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好きだから、アナタのために10

 お礼と一緒に頭を下げ、数秒後に頭を上げると、藤田さんの視線は客席から僕に戻っていた。 「それで智之には、いくらで雇われているのかな?」 「あの、それは――」  ふたたびなされたお給金の話に戸惑ったら、藤田さんが僕の利き手を掴み、ニッコリほほ笑む。 「君が暇なときでいいから、この手を使って、ウチのレストランでピアノを弾いてほしくてね。もちろんここより、3倍のお給料を出してあげる」  そのセリフで、僕の心が瞬間的に動いてしまった。 (――それだけ多く頂けるのなら、智之さんの借金の足しになるじゃないか!)  頭の中で返済計画をたてる僕に、藤田さんは掴んだ手の甲を撫でながら語りかける。 「それとコンクールで特別賞を獲れるくらいの君なら、いろんな銘柄のピアノを弾いているだろう?」  藤田さんは、壁に貼ってあるコンテストの結果を知らせるポスターに指を差した。 「有名どころのピアノなら、それなりに……」 「ウチで使ってるのは、大橋ピアノ製のグランドピアノだよ」 「嘘っ! あそこで作られたグランドピアノは、確か100台以下しか製造されていないのに、いまだに現役で使えるピアノがあるなんて」  僕の心を揺さぶる言葉の連続に、思わず興奮したところで、目の前に智之さんが現れた。 「聖哉が大きな声を出すなんて、すごく珍しいな」  ジト目で僕らを見つめる智之さんの態度から、嫉妬しているのが嫌でもわかってしまった。それを知ってか、藤田さんは含み笑いを浮かべて説明する。 「智之、ウチで経営してるレストランにも、ピアノがあるんだよ。絶賛ピアニスト募集中でね、彼をスカウトしてたところ」 「聖哉が弾きたきゃ、行けばいいんじゃないか」  不機嫌な態度なのに、智之さんの言ってることが矛盾しているのに困り、藤田さんに思わず視線を飛ばしてしまった。 「智之の行けばという、言質がとれたからね。大手を振ってウチのレストランに、ピアノを弾きに来てよ!」 「そうなんですけど……」  チラッと智之さんの顔色を窺った。どう見ても、行ってほしくない感じが漂っている。 「ウチのピアノ、弾いてみたいでしょ? いつでも空いてるから、連絡ちょうだいね」  片手をヒラヒラ振って颯爽と店から出て行った背中を、なんとはなしに眺めた。 「昇さんの店にあるピアノって、聖哉が大騒ぎするくらいに高級なのかよ?」 「高級というか、レアリティがすごいんだ。メーカーが廃業してるから、滅多にお目にかかれないピアノなんだよ」 「さすがは実業家の昇さん。そんなビンテージ品のピアノを持ってるなんて」  智之さんは僕の利き手を掴み、人差し指で手の甲を撫でさする。 (――もしやこれは、藤田さんが触れたところを消毒してるのかな?) 「智之さん、僕は一度だけ、藤田さんのお店に行ってみようと思う」  僕の言葉で、撫でさする手の動きが止まった。 「聖哉としては、ビンテージ品のピアノを弾いてみたいという好奇心が、どうしても抑えられないからか?」  僕の気持ちを慮ってか、らしくない笑顔を顔に貼りつけて訊ねる。 「うん。ごめんね」 「謝らなくていい。俺だってビンテージ品の酒がそこにあるのなら、手に入れるために足を運ぶくらいするし」  痛いくらいに僕の手を握り締めてから、やんわりと放す。まるで今すぐにでも、行ってこいみたいな感じに思えてしまった。 「ウチはいつでも休んでいいから、昇さんにコンタクトをとってレストランに行けよな」  背中を向けてから言い放たれたセリフは、きっと無理しているのが明らかだった。だって口調が智之さんらしくない。 「智之さん、ありがとう」  誰もいなかったら間違いなく、目の前の背中に抱きついて「妬かないで、僕は智之さんだけだよ」って言ってあげるのにな。  お礼を言ってから椅子に腰かけ、ゆったりとピアノを弾きはじめた。智之さんの嫉妬心が少しでも癒されますようにと願いながら、音を奏でたのだった。

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