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第5話 勝っても悶々〈side大城〉
高野に連れてこられたのは、都会の喧騒から離れた場所にある、こじんまりした店構えの小さな料理屋だった。
看板もなく、一見なんの店かわかららなかったけれど、和服に身を包んだ美人女将に案内された細い廊下の先には、広々とした庭園が見渡せる畳敷の個室があった。
個室といっても、よくある居酒屋の個室の十倍はあろうかという広さだ。暮れなずむ空の色と、綺麗に整えられた庭の風景はまるで絵画のように美しく、俺はしばし呆気に取られてしまった。
「ああ、気にせんといてください。ここはうちで持ちますよって」
「えっ!? い、いや、さすがにそれは」
「まぁまぁ、無理をいうてきてもろたんです。さ、どうぞ」
「失礼します……」
どこをどう見回しても、二十代の男が三人でくるような店ではない。……が、こんなことで怯む姿を篠崎に見せたくはない。俺だって、接待ではたまにこういう店を使うことくらいある。
——篠崎、場の空気に飲まれてなきゃいいけど……。
と思いながらふと隣を見てみると、篠崎はさほど緊張した様子もなく、すまし顔で庭を眺めている。意外と肝が座ってるんだな……と感心していると、和服姿の仲居がきびきびと料理を出し始めたので、俺と高野は当たり障りのない世間話をしながら盃を交わし、驚くほどに旨い懐石料理に舌鼓を打った。
接待スキルを適度に使いながら、その後もごく当たり前のように仕事の話を交わすうち、ビールで始まった宴席もいつしか日本酒になってゆく。さりげなく出てくる日本酒がびっくりするほどに美味かったので、日本酒好きらしい高野と思いがけず会話が弾んでしまった。
澄んだ清水のように舌触りがよく、鼻から抜けてゆく米麹の香りはどこかフルーティで飲みやすい。……そう、飲みやすいからこそ、日本酒を飲み慣れていなければ飲み過ぎてしまうであろう代物だ。
「大城さんて、見た目によらず気さくで話しやすいてよう言われません?」
「ええ、まぁ。割とよく言われますかね」
「タッパあるし僕のことめっちゃ睨むしでうわ怖〜て思ってましたけど、めっちゃええ人やん。なあ? 真くん?」
「ん、んん……」
これまでは、適度に相槌をうちつつ、当たり障りなく仕事の話に加わっていた篠崎だが、そういえばこの数分妙に静かだと思っていた。……だがふと見てみると、篠崎は片肘をついて額を押さえ、日本酒の入った小さなグラスをつまむように揺らしながら、苦しげな唸り声をあげている。
「し、篠崎? どうした? 気持ち悪い?」
「……ちがいます……由一郎が目の前にいて気分悪いから……ついたくさんのみすぎたっていうか……場の空気を壊さないためにも……お酒飲んで頑張って耐えてたっていうか……」
「ん、ん? な、なんだって?」
「あははは、ひどい言われようや」
身体をゆらゆら揺らしながら、呂律の回らない調子で、篠崎がぶつぶつ呟いている。俺は慌てて篠崎の手からグラスを取り、「すみません、水持ってきてもらってくれます?」と高野に頼んだ。
高野はケラケラ笑いながら席を立ち、「ついでにトイレいってきますわ〜」と部屋を出ていった。篠崎を座椅子の背もたれにもたれかかるように促しつつも、俺はさっき篠崎が口にした『由一郎』呼びが気になって気になって、仕方がなかった。
「……なぁ、篠崎」
「はい……?」
「あの人、大学の先輩っていってたけど、本当にそれだけなのか?」
「へ? ん~……同じ大学の先輩じゃなくて、フットサルサークルの交流戦とかで、よく一緒にやらざるをえなくて……」
「そう、出身大学は違うのか」
「あったりまえですよ〜〜、英誠大学なんて行けるわけないじゃないですか! あの人は英誠大学出身のキザでイヤミなボンボンスーパーエリートですよ〜」
「ボンボン……」
ニコニコしながらとんでもないことを口にする篠崎に、俺の目は点になりかけた。俺の前では、気立ても愛想も行いもすべて良好な篠崎が、高野にはえらく辛辣だ。
だがその分、ふたりの間に俺の知らない深い縁のようなものが見て取れてしまい、妙な焦燥感に胸がひりつくようだった。
——さっきから考えないようにしてたけど……まさかふたりは付き合ってたとか? 何があったかわかんないけど、ひどい別れ方をして、篠崎はこんな態度になってるのか?
