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第40話
若草は眼鏡を押しあげた。そして暗紫色のクマが艶っぽい目許をこすって言葉を継ぐ。
「きみはインスピレーションを与えてくれる貴重な存在なんだ。ちょくちょく会いにきてくれないと才能が枯渇して、拙作でヌイてくださる読者諸兄の健康を損なうことになる」
「……責任をおっかぶせるみたいな言い方、ズルいっしょ」
その種類はさておいて特別な好意を持ってくれている、との錯覚に陥らせる甘い毒も同然だ。着せ替え人形の役だって、ホイホイ引き受けてしまいたくなる。
おいでおいでするのに釣られて四〇六号室の前に戻る。すかさず悪戯っぽい笑みをたたえた顔が至近距離に迫り、どきりとしたせつな若草曰く。
「ちょうちんブルマの足ぐりから指を忍び込ませて、あんなことや、こんなことをする。王道の場面に僕ならではのスパイスを利かせるためには、きみの協力が必要不可欠なんだ」
世良の心の中の天秤が右に左に傾く。さしずめハムレットの心境だ。穿くべきか穿かざるべきか。〝チンコでハンコ〟を成し遂げるためには多少の犠牲はやむをえない、と割り切って貸しを作っておくのはありなのだが。
「とりあえず中に入れちゃいますね」
改めて台車を押し進めるそばから、
「ごめん、ごめん、つい夢中になって。おわびを兼ねて手伝うよ」
若草は手ずから段ボール箱を持ちあげた。そこに神出鬼没の黒猫が忍び寄ってくると、足にじゃれついて行く手を遮る。よろけさせるのが目的のように。
「おっ、と、とととと」
「危ない……!」
世良は超人的な反射神経でもって、片腕で段ボール箱を、もう片方の手でしなやかな肢体を受け止めた。制服のポロシャツの、それのボタンと開襟シャツのボタンがこすれて音を立てた。
フラメンコの踊り手が、熱情が滾るに任せカスタネットをひと打ちしたさまを思わせて。
ところで、ふたりは身長がほぼほぼ同じだ。向かい合った状態で、同時に、なおかつ反対側に首を傾けると、きっちり角度を計ったかのごとく、ちょうどよい位置に唇がくる。
苦戦を強いられどおしの世良を、神さまが哀れと思し召したのだろうか。お膳立ては調えてやった、と激励を受けたに等しく、唇が触れ合わさるのは必至。
磁力が働いたように重なった折も折、ストッパーのかけ方が甘かったのか台車が動いた。膝かっくんを食らったふうに、今度は世良がつんのめった。
支えてあげる一方で支えてもらうと、自然と抱擁を交わす形になる。視線が絡むと、そうするのが当然といった雰囲気が醸し出されて再び唇をついばみ合う。
ふざけてチュッとするのと、本格的なキスとの境目はどこにあるのか。端的に言えば舌で睦むか否か、だ。
どちらの舌も行き惑い、境界線上で牽制し合っているさなか、焚きつけるように黒猫が鳴いた。
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