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第7話 記憶がない?〈side大城〉
翌朝の朝食ビュッフェに、篠崎は姿を見せなかった。
朝起きてすぐ送ったLINEには、『本当にすみません! 二日酔いなので、朝食はキャンセルします。のちほどロビーでお待ちしてます』と返信が入っていた。
とりあえず、気まずい空気の中、向かい合って朝食を食べるという事態は免れたわけだが……だからといって、なにが解決するわけでもない。
だって俺は……俺は昨日、あいつに何をした。
酔ってバカになってキスをしてしまったんだ。
どうするんだ? 酔っていたとはいえ、篠崎があのキスを覚えていたらどうするんだ!? 酔っ払って前後不覚になった後輩に自分の欲望をぶつけるだけぶつけたんだぞ? あいつの気持ちも聞かずにあんな暴挙を働くなんてどうかしている、取り返しのつかないことをしてしまった。コンプラ的にも、セクハラ&パワハラで一発アウトだ。
——ああ……マジでどうしよう。篠崎、どんな気持ちで俺を待ってるんだ?
展示会の日程もまるまる一日残っている。仕事モードになっているときならば、なんとか誤魔化せそうな気はしているが、その後一緒に新幹線に乗り、東京へ戻らねばならない。
爽やかな朝陽がさんさんとさしこむレストランで、俺はコーヒー片手に項垂れた。
——どうしたらいいんだ俺は……。もう腹括って告白して、潔く玉砕するか?
そうなると、篠崎は仕事がやりづらくなるだろう。だが、解決策はある。俺が異動してしまえばいいのだ。
企画部も在籍年数が長くなってきているし、異動願いを出せばあっさり通りそうな気はする。
——篠崎とは会いにくくなるけど、それでいい。毎日顔を合わせてたら諦めるもんも諦められなくなるだろうけど、距離を置けば、きっと……。
ちらりと腕時計を見る。そろそろ展示会会場へ向かわねばならない時間だ。
一応皿に取ってきていた食パンとゆで卵を急いで食べ終え、コーヒーを飲み干して、俺は思い足取りでレストランを出た。
+
「大変申し訳ありませんでした!!」
エレベーターを降りるとすぐそこに篠崎がすでに立っていて、俺の顔を見るなり腰を直角に折ってきた。
同じエレベーターに乗っていた旅行者風のカップルが何事かという顔で俺を見上げ、篠崎のほうへ気の毒そうな視線を送り、ひそひそなにか囁き合いながらフロントのほうへ消えていった。
「え……と、篠崎? なんで謝ってるんだ?」
「記憶がなくなるほど飲んでしまい、大変大変ご迷惑をおかけいたしました! これもすべて僕の自己管理能力の低さが……」
「ちょ、ちょっと待った。え……? 記憶、ないのか?」
「……はい」
「どこから!!?」
「ヒッ……ええと、会席料理屋にいたことだけは覚えていますが……」
「そっ……そうなのか!?」
びっくるするやらほっとするやら残念な気もするやらで、ついつい大きな声が出てしまう。震え上がった篠崎がぴーんと直立不動になり、再び「大変申し訳ございません!!」と平謝りするので、俺たちはどえらく悪目立ちし始めている。
ロビーにいたサラリーマンや旅行者たちが非難めいた目つきで俺を睨み、哀れみと励ましのこもった眼差しで篠崎を見ている。
——い、いかんいかん、落ち着け俺……!! 声のトーンを下げろ、笑顔、笑顔だ……!!
