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動き出した歯車2

 それによると、ルナは正直なところ行商人の男についての印象が薄いというか、子供の頃に橋の下で拾われてから長い間一緒に暮らしてきたというのに、思い出のようなものが殆ど浮かばないのだと言った。  拾われて以来、小学校や中学校などにどうやって通っていたのかも思い出せないし、仲の良い友達がいた記憶もないという。鮮明に覚えているのは、夜になるとその茶を飲まされて、眠るまで男がずっと枕元で話をしてくれたということだけだそうだ。男は毎晩のようにやさしく頭を撫でながら、ルナの両親についてや近所に住んでいたおばさんたちのことなど、思い出話を聞かせてくれたという。 「だから俺、オッサンのことやさしいいい人なんだって思ってた……。けど、不思議なんだよな。ここに連れて来られて、もうオッサンとは一緒に暮らせなくなるって分かった時も……そんなに寂しく思わなかったっつーかさ。逆に遼センセや冰と離れて暮らすなんて考えたら――今はすっげ寂しいって思うのに」  行商人の男に対してはそういった感情が一切湧かなかったというのだ。 「おそらくだが――それも薬物のせいじゃねえか? 毎晩のように常用させられたお陰で、お前は記憶と共に自我さえ持たなくなっていた。俺たちが初めてお前の部屋を訪ねた時にもそう感じたが、まるで感情の無え人形のようだったからな」  焔の分析に遼二が続ける。 「この邸に来てからはあの茶を飲むことを忘れていたと言ったな。とすれば、だんだんと薬の効果が切れてきて、感情を取り戻すようになったというわけか」  そういえば日を追う毎にルナの表情が明るくなっているのは確かだ。冰との触れ合いなどで彼に変化が生じているのかと思っていたが、どうやらそれだけが原因ではないということになる。 「もちろん冰や真田さんとの交流で気持ちが明るくなっているのは確かだろうが、あの茶を摂取しなくなったことで感情が戻ってきたのだとしたら――」 「その薬は摂り続けなければ効果が続かねえってことになるな。まあ、鄧の分析結果が出ればもっと詳しいことが分かろうが、もしかしたらその薬物ってのは人間の心の部分に作用するようにできているのかも知れんな」  ルナはこれまでも身体の面では特に悪いところはなかったというし、頭が痛いとか咳が出るとかそういった症状もなかったそうだ。とすれば、身体的には影響を及ぼさないが、記憶や心に作用する代物なのかも知れない。薬が完全に抜ければ記憶が戻る可能性も高い。皆は光明が差す思いに胸を逸らせるのだった。

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