「真く〜〜ん、お水やでぇ〜〜」
「ハァ……うるさ。頭に響くんで黙っててもらえます?」
「あはははは、ひっどぉ〜〜」
とそこへ、白い頬をほんのり桃色に染めた高野が上機嫌に戻ってきたが、この温度差だ。俺はいよいよ焦れったくなってきた。
俺は高野から水を取り上げると、篠崎の肩にそっと手を回し、グラスを口元へ持っていった。くたっと脱力した篠崎の肩は細くて熱くて、少なからずドキドキしてしまったが、今はときめいている場合ではない。
「篠崎、まずは水飲め。大丈夫か?」
「ん……あぁ、大城さん……ありがとございます……」
「ほら、ゆっくりでいいから」
「ん……」
口元に差し出したグラスを掴もうとしたらしい。篠崎の手が、グラスを持つ俺の手に重なった。こんな状況とはいえ、いつも見ているだけで触れることのなかった手が俺に触れているという現実にキュンとして顔が緩みそうになったけれど、高野の手前、俺はポーカーフェイスを保った。
篠崎が酔い潰れる前にここを出たほうが良さそうだ。タクシーを呼んでもらおうかと考えていた矢先、少し前のめりになって水を飲んでいた篠崎が徐々に徐々に前屈みになり……そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。
「ああ……寝ちゃったか」
「ん、んん……」
「まぁ、寝かしといたらよろしいやん。それよりもう少し飲みません? 僕、ほんまは大城さんとふたりでゆっくり話したかってん」
向いで悠々と日本酒を舐めながら、高野は唇の片端を吊り上げて薄笑いを浮かべた。俺はひとつ息を吐き、スーツのジャケットを脱いで篠崎の背中にかけると、あぐらをかいて高野に向き直る。
「うちの篠崎にずいぶん嫌われてるみたいだけど、ふたりはどういう関係なんだ?」
グラスに残っていた日本酒をくいっと飲み干し、俺はまっすぐに高野を見据えてストレートに尋ねた。すると高野はすかさず、腕を伸ばして俺のグラスに日本酒を注ぎ入れる。溢れかけたそれを慌てて口で受けると、高野はこれまでより一段低い声でこう言った。
「うちの篠崎うちの篠崎って……大城さん、随分うちの真くんに目ぇかけてくれてはるみたいやなぁ」
「……はい? うちの?」
「真くんはそういうの疎いから気づいてへんかもしらんけど、はたから見たらバレバレやで」
「な、何がだよ」
「可愛いもんなぁ、真くん。気持ちはわかんで? 真面目で頑張り屋でまっすぐで、ええ子やもんなぁ」
「……それって」
切れ長の双眸が、まっすぐに俺を射抜いてくる。篠崎が起きていたときとはまるで異なる醒めた表情だ。
その挑戦的な目つきに、俺はすべてを察した。
この男、まだ篠崎に未練があるに違いない。どの程度の付き合いだったのかはわからないが、篠崎の酔い方を見ていれば、ふたりの終わり方が良好なものであったとは思えない。
——こいつ、篠崎にまたちょっかい出そうってんじゃないだろうな……。
俺は注がれた日本酒を一気に飲み干し、ぷは……と息を吐いた。胃の奥がカッと熱くなるけれど、酔える気はまったくしない。俺は、この狡猾そうな顔をした御曹司から篠崎を守らねばならない。
「自覚ないかもやから言うといてあげるわ」
「は? 何だよ」
「あんなぁ、自分、真くんを見る目ぇがもうスケベオヤジそのものやで? まさか手ェ出したりしてへんにゃろな」
「す、スケベオヤジ……?」
予想外のところから一撃が飛んできた。
クールで頼れる先輩の顔をしていたはずななのに、それができていなかっただと? この俺が、社内や取引先からはイケメンと評されているこの俺が、篠崎を見ているときはスケベオヤジのごときだらしない顔をしている……!?
