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第5話

 そもそもレンゲ畑の中で大輪の百合が咲いたように、ぐぐーんと若草が存在感を増すに至ったきっかけは、ドライバー泣かせの出来事だ。やはりレジデンス・デイジーホールに、ただし若草宅とは別の部屋へ荷物を届け終えて配送車に戻ったところ、後輪がふたつともパンクしていた。  ──近隣の鼻つまみ者がボウガンの的にしたせいだ、と後日判明した(くだり)はまるっきり余談のため省略する。  折悪しく(みぞれ)がそぼ降り、夕闇が迫る。荷物を引き継いでくれる配送車の手配を、と営業所に要請したものの、積み替えが完了するまでの管理責任は世良が負う。  なのでピンチヒッターの同僚およびレッカー車が到着するまで、その場で待機せざるをえなくて。あたり一面、灰色に塗りつぶされて街灯がぽつりぽつりと(とも)り、体感温度はほぼ零下。 「うう、ぴちぴちボーイの身で凍え死ぬとか悲惨。マジに最悪、労災認定確実……」  霙は制服に触れる端から融けて、歯の根が合わないそこに、 「キクアナ運輸さんに告ぐ。駐車とは停車に(あら)ず、トラックを早急に移動すべし」  人影が近づいてきた。手厳しい言い方とは裏腹、傘の八割の面積が世良をカバーする形で紺色のそれを差しかけてくれた。  確か四〇六号室の住人だ。世良は記憶をたぐり、冷え切って強張った顔を精一杯ほころばせると、キャップのつばに指を添えて会釈した。 「迷惑かけて、すみません。ちょっとトラブルって足止め食らってて……」  カクカクシカジカと説明している途中で、若草はついとエントランスの奥に消えた。事情がわかったからだろうが、あっさり立ち去るとは、つれないったら。かじかんだ両手に息を吹きかけ、こすり合わせる。救援隊よ早く来い来い、と唱えながら仰のき、霙をぱくりとやった直後、 「抽斗(ひきだし)に入れっぱなしだった、もらい物があったのをたまたま思い出した。あげる、返却不要」  若草が再び歩み寄ってきて、粗品のタオルと使い捨てカイロをよこした。 「神だ、神が降臨した……」  世良は、思わず路上にひざまずいた。すらりとした姿が行き交う車のヘッドライトに照らし出されると、なおさら神々しい。いきおい敬虔な信者さながら伏し拝む真似をした。 「このご恩は一生忘れません。なんだったら下僕と呼んで、こき使ってください」 「下僕……ね。言質(げんち)を取った、いずれ何かの折に約束を果たしてもらうことにしようか」  底冷えがするから、という理由以上になぜだか寒気がした。微笑(わら)いかけられると、不安の芽みたいなものは消え去ったが。

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