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「じゃあ胸を出して」
食後しばらくして、成吾の診察を受けることになった。顔が火照ったり頭がくらくらするのは、シャンパンの酔いと、いまだに慣れない成吾の不思議な香りのせいだと思ったのに、念のためにと渡された体温計で計ったら、39度3分。かなりしっかり熱があった。
「吸って……吐いて。……はい、次は背中を向けて」
本物の医師なのだから当たり前とはいえ、成吾が聴診器を扱う姿は様になっている。耳を澄ませて胸の音を聞く真剣な表情がかっこいい。ユートはこっそり胸をときめかせた。
「大きく口を開けて。あーん」
つづいて口の中を見せる。喉の状態を見た後、ついでに歯並びと噛み合わせもチェック。なんだか犬にでもなった気分でいたら、ぐっと口内の奥深くまで指が押し込まれた。吐きそうになって反射的に身をよじる。
「暴れるなよ、子供じゃないんだから」
成吾に言われて必死に我慢する。何を診ているのか、なかなか終わってくれない。涙が滲み、唾液が溢れる。悶えるユートを見て成吾が微かに笑っている。堪えきれなくなって頭を振ると、やっと指が出ていった。
「うん、特に異常はなさそうだよ」
激しく咳き込むユートの横で成吾が手につけていた薄いゴム手袋をゴミ箱に捨てている。
「いきなり環境が変わって疲れたんじゃないかな。熱が高いのが少し心配だけど……元気もあるし明日まで様子をみようか」
その意見にユートも同意した。成吾の言う通り身体が熱いだけで具合は悪くない。それに、ユートにとってこんな発熱は、月に一度くらい、今まであまり気にしてなかったが、たしかだいたい月末の今頃にやってくるものだった。
説明を受けた成吾の表情が一気に輝いた。
「なんだそうか! 不良品かと思ったけど、発情の気配があるんだな。しかもそれが今日だとはいタイミングだ。……さあ、もう行くよ」
強引に手を引かれる。ユートは成吾とともにリビングを後にした。
「まだ10時前ですけど、もう寝るんですか……?」
連れていかれた寝室は、真っ白で明るいリビングとは対称的な、グレーが基調のゆったりと落ち着いた雰囲気だった。
何人でも寝られそうな広々としたベッドがあり、ルームシアターも楽しめると、成吾がリモコンを操作してプロジェクターを出してみせてくれた。
しかしユートの目を引いたのは、ベッドの真上に掛けられた特大の抽象画だった。金の絵の具の表面で光が複雑に屈折し、さまざまに色を変えて輝いている。見つけてすぐはあまりの迫力と美しさに瞬きを忘れていたほど。
「これ……とてもきれいな絵ですね。……なんだか体が痺れてるみたいに動けません……」
「へえ。ユートは見る目があるじゃないか」
成吾がユートの横に立って、誇らしげに説明する。
「俺もこの絵を見つけたときは、今のユートと同じように見惚れたよ。この絵はコレクターの持ち物で、売り物ではなかったんだけど、しつこく交渉して、譲ってもらったんだ。タイトルは永遠……だそうだけど、俺にはこの絵が俺自身に見えている。決して努力を惜しまずに誰よりも優秀でいる、欲しいものは必ず勝ち取る……どんなときもこの絵みたいに輝いていたいんだ」
……なんて。自信過剰だしナルシストかな。頬を少し赤くした成吾に、ユートは首を振った。
「いいえ、僕にもこの絵が、成吾さんの力強い瞳に見えます。ここに立っていると、二人の成吾さんに見つめられているみたい」
「なんだ。ユートは口下手かと思ったら、意外とお世辞がうまいんだな」
もう一度首を横に振る。
「お世辞なんかじゃありません。本当にそう見えて……」
「そうか。じゃあ自信を持とう」
成吾が微笑んでくれたので、ユートは嬉しくなった。
「それに、……いえ」
言いかけて止める。幸い、絵を見上げていた成吾には聞こえていなかった。成吾に教えてあげたいことがあるけれど、少なくとも今はだめだ。ユートはそう判断してぐっと押さえた。
(成吾さん。この絵は僕の神様が、僕と成吾さんに授けてくださったんです……)
もっとはっきり言えば、この絵は成吾というより、僕のもの。でもそれを言ってしまうと、正当な持ち主である成吾は気を悪くして、ユートは立場をわきまえない強欲な人間、もしくは頭がおかしい人間だと思うだろう。だから心の奥に秘めておく。
ユートは静かに両手を胸の前で組んだ。
(成吾さんの前でお返事はできないけれど、ちゃんと聞こえてます、神様……)
一人ぼっちだったユートはずっと救われたくて、毎日のように心の中にいる自分だけの神様に祈ってきた。これまで一度も返事はなくて、諦めていたのに、いま初めて神様がユートにどうすればいいか教えてくれている。
力強い輝きを放つ中心を、繊細で優しい金色の線が柔らかく包んでいるもの。その中は安全で、心地よくて、幸せで溢れている。これは……そう……。
(──これは僕の巣だ。生涯の番を見つけた鳥がここで卵を生むように、そう遠くない未来、僕もこの美しい巣を作るんだ……)
もっと近くで見たい。絵に呼ばれるようにユートは腕を伸ばして絵に近づいていった。
「ユート」
指先が触れそうになったとき、不意に後ろから抱きすくめられた。まどろみから覚めたように霞がかっていた視界が広がる。
「す、すみません、勝手に触ろうとするなんていけませんよね……」
幸い、振り向いた成吾の表情には怒りは見えなかった。
「いいよ。俺のものは全てユートのものだと思って好きにしていい。でも絵は逃げないだろ。今夜はもうベッドに入るんだ」
まるでユートと絵と引き離すかのように成吾の腕に力が込められた。
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