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【二】焼きつく②
一人、研究室で、鳴神はプラスティックのカップを傾けていた。
「……ああ、もう」
脳裏を過ぎるのは、先程の花瑛の姿である。落ち着こうと先程から珈琲を飲んでいるのだが、味が分からない。そのくらい、鳴神は動揺していた。花瑛がセクサロイドだった事にも驚いていないわけではなかったが、一番胸騒ぎがする理由はそちらではない。
目に、花瑛の痴態が焼ついてしまっているからだ。白い肌、華奢な体、触れた鎖骨、淡い色彩だった乳頭……何より、扇情的だった声、息遣い。乱れた黒髪が、汗で肌に張り付いていた事も、花瑛の瞳が潤んでいた事も、いずれも思い出すと――ゾクリとさせられる。
鳴神の中で、セクサロイドはあくまでも、機械の一種のはずだった。だが、花瑛はとても機械には思えない。出会いが軍人と研究者という立場だったからなのかもしれないが。
あの時、仮に抱いていても、誰も鳴神を咎めなかっただろうという事も分かっていたが、ギリギリの所で彼は自制した。元々の行為のきっかけが、己の過失だからだ。
「ダメだ、仕事にならない」
珈琲を飲み干し、ダストボックスに向かってカップを、鳴神は放り投げた。眼鏡型の装置を外して、仕事机の上に置く。そうしておけば、本当にただの眼鏡にしか見えない。指先でこめかみをほぐしながら、深々と鳴神は吐息した。
「……今日は帰ろう」
呟いてから、鳴神は立ち上がった。研究所に所属する研究職の人間は、裁量制なので自由に勤務時間を変更可能だ。そこは軍人とは異なる。そのまま白衣姿で、眼鏡型装置を身につけてから、鳴神は鞄を片手に、職場を後にした。
モノレールの駅へと向かい、ぼんやりとしながら鳴神は車両に乗り込む。
――綺麗だった。
「ああ、もう、ダメだ」
気を抜くと花瑛の事ばかり考えてしまう。その後ふた駅を移動する間も、脳裏から花瑛の事が消えなかった。こんな経験は、あまりした事が無い。モノレールから降りてマンションへと向かいながら、鳴神は煩悩が悲しくなった。
エレベーターホールを抜けて、自分の家がある七階へと到着した時、鳴神は白衣のポケットに片手を突っ込んだ。それから――自分の家でない側の扉へ続く通路をチラリと見る。左に進むと鳴神の家があり、右側に進むと『隣人』の家がある。
鳴神は、隣人の名前を知っていた。花瑛である。神経質な鳴神は、ある日隣人の事が気になり、表札を見に行き、珍しい苗字だった為に記憶した。その後職場に花瑛が顔を出すようになった後、研究所にデータが送信されてきていた花瑛のプロフィールを見て、住所を確認した次第である。研究者の権限で閲覧可能だった。
――きちんと花瑛大尉は、早退したのか?
通路を眺めながら、漠然と鳴神は考えた。それからレトロな腕時計を見る。既に、先程の出来事からは、四時間が経過していて、時刻は午後の二時半を過ぎた所だった。
「……いきなり押しかけたら、ストーカーみたいだよね……」
しかし、気になる。頭から花瑛の姿が離れない。
扉が開く音がしたのは、その時の事だった。鳴神が息を呑む。見ていると、通路へと出てきたのは、私服姿の花瑛だった。エレベーターの前で、鳴神は硬直する。視線を落としたままで、気づいた様子も無く、花瑛が歩いてくる。鳴神は動けなかった。
「……――っ」
エレベーターの操作をしようと、顔を上げて、花瑛もまた硬直した。目を見開く。
「違うから。俺は、単純にこの階に住んでいるだけだから」
視線がかち合った時、咄嗟に鳴神は述べた。ポケットから慌てて取り出した手で、通路の左側を示す。それを聞いた花瑛は、動揺するあまりただギクシャクと頷くだけだった。何が違うのか、だとか、普段であれば疑問に思ったかもしれないが、ただ頭が真っ白になっていた。
「え、ええと……どこに行くの?」
「……食事に……」
「あ、そう……」
視線が離せないままで、二人は短くやりとりをする。
「……生体人型ロボット用のゼリー飲料が俺の家にあるけど、その……」
「……?」
「俺には不要だから……良かったら、持っていく?」
鳴神は、己が何を口走っているのか、いまいち理解していなかった。
「……有難うございます」
こちらも頭が真っ白の花瑛は、常時であれば断ったのだろうが、気が付けば頷いていた。
こうして二人は、鳴神の家を目指して歩き始めた。会話は無い。長い通路を、無言で歩く。長身の鳴神は気づけばゆっくりと歩いていた。花瑛は俯いた状態で足を動かしている。
暫し歩いて扉の前についてから、焦りつつ鳴神はカードキーを取り出した。
鳴神の家の中からは、空気清浄用のドローンが放つ良い香りが漂ってくる。清掃ロボットや調理用ドローン等が、いくつも稼働した状態で、鳴神達を出迎えた。
「珈琲を二つ」
「かしこまりました」
ドローンに命じた鳴神は、花瑛に振り返る。
「座って」
「お構いなく……」
ソファに花瑛が座った時、ドローンがその正面にカップを置いた。対面する席に座った鳴神の前にも、続いてカップが置かれる。
「……」
「……」
お互いに座ってから困惑した。ゼリー飲料を取りに行くのではなかったのかと、ほぼ同時に二人は考えていた。沈黙が横たわる。
「あの……さっきは……」
続いていた沈黙を先に破ったのは、鳴神だった。普段、鳴神は言い淀むような性格では無いが、無性に緊張していた。花瑛はといえば、『さっき』という言葉に、あからさまに仮眠室での出来事を思い出し、涙ぐみそうになっていた。
「――ええと。もう体は大丈夫?」
鳴神は冷静になろうと努め、改めて義務的に聞いた。その声は、普段と変わらなかったので、花瑛も少しだけ冷静さを取り戻した。
「はい。お手数をおかけしました」
実際には、まだ大丈夫であるとは言えない。精神面はともかく、肉体はすぐにでも熱を帯びそうだった。
「何処の施設で、メンテナンスをしてるの?」
「自宅に専用のAIがあります」
「なるほどね。ただ人の手が入っていないと、熱の解消は万全とは言えないと思うけど、その……」
言ってから鳴神は後悔した。セクサロイドだから人間の男根を挿入されなければならないだろうという話を振りそうになっていて、かつ、それをしないのならば玩具で処理しているのかと聞きかけてしまったからだ。慌ててカップを持ち、珈琲を一口飲んで沈黙を誤魔化す。
花瑛は、鳴神が言わんとした事を悟り、俯いて珈琲の水面を見る。
「ご心配には及びません」
「それは、その、特定の相手がいるという事で良いの?」
「いえ……慣れておりますので、抑制可能です」
「慣れて?」
「……」
「つまり解消はしていないという意味か? 熱に耐えてるって事?」
「はい……」
ポツリと答えた花瑛を見て、鳴神は嘆息した。カップを置き、腕を組む。
「それじゃあ、だいぶ辛いんじゃないの?」
「……」
事実辛いため、花瑛は否定できなかった。どこか悔しそうでもあり、苦しそうでもある花瑛の表情を見てから、鳴神はゆっくりと瞬きをする。
「無理がたたれば、身体機能にも異常が出るはずだ」
「……」
「適切に性衝動を解放するべきだと思うけどね。分かってるんじゃないの?」
「……私がセクサロイドだと露見する危険性があります。それを避けたくて」
「なるほど。俺にはもう露見しているわけだし――……手伝おうか?」
「え?」
鳴神の提案に、驚いたように花瑛が顔を上げた。鳴神は気恥ずかしくなって目を閉じる。自分が何を言っているのか一瞬戸惑った。しかし、人間も無論性欲はあるわけであり、だからこそセクサロイドは生み出されたのだし……正直、鳴神は手伝うなど口実で、現在花瑛を抱きたいと思っていた。こんな衝動は久しぶりである。そしてガラでもなく緊張して上手く誘えていない現在、はっきりいって思春期時代の自分を思い出していた。
「それは……その……」
一方の花瑛は、ドクンと心臓が一際強く脈打った為、困っていた。正直、それは魅力的な誘いだった。鳴神には既に露見している。なのだから――本当に誰にも口外されないのであれば……と、どうしても考えてしまう。快楽に弱い体は、甘い誘いの声にすら反応しそうになるのだ。それを精神面のAIで抑えてはいるが、元々のプログラムは変わらない。
「……」
「……」
花瑛が真っ赤になっている。チラリとそれを見て、鳴神は唾液を嚥下した。
「本当に誰にも言わないで下さいますか?」
「うん。勿論。約束するよ」
平静を装い、鳴神が頷くと、少し思案するように瞳を揺らしてから、ごく小さく花瑛が頷いた。こうして、二人は寝室へと移動する事になった。ゼリーの事など双方すっかり忘れている。
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