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第7話

 急に足が地面から離れて、九曜は動揺した。  九曜を抱き締めた翼弦は、九曜の動揺など意に介さず、翼をはためかせて空高く上昇していく。 「翼弦様、お戯れはおやめくださいっ」  仙洞から遠ざかり始めて、九曜はついに声を荒げて翼弦に訴えた。  遥かな行く手を眺めていた翼弦は、口元に不敵な笑みをたたえて、九曜を見下ろした。  月の光に照らされた翼弦の顔は、いつもの男気あふれる陽気な顔ではなく、妖しく超然としていた。  九曜はこの時始めて翼弦を人間を超越した存在なのだと再認識した。 「なにをお考えなのですか? どうか、お放しください」 「お主がそこまで望むのなら、放してやろう」  なに気なく言ってから、翼弦は九曜を手放した。  上空で翼弦から手を離された九曜は、頭から真っ逆さまに地面へ向けて落ちていった。  仙人は神に等しい存在だ。人間の命など、どうということはない。  九曜は諦めて目を閉じた。 (幻以……!)  九曜は愛する男の顔を心の中に思い浮かべた。  地面に近づくにつれ、九曜の意識は遠くなった。九曜が完全に気を失う寸前、翼弦が九曜の体を救い上げた。  九曜を抱いた翼弦は、自身の翼で上昇しつつ、九曜の顔をのぞき込む。 「怖ろしかったか?」 「……」  九曜は無言だった。青ざめた顔でうつむいた。一命を取り留めたとことによりる安堵よりも、翼弦の持つ残酷性に対する恐怖の方が勝った。 「てっきり怖ろしくて私にすがりつくかと思うたが、お主は気丈だな」 「翼弦様は私がすがりつく相手ではございません」  翼弦が笑い声を響かせる中で、九曜は死を覚悟した、静かな声で言った。  笑うのをやめた翼弦の目が、闇夜の中で月光を反射して微かに光る。 「ならば、もう一度落としてやろうか?」  耳元で翼弦から恫喝され、九曜は身をすくませて目を閉じ、唇を噛み締め、再び訪れる災厄に身構えた。  たとえ殺すと脅されても、九曜の心には譲れないもがすでにあるからだ。 (幻以への想いは……なにがあっても……変わらない……)   「九曜よ、ますます気に入ったぞ。幻以なぞにくれてやるのではなかった」  翼弦の声には諦める気配など皆無だった。  九曜を抱いてさらなる空の高みへ上昇した翼弦は、自身の居城へ向けて突き進んだ。 「翼弦様、お願いです、私をお戻しください!」  九曜の必死の哀願にも関わらず、翼弦は耳を貸さなかった。  雲が目下に流れる天空の、巨大な白い月の下で、九曜はなおも叫び続ける。 「幻以、幻以──!」  九曜は遠ざかっていく吉祥山の山影を、悲壮な顔で見つめた。  

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