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第33話
翼弦の書斎の長椅子で眠っていた九曜が目覚めると、すでに陽が暮れていた。他に人はいない。
ふいに極上の香の香りが九曜の鼻を掠めた。見ると、翼弦の上着が布団の代わりに掛けられていた。
数刻前の出来事を思い出しながら九曜は起き上がった。
今の状況を説明してくれる者の代わりに彼は辺りを見回す。すると机の上に鮮やかな墨で書かれた置手紙が目に入った。
翼弦はやはり傷が癒えていない身で修法を行ったせいか身体にダメージを負ったらしい。
霊石で清められた部屋で数日間、休息を取るとのことだった。木龍の件については許すとある。
九曜は長椅子からよろよろと立ち上がった。
(ひとまず、身を清めたい)
身体を擦りつつ、九曜は書斎を抜け出て廊下を歩く侍女に尋ねてすぐそこにある簡易的な風呂場へ向かった。
脱衣所で服を脱ぐと、禁欲の札は完全に破れて剥がれ落ちていた。
壁から水が流れ出ていて清めるものと、檜でできた大きな桶風呂がある。
九曜は風呂場に入ると流水で身体を清めた。
水の冷たさが今の彼には心地よかった。
彼の涙が流水に紛れて勢いよく流れ落ちていく。
(幻以……!)
翼弦に触れられた。翼弦の気が身体中に流れた。身体を繋げたわけではないのだが、言いようのない罪悪感が九曜の心を苛む。
先刻のそれは、まるで道侶がするような行いだった。
完全に誤算だった。翼弦という男を甘く見ていた。
幻以を救うつもりで翼弦を気があるようなそぶりを見せた。
どんなに誘っても、今の状態の翼弦は自分と繋がることなどできないと高をくくっていた。
翼弦ほどの神仙ともなると、たとえ深手を負った身であっても道侶の修法を行えるのだ。
意識を手放す寸前、翼弦の胸の中に落ちていく自分を認めた。
翼弦は思ったよりも手強い。彼の手から逃げ出す手立てが今のところ、ない。
夫と同じ場所にいながら。それが九曜には何より怖ろしかった。
(この身は、汚れてしまったのと同じだ)
できることなら、幻以に清めてほしい。
九曜は風呂場を出て着替えを用意していた侍女に木龍の居所を尋ねた。
木龍は今も地下牢にいるという。
翼弦から幻以の件について問い詰められて鞭打たれ、負傷した六花のことも心配だが、怪我の程度がわからない木龍のことが先だ。
木龍の罪は翼弦から許されているのでその旨を伝えれば彼は解放されるはずだ。
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