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「鳴海君」  長い間沈黙していた一ノ宮が漸く口を開いた。  舜の陰に仕舞われている鳴海は、元担任の方へ怖々と目線を移動させる。 (普通に考えてありえない。でも……)  単なる見間違いで、身内に盲目的な兄が弟の報告を鵜呑みにしていると言いきってしまえば、それでおしまいだった。だが、鳴海はそうはしなかった。碧を信じる舜の判断を信用した。  当然、恩師を信じたい気持ちもあったが、本当に見間違いならば最初に否定するだろう。それなのに、眉一つ動かさず黙秘した一ノ宮の冷静沈着さが、却って疑念に拍車をかける。  唐突に呼び止めて一杯目を一口も飲ませなかった。  公共の場で泣いてしまった直後では、注意力も散漫になってスルーしていたが、よくよく思い返してみれば突拍子もなくて不自然だ。 (一杯目は捨てられた、でも、元々は俺に飲ませるつもりで準備して……) 「君に打ち明けたいことが、いくつかあります」  一ノ宮は聖母さながらに粛々と微笑んだ。 「私は君を愛しています」  それは俄かには信じ難い告白だった。  一回り以上も年上の美しいアルファに想いを打ち明けられて、鳴海は青ざめる。 「先生には……パートナーがいましたよね、相手の人はオメガで、指輪だって……」  指摘された一ノ宮は、左の薬指を陣取る誓いに今頃気づいたような反応をして「つい習慣で」と肩を竦めてみせた。 「この指輪の相手とは先日に別れました」  一ノ宮は指輪をしたまま眼鏡をかけ直す。特に思い入れのなくなった、単なるアクセサリーとしてペアリングを扱う彼は、秘めてきた想いを打ち明ける割に、やはり恐ろしく冷静で落ち着き払っていた。 「君は特別なオメガでした。教室で不安そうにしている姿を一目見て、学力面だけではなく、精神面の支えがより必要だと感じました」  出会った頃は教師として健全な気持ちで接していた。目についた顕著な単独行動は、それが性に合っているのだろうと黙認した。協調性を押しつけず、父親とも定期的に連絡をとって潤滑な学校生活を送れるよう、サポートに取り組んだ。 「いつからか、君のそばにいると清澄な空気を感じるようになりました」  カップルのけたたましい笑い声が聞こえてくる。一切気にしない一ノ宮は、流暢に告白を続けた。 「これまでの世界が濁っていたのかと錯覚する程、それは澄み渡っていて無垢なる世界だった」 「一ノ宮先生……」 「卒業していく君と今後どうコンタクトをとろうか、頭を悩ませていたところへ、卒業後も気にかけてほしいとお父さんから頼まれて。その幸運を噛み締めたものです」  一ノ宮に愛おしげに見つめられ、恐怖が込み上げてくるのを鳴海は止められなかった。

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