるかはわからない。だが事態はいい方向へと進んでいると信じたい。  メアリルは王太子を誘惑した罪人ではなくなるのかもしれない。もし、そうなったら、最後の白狼一族としての役目を、大好きなラインハルトと共に果たせる。  メアリルはラインハルトの首に腕を回し、きつく抱きついた。 「助けてくださって、ありがとうございます、……ラインハルト様」 「な! 今、俺の名前を、んっ!」  メアリルは照れ隠しにラインハルトの唇を塞ぐ。ラインハルトは最初驚き、戸惑っていたが、すぐに唇の隙間から舌を割り込み、メアリルの口内を貪った。  慣れない口付けだが、ラインハルトの思いに応えたい。  そして好きな人とする口付けがこんなに甘くて、心地よいなんて初めて知った。それを大好きなラインハルトとできて、本当に嬉しい。  唇からとろけてしまいそうだった。早くラインハルトと混ざり合いたい。  夢見心地な気分で、メアリルは唇を離す。そしてラインハルトを見上げた。  今度はラインハルトから口付けられる。そして傷がついていない方の頬を頬擦りされた。  身体が更に密着する。この爽やかなラインハルトの香りはもうメアリルだけのものだ。 「メアリル、その、話があるんだ」  ラインハルトは言い出しにくそうに口をモゴモゴさせている。  そして意を決したのか、メアリルを真剣な目で見つめた。 「今月、赤月夜があるだろう? 改めて、朱天蘭が開花する中で結ばれたい。その時にお前の全てを俺にくれないか? 初代国王シンダールと聖狼アスティツァーリアが結ばれた日のように」  メアリルは一瞬動きを止める。驚き、白狼耳をピンと立てた。  厳格王などと呼ばれ、真面目かつ実直なイメージを抱かれる彼がお伽噺の神話のようなプロポーズを夢見ているとは驚きだった。  嬉しいが、一つ問題がある。 「朱天蘭の蕾は……、エレノア様に切り取られ、潰されてしまったのですよ……」  もう蕾は残ってはいないだろう。しゅん、としながら、メアリルはラインハルト共に、無惨な花壇の方へと目線を向けた。 「いや、一つ残っているぞ」 「あ!」  一つだけ膨らんでいるものがある。  メアリルはラインハルトから降り、そこへと近づいていった。 「蕾が一つ……、残っています」  しゃがみ込み、優しく手で包み込む。  仄かに暖かさを感じた。蕾は今か、今かと開花の瞬間を待ち侘びているのだ。  メアリルは思わず涙ぐむ。 「良かった、赤月夜まで大切に育てます」  メアリルは横にしゃがみ込んだラインハルトをじっと見つめた。 「その時まで、口付け以上のことはお預けですね」 「そうだな、だが口付けなら良いんだろう?」 「ものは言いようですね、んっ」  そう言い、メアリルとラインハルトは笑い合いながら軽い口付けを繰り返した。

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