営業で培った癖が顔を出し、つい腹の底から声が出てしまった。
俺はわざとらしく咳払いをして篠崎をロビーのソファに促すと、並んでゆっくり腰を下ろした。篠崎は果てしなく申し訳なさそうな顔で俯いている。……俺は全く怒ってないのに、完全に怒られていると勘違いしている顔だ。
「あ、あのな、篠崎。俺はただ、びっくりしただけで、怒ってなんかないからな?」
「……でも、社会人三年目にもなって、浴びるほどお酒を飲んで記憶を飛ばすなんて、情けないです」
「ぜんぜん、情けなくなんかないって! もっと酒癖のひどいやつは部内にもごまんといるし!」
「そうでしょうか……」
「部長なんて、何年か前の忘年会で酔っ払った挙句財布の中の金そこらじゅうに配り歩いて、公園で服脱いでランバダ踊ってたんだぞ? それに比べたら可愛いもんだから!」
「はぁ……ランバタ……ってなんですか?」
意図せぬところでジェネレーションギャップを突きつけられてたじろいだが、今はそれは置いておく。
「ええとつまり……高野さんと仕事の話をしたことは覚えてるんだな?」
「はい、かろうじて」
「んで、そのあとのことは全く覚えてないと。ホテルにどうやって戻ったかとか」
「……覚えてません。本当にすみません」
じっと篠崎の顔を覗き込みながら念を押すように尋ねてみる。ちょっと目力が強くなり過ぎてしまったのか、篠崎はただでさえ二日酔いで青い顔をさらに青白くしながら、こくりと頷く。
俺は内心はぁ………………と盛大にため息をついたが、篠崎をさらに怯えさせるわけにはいかないため、にこっと爽やかに笑って見せた。
「あの日本酒、美味しかったしな。俺もけっこう飲み過ぎちゃったよ」
「そ、そうなんですか? 全然いつも通りに見えますけど」
「まぁ、今はな。俺も昨日は久々に酔っ払っちゃってさ、実は記憶が曖昧なんだ」
「え……?」
「よくホテルまで無事に戻れたよな、俺ら。あはは」
篠崎を安心させるためにもからっと笑って見せたものの、その顔色はあまり好転しない。ちょっと意外そうな顔で、小さく首を傾げている。
「ん? どした?」
「あ……いえ。いや、本当に怖いですね。お酒の力って」
「だよな。今日は帰りの新幹線でいっぱいやろうかと思ってたけど、コーヒーにしとくか」
「はは……そうですね。そのほうが良さそうです」
にこ、と青白い顔のまま微笑む篠崎はあまりにも儚くて、ほうっておくと空気に透けて消えていってしまいそうだ。買っておいたスポーツドリンクを篠崎に手渡し、狂った調子を取り戻すべく、すっくと立ち上がる。
「ま、まぁ、気合い入れていくか! ロータリーにタクシーいるから、それで向かおう」
「はい、行きましょう。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
立ち上がった拍子に、篠崎がよろりとよろめいた。咄嗟に支えようと腕を掴もうとしたが、篠崎がひょいと身をかわして俺の手をかわしたように見えて……。
——え……? 避けられた?
俺が面食らっていることに気づいたのか、篠崎は妙な空気をごまかすように苦笑を浮かべた。そして「すみません、大丈夫です。タクシー乗り場行きましょう」と言って先に歩き出す。
——いや、まさかな。昨晩のことを覚えてるとしたら、もっと挙動不審になるだろうし。
スタスタと先を歩き、タクシーを呼び止めて俺を振り返って微笑む篠崎の表情は、まったくいつも通りだった。
考え過ぎだろう。これが演技ならすごい。主演男優賞ものの演技力だ。
——大丈夫、だよな。
タクシーに乗り込んで今日のスケジュールを話し合いながらも、俺の頭の中にはさまざまな感情が渦巻いていた。
昨日のキスがバレなくてほっとしたかと思えば、いっそ覚えておいてくれたほうがよかったのにと落胆したり。
もし覚えていたとしても、「俺も酔っていたから」と言い訳ができたのに……とズルいことを考えたり、あんな不誠実な行為を記憶されていなくてよかったと、やっぱり安堵したり。
なんにせよ、このままではいけない気がする。
篠崎の心が欲しいのなら、もっと俺は踏み込んでいかねばならない。