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第49話

 目下、世良の心の中はさしずめ鬱蒼とした森だ。ぐるぐる悶々とさまよい歩きながら目印に樹の幹に刻んだ〝若草さんなんかベーッ、だ〟が、また同じ場所に出たときには〝若草さん好き〟へと変じるふうだった。 おれは恋わずらいとは無縁、と千回も万回も唱えるほど虚しさがつのる。自覚があった。ジレンマに陥るのは、やせ我慢を張っているせいだ──と。 「いま届けてくれた、これは限定出荷のクラフトビールなんだ。仕事帰りに寄ってくれるね、冷やしておくから一緒に飲もう」 「残念ながら禁酒中なんです」  そう、一も二もなく飛びつきたい誘いを断ることを、やせ我慢と言わずしてなんと言う。  さて陽炎が燃える、ある午後。世良は今日も今日とて段ボール箱を抱え、チンコケースをしっかり装着して、レジデンス・デイジーホールのエントランスをくぐった。  ただし今回のお届け先は四〇五号室だ。四階に停止中のエレベータを呼んだ、若草がちょうどそれに乗ってきて鉢合わせる、という可能性を考えると肋骨をへし折って飛び出してきそうなくらい心臓が跳ねる。  西の空がどす黒い雲に覆われているのも不吉な前兆に思えて、階段を使うというヘタレぶり。さっさとをすませて引きあげるのが賢明だ。  とはいえ、やましいところがあるせいだ。四〇五号室の扉に向かって、 「こんにちは、キクアナ運輸です」  名乗るさいには自然と声をひそめていた。すかさず三和土(たたき)に引きずり込まれ、中村という住人男性が血走った目で全身を()め回してくる。ハーフパンツの中心がありえない角度でテントを張っていて、正直な話、ぞっとしちゃう。  それでも営業スマイルにひとつはいらなかったのは、持ち前の愛想のよさの勝利と言える。 「か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・りの例のやつの、今日のラッキーボーイは俺? 俺? 俺?」 「はい、うはうはですよお。では早速、失礼して……」  業務の一環。世良は、がっつきぶりをキモいと思う自分にそう言い聞かせながら制服のスラックスをくつろげた。Tバックの紐状の部分をずらし、尻たぶを割り広げてしまえば、あとはルーティーンに従ってことイチモツを迎え撃つのみ。  中村に背を向けて壁に手を突いた。ぐぬぬ! と押し入ってくる瞬間に備えてチンコケースの(なか)が伸び縮みしはじめる感触が伝わってくれば、よし、いける。  遠雷が、生唾を呑み込む音をかき消した。にわかに風が強まり、外装工事中のビルを覆うシートがはためく。ポイ捨てされたレジ袋が新種の生き物のように街路樹にじゃれつく。

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