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鳴海は俯いた。
タオルハンカチを顔に押し当て、突然の涙に困惑しているだろう一ノ宮に「すみません、先生」と、声を振り絞った。
小刻みに肩を震わせ、感情の決壊に耐えている教え子に、一ノ宮は独り言のように呟いた。
「可哀想に」
(……先生の前で何をやってるんだ、俺は)
深呼吸して、ぐっと唇を噛み締め、鳴海は顔を上げる。すぐに一ノ宮と目を合わせるのは気恥ずかしくて、一先ず、グラスの水を飲もうとした。
「鳴海君」
いつになく鋭かった呼びかけ。
鳴海の体は勝手に一時停止に陥り、手にしたグラスも空中で静止した。
「お水、温くなっているでしょう。替えてきます」
「え……いえ、そんな」
「私もおかわりするので、ついで、ですよ」
一ノ宮は席を立った。二つのグラスを持ってドリンクバーへ向かった、ほんの一分足らず、残された鳴海は肩で息をつく。
(もうずっと話していない)
舜はウテルスである自分を拒絶した。怖くて声をかけられずにいるが、もしも彼に話しかけて、真っ向から拒まれでもしたら……。
(そのときこそ、踏ん切りがつくのかもしれない)
「マンションまで送っていきましょうか?」
混み始めたファミレスを出たところで鳴海は立ち止まる。
一ノ宮の申し出を最初は断ろうとした。が、元担任の気遣いを無下にするのも悪い気がして、コクリと頭を下げた。
「お父さんに挨拶していきましょうか」
「父は出張でいないんです。明日の夜に帰ってきます」
「そうですか。相変わらず土日もお忙しいんですね」
夕暮れを迎えて外は肌寒い。街灯や車のライトで溢れ返るバス通り、鳴海は一ノ宮と並んで歩道を進む。
赤信号が点灯している横断歩道に差し掛かり、歩調を緩めたところで、後ろから声をかけられた。
「鳴海君!」
聞き覚えのある声にまさかと思い、振り返ればキャップを被った恭太郎が立っていて、鳴海は唖然とした。
「びっくりさせてごめん。碧ちゃんと一緒にブラブラしてたら、鳴海君を見つけたんだ」
「……碧君? どうかしたの?」
碧は珍しく強張った面持ちで、恭太郎の片腕にひしとしがみついていた。
「ちょっと具合悪いみたいでさ、突然で悪いんだけど、鳴海君のお家で休ませてもらえないかな?」
二人との鉢合わせに面食らっていた鳴海の頭を、一つの予感が過ぎる。ひょっとしてヒートの兆しなのでは。街中で発情期に突入させるわけにはいかなかった。
「先生、すみません。二人とも友達で、ちょっと急ぐので、これで失礼します」
付き添っていた一ノ宮に慌てて向き直る。彼は嫌な顔一つせずに頷いた。
「わかりました。また近い内に会いましょう」
歩行者信号が青に変わる。鳴海は二人を連れて横断歩道を渡り、一ノ宮は来た道を戻る。そこで次の再会を約束した教え子と元担任は別れるはずだった。
「え……――」
鳴海は横断歩道を渡らなかった。
降って湧いたように現れた彼が一ノ宮の腕を掴むのを呆然と見つめていた。
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