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9-1-衝撃と、悪夢と、そして

 その日は土曜日だった。  今日から出張に赴く父親を早朝に送り出し、ゆったりとした一日を過ごしていた鳴海は、午後四時頃になって外出の準備を始めた。  いざ自宅を出ようとして、携帯が短く鳴った。碧からのメールだった。これから恭太郎と三人で会えないかという急なお誘いに対し、鳴海はその場で断りの返事を送った。  今から一ノ宮と会う予定だった。  前に利用した喫茶店で話をするつもりが、数分前、臨時休業の張り紙が出ていたのでファミレスで待っていると、彼から連絡が来たばかりであった。 (碧君に悪いことしたかな)  罪悪感に駆られたものの、一ノ宮を待たせるわけにもいかず、鳴海は最寄りのファミレスへ早足で向かった。 「鳴海君、どうもこんにちは」  奥行きのある店内にはポツポツと客がいた。背筋をすっと伸ばして着席する一ノ宮は、大衆的な空間では浮き立つ容姿端麗ぶりで、フロアを見渡す前に容易に見つかった。 「店主の親戚にご不幸があったようで、明日も休みだそうです」  窓際のボックス席。セルフサービスになっている、氷水の入ったグラスがすでに準備された向かい側に鳴海は腰を下ろす。一ノ宮の手元にも、飲みかけのグラスが置かれていた。 「僕もチラッとだけど、張り紙を見ました。先生とここに来るのは初めてですよね。父とはよく来るんですが」  水を口にせず、メニューを開いた鳴海に一ノ宮は浅く相槌を打った。 「凛聖での体育祭や文化祭はどうでしたか?」  隔月に会う程度の一ノ宮と話を交わす。鳴海が抹茶のアイスクリームを食べ終わる頃には、日は傾いて、下げられたブラインドの隙間からは西日が零れていた。 「教室の飾りつけが上手だって言われたんです。確か小四の頃、学校で七夕飾りをつくったときも同じようなことを言われて、懐かしくなりました」  一部の同級生とは絶対的な距離がある一方で、ベータや、各クラスにほんの数人しかいないオメガとは雑談をするようになった。  彼等は、驕慢なアルファに教室で目の敵にされても怯まなかった鳴海にそこはかとない憧憬の念を寄せ、件の噂が流れた際には真偽を問うのを遠慮し、陰ながら心配していたクラスメートであった。  テスト範囲の確認だとか、文房具の貸し借りだとか、彼等との何気ない遣り取りは無機質だった鳴海の休み時間をほろ甘く彩った。 (凛聖に進んでよかった)  苦しいこともあった。朝が来るのが怖い日もあった。  でも、あの学園で彼に出会って、かけがえのない感情を取り戻した……。 「また綺麗になりましたね」  鳴海はにこやかに微笑む一ノ宮を繁々と見返した。 「やっぱり、鳴海君、恋をしているのでしょうか」  切れ長な目は大きく見張られた。どうしてそんな発想になったのか、恩師と慕う一ノ宮の思いも寄らない言動に思わず呆れ返った。  そして、心臓の裏側でしぶとく息をしている舜への未練に思考回路を搦め捕られた。  中庭で待ち焦がれ、学び舎で彼の姿を探しては徒労に終わる。ふとした拍子に心を囚われてきた日々が頭の中に流れ込んできて、胸が軋んだ。 (諦めなきゃいけないのに)  鳴海の頬を涙が伝う。拭っても、拭っても、頬は濡れた。 (舜のことが好きだ、まだ、ずっと)

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