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第41話

 知らんぷりを決め込んで、試しにちょんちょんと舌で挨拶を交わす。すると仲間に入れろと言いたげに、ふたりの足の間を8の字を描きながら行きつ戻りつする。  スラロームの練習場に配置されたカラーコーンと思われているような図だ。苦笑が唇のあわいをたゆたう。若草が半歩、後ろにずれて眼鏡をひといじりした。 「110番して世良くんを窃盗罪の容疑で逮捕してもらわないと」 「何も盗んでません、おれは潔白です。道ばたで拾った五百円玉を交番に届けたことだってある正直者なんですってば!」  と、地団太を踏んだ拍子に黒猫の尻尾まで踏んづけた結果、どんな逆襲を食らったかは推して知るべし。  それはさておき、レンズの奥の双眸が小悪魔めいてきらめいた。 「働いたじゃないか、キス泥棒を」 「いっ、今のは単なる事故、純粋な事故、不可抗力の事故と言ったら事故なんです!」 「パニクる世良くんは可愛いね」  心の声がぽろりとこぼれた。そんなニュアンスの独り言を若草は咳払いでごまかした。  エレベータの駆動音が時間切れを告げた。世良は縞模様に鮮血がにじむ頬を引きしめると、今度こそ四〇六号室に段ボール箱を運び入れた。  それから今日のところは受領証に普通のハンコを押してもらおうとするのを裏切り、右の手指は独立した意思を持ったようにスラックスのベルトへと伸びて、バックルをゆるめにかかる。しかも、 「ちょっ、ちょっとタイムです!」  ネジを巻かれたようにチンコケースがはしゃぎだすありさま。というのも、ささめく声が耳の奥でリフレインして男心を惑わすのだ。  可愛い、可愛いだって? 幻聴じゃない、確かにその四文字が朱唇から発せられた。可愛いの破壊力は対空ミサイルのそれに匹敵して、ときめき度は計測器を木っ端微塵にするほどの数値を叩き出す。反芻するたびふにゃふにゃと笑み崩れていき、しまいには目も鼻も口も蕩けきってスライムのいっちょあがりといくようだ。 「おーい、寝落ちしていないかい?」  催眠術の被験者に覚醒を促す要領で、パンと両手が叩かれた。世良は天高く舞いあがっていくのをつなぎ止められたように感じて、台車を引き寄せた。 「じゃあ、毎度でした」 「仕事が終わったら、またおいでね」  断るという選択肢がないのが悲しいやら、うれしいやら。退社し次第、自転車を爆漕ぎして来てしまいますともさ。鼻歌交じりに穿いちゃいますともさ、ちょうちんブルマを。  世良は洗面所の鏡とにらめっこした。ふわふわ癖っ毛の金髪は、タンポポの綿毛の手ざわり。愛嬌がある、と評される垂れ目は人なつっこい印象を強めるぶん悪くないパーツだ、と自分でも思う。要するに見慣れた顔だ。  なのに衣装が影響をおよぼすとみえて表情がふだんと微妙に違う。か弱い乙女テイストとでも言おうか、 「免疫ができるって(こえ)ぇー……怖いわ」  裏声で独りごち、瞳をうるうるさせてみた。

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