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第45話
九曜はもくもくと彼の付き人の役割を果たしていた。
泡沫洞の洞主の孔雀から、幻以は治癒能力がある霊石があるこの仙洞に滞在を勧められた。
幻以の記憶喪失はおそらく一過性のもので、養生が必要とのことだ。
朝、洗濯物を干し終えた九曜は、暇を得て蔵書室を訪れた。
九曜は今、泡沫洞の弟子達と同じ、生成りの作務衣を着ている。九曜にとっては昔懐かしい服で、昔に戻ったような気分になっていた。
道が幾重にも別れた洞窟の内部を利用した蔵書室は灯明があるが、薄暗く、狭い。書架には古ぼけた書物がずらりと並んでいる。
九曜が何となく一冊を手に取って立ち読みしていると、昨日のエピソードが脳裏をよぎるのと同時に外の廊下から迫って来る圧を感じた。
彼の気配は昔からすぐにわかる。
静謐でありながら王者の気を纏う洞主の孔雀ものとは違う、傍若無人な気配。
「こっちにいると聞いてな」
幻以は蔵書室にもう誰がいるのか知っていて、語りかけながら入って来た。彼もまた、生成りの作務衣を着ている。彼が泡沫洞の歴史上、一番大きな弟子だったので、おそらく彼が着ていたのものだろう。
九曜は本を閉じて入口の方を見た。九曜には彼が巨躯でわざと出口を塞いでいるように見えた。
「昨日は済まなかったな」
そういう幻以は本当に済まなそうな顔をしていた。
「別に……」
目を逸らして本を置いた九曜は幻以の脇から蔵書室を出ようとしたが、案の定、幻以は腕を伸ばして九曜の退路を塞いだ。
「何か買ってやろうか?」
「結構です。私は他の用事がありますので……」
九曜は腕の下をくぐろうとしたが、すぐさま幻以から押し戻された。
「もう少し俺達のことを聞きたい」
「俺達のこと?」
「俺がどういった経緯でここに滞在しているのか、ここの弟子にかいつまんで話してもらったんだが、俺はもともとここの弟子で、修行の成果が出て仙になったらしいな」
「ええ、おっしゃる通りですよ。私もかつて、ここの弟子でした。もう出奔して別の拠点がありますけど、わけあってこちらに身を置かせていただいています」
「そうらしいな。じゃあ、お前さんが以前、ここの洞主から可愛がられていたというのは本当か?」
幻以は詰るような口調で言い放つ。
雑事をしている間、幻以は九曜のことで聞き込みをしていたのだ。
一体誰が話したのかと、九曜は眉間に皺を寄せる。
「ええ……本当です」
それは仙洞内で周知の事実なので、九曜は否定しなかった。記憶を失う前の幻以も勿論知っている。
九曜は洞主の孔雀の稚児だった。
年齢を理由に孔雀から任を解かれたのだが、実はそこには彼の深謀遠慮があったようだ。
彼は長年仕えてきた弟子の九曜に、自分の幸せを見つけるように仕向けたのだ。
紆余曲折を経て、九曜は幻以と結ばれた。
翼弦はその為の大がかりな茶番に一役買わされたわけなのだが、旧友のたっての願いとはいえ、気持ちがこじれてしまった。
翼弦が九曜を攫ったのは旧友の孔雀に対する応酬ともいえる。
ひと波乱あって、翼弦の手から逃れ、夫の腕に戻って来た九曜なのだが、戻ったら戻ったで夫の記憶が白紙になってしまっているのだ、九曜の頭痛の種は尽きない。
「つまり、あの男から触れられたのか?」
幻以は九曜を壁に追い詰める。
何を今さら、と言いたくなるが、九曜は出かかった言葉をぐっとこらえて頷いた。
「何をされたのか言え」
「言ってどうするおつもりですか?」
「それ以上にお前さんに触れる。それで、お前さんは今は俺の『専属』なんだよな?」
「専属……」
幻以の腕の中で、九曜は呟く。
(それにしても、品のない言い方だ……)
「そうだよな?」
「……」
返事を待つ幻以を可愛いと思いながらも、その下品な言い方はどうにかならないものかと九曜は頭を悩ませる。
「専属の……伽をする者だと言っているのですか?」
「金ならやるから、他の奴から言い寄られても断れ」
「要りませんよ、そんなもの!」
不愉快になった九曜は幻以を突き飛ばそうとしたが、力では到底かなわず、瞬く間に腕を壁に押さえ付けられた。
(夫婦だって、わからないのか?)
九曜が哀しい気持ちになった途端、口付けが襲って来て、全身が壁に押し付けられた。
幻以のそれはまるで、思いの丈を思い知らせるような口付けだった。
「お前さんをどうしても独り占めしたい。他の奴ともあんな……絶対に嫌だ。俺だけのものだ」
唇が離れると、九曜を抱き締めた幻以は絞り出すような声で言った。
作務衣の合わせの間から滑り込んで来た手から肌をまさぐられながらも、九曜はようやく落ち着きを取り戻した。そうだった。彼は昔から不器用な男だった。
愛情表現が無礼で無作法なのは、よく知っているはずなのに。
それに、欲しいものがないわけではない。
幻以が六花に贈った蚩尤紋の玉佩のことを九曜は思い出した。
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