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第31話

 翌日の昼下がり、九曜は翼弦から書斎に呼ばれた。  九曜が書斎に訪れると、翼弦は書類が山積みになった机に向かい、書面をしたためていた。  いつもは呑気に碁盤と向かい合っている翼弦とは違う彼を見た九曜は少々面食らった。  翼弦は仙人でありながら、一族の宗主しての家業もこなさなければならない多忙な身の上なのだ。  九曜が来るなり、翼弦は顔を上げた。 「来たか、墨を擦れ」  九曜は机の上にあった硯に水を注いで墨を擦り始めた。  吉祥山に住む仙人の孔雀の高弟として長く仕えていた九曜には、慣れた仕事だ。  極上の墨の香りが鼻腔をくすぐり、九曜は思わず酔い痴れた。  その時、翼弦の口角が僅かに上がり、九曜は訝しんで手を止めた。 「いかがされましたか?」 「墨の香りに酔い痴れたのか? 昨日はお主からも良い香りが漂っていたように思ってな」  意味深な台詞に、九曜は硯を取り落としそうになった。  昨日、体調不良で倒れてしまった九曜は、寝床で翼弦から手厚く介抱された。彼との距離は非常に近く、肌が触れ合うほどだった。  九曜は一昨日、深夜の木龍との逢瀬を思い出した。 (自分の身体から漂う香りがあったとすれば、あれしかない。湯浴みをして汗を流したはずだが、残り香に気付かれたということか)  翼弦の温泉地の行幸に同行した土産だと言って木龍から九曜が身体に塗り込まれた香油。温泉地は香料の産地でもあった。  翼弦は続ける。 「実に妙だ。お主から先日赴いた温泉地でしか堪能できぬ香りがした」 「同行した女官が衣類に付けた香りでございましょう」  九曜は努めて平静を装って答えたが、翼弦の目は鋭さを増しただけだった。 「衣類に焚き染めたものではなく、お主の肌に深く染み込んだものだ。お主に触れた者がいるという証ではないのか?」 「何を言われるのですか。私を閉じ込めて誰も彼も遠ざけているではありませんか」 「まだしらを切るか。お主は面の皮の厚い男のようだな」  翼弦はひとしきり笑って廊下に向けて手を上げて合図を送った。  九曜が廊下の方を振り向くと、そこには縄で縛られて俯いた六花が衛兵に引き立てられていた。  六花を連れた衛兵は部屋に入るなり、六花を投げるようにして放り出した。 「六花!」  極彩色の絨毯の上に投げ出された六花の衣服の背には血が滲んでいた。鞭で打たれて幾条もの生々しい傷跡ができているのが服の上からもわかる。 「忠義心の厚い女子と思うたが、失望したぞ、六花」  翼弦は柔らかな口調だが、氷の刃のような口調で言うなり、溜息を吐いた。  硯を床に放り出した九曜は、六花のもとに駆け寄って抱き上げた。  抱き起された六花の顔は殴られて腫れ上がり、意識は朦朧としていてむくんだ瞼の中で視線をさまよわせていた。  まさか、こんな凄惨な事態が引き起こされるとは。 「六花、しっかりしろ!」 「九曜様……」 「すまない、お前が折檻されたのは私のせいだ」 「いいえ、木龍さんに便宜を図ったのは、私の心の弱さです。責は私にあります……」 「六花は散歩の折りにお主に木龍との逢瀬の機会を作ったそうだな。私のあずかり知らぬところで接触があったのだな」   机の上で手を組み、翼弦は滔々と話し出した。 「六花よ、私はお前の郷里に加護を与えた。死ぬべきさだめの者たちを生かした。その恩義を忘れて義務を怠り、背信の罪を犯した」  翼弦の暗い声に反応するかのように、六花は九曜の腕から飛び出して縛られたまま床に平伏した。 「お許しください! 洞主様、どうか! これからは決して洞主様のご命令に背いたりしません。一生懸命にお仕えします、ですから、私の村をお見捨てにならないでください!」 「私はそれほど寛容ではない。機嫌が直るのかは私にもわからぬ」 「どうか、どうか! お許しください! 私の村をお助けください! お慈悲を!」  床に額を叩き付ける六花の額には血が滲みだした。  対する翼弦は六花を見下ろして眉を僅かに顰めただけだった。 「床が汚れる。下がらせよ」  翼弦が命じると、衛兵が顔面を血塗れにして泣き叫ぶ六花を引き立てて部屋を後にした。 「九曜よ、言い逃れはできぬぞ。これでお主の身体から漂う香りの秘密も解き明かせるというものだ」   「翼弦様、全て私のせいです。誰の罪でもありません!」  木龍に災禍が及ぶのを怖れて、九曜は声を張り上げた。  しかし翼弦の顔はにべもない。  「私は凌雲山の法であり、一族の者を統べる王だ。その私の妃にしようという者に近付くのは、死に値する罪だ」 「木龍をどうされました? 翼弦様!」  翼弦が言い終わる前に、九曜は金切声で叫んでいた。   

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