だが、ここで動揺をみせるわけにはいかない。俺はゆっくりと何度か頷きながら体勢を立て直し、あえてゆっくりした口調でこう言った。
「手なんか出すかよ、同じ職場の後輩だぞ」
「へぇ〜、プラトニック貫いてんねや。あんたのことは聞いてるで、新入社員の頃からお世話になった先輩なんやってな」
「……き、聞いてる? 篠崎から?」
「ああ、そうやで。会うのは久々やったけど、たまに電話で話すからな」
「……は?」
これまた強烈な一撃。
——どういうことだ? 篠崎は、こいつと定期的に連絡をとっているということか? あんなにこいつのこと嫌ってそうだったのに、こいつからの電話を取って、しかも俺のことをこいつに話していた……!?
顎下にアッパーを食らったような気分だったけれど、俺はふっと余裕の笑みを見せてやった。……だが、机の下で握った拳はブルブルと震えている。
「へぇ……俺のことをあんたに話してたのか、光栄だな」
「入社時からねろてたんか? っちゅうことはや、三年も真くんのことエロい目ぇで見とったっちゅうわけ? 見た目によらず、ずいぶんとピュアなことで」
「あのな、俺がどう恋愛しようが、あんたには関係ねーだろ。セクハラだね、キモいんだよ」
「キモ…………まぁええ。で、この先どうするつもりやねん。ずーーーーーっと片想いこじらすん? 同僚やからて真くんに手ぇ出せへんてことは、セフレでも作ってやることはやってんねやろ? フケツやな」
「お前さっきからめちゃくちゃ失礼なことしか言わねぇな。つーかいねーわセフレなんか」
「へー、いいひんねや。ほな、三年もずっとご無沙汰なん? へー」
「そういうお前はどうなんだよ。篠崎に未練たらたらか? まさかワンチャン狙って飲みに誘ったんじゃねーだろうな」
日本酒をトクトクトクトク注ぎ合い、一気飲みをし合ううち、互いに口調が悪くなり始めている。
だが、相手が悪い。俺は飲み比べでは負け知らずだ。
高野の顔から余裕ぶった笑みは消え、涼しげだった切れ長の目もすっかり据わりきっている。
「言っとくけどな、僕は自分なんかよりもずーーーーーーっとずーーーーーっと真くんのことをよう知ってる。それだけは言える」
「そこは反論しない。俺は篠崎のプライベートなこと、ほとんど知らないし」
「せやろ!? どこの馬の骨とも知らんやつに、真くんのことホイホイ渡せるかっちゅーねん。手ぇ出すつもりないなら、とっとと諦めろや」
「俺がどうしようが俺の勝手だ。……くそ、酒がもうない」
渋い色合いの徳利はとっくに空っぽになっている。追加の酒を注文しようとインターホンに手を伸ばしかけたとき、向かいに座る高野がばたんと机に突っ伏してしまった。
「おい、もう飲まねーの? お前も潰れたのか?」
「つぶれてへんわ……ドアホが……」
「やれやれ……」
どうやらこの勝負(?)には勝ったようだ。
畳の上で脚を伸ばしつつネクタイを緩めながら、俺は重い頭を軽く振った。
仲居を読んでタクシーを二台呼んでもらう間、俺は改めて篠崎の肩を軽く揺すった。だが、いまだに深い夢の中にいるのか、呼んでも揺さぶっても起きる気配はない。
「ホテル着くまでに起きるかな……」
そう呟いてみて……俺はもう一度首を振る。
ちらっと、本当にちらっとだが、酔い潰れている篠崎の姿にエロいものを感じてしまったのだ。
突っ伏した横顔は少し苦しげだが、ひそめられた眉や薄く開いた唇は途方もなく色っぽい。白い肌はうなじまでうっすら桃色に染まっているし、微かに呻く声もやたら艶っぽく聞こえてくる。
「……バカか俺。本物のスケベオヤジになっちゃうだろ」
ため息混じりに呟いて、篠崎のスマホやビジネスバッグなどをまとめる。手を動かしながらも、ずっと俺の頭を支配しているのは、篠崎の性的指向のことだ。
——……もしあいつと付き合ってたなら、篠崎もゲイってこと? いや、一方的にこいつが熱を上げて付き纏ってただけかもしれないし……。
ふと灯りかけた希望の灯を自ら吹き消しながら悶々としているうち、仲居からタクシーの到着が告げられた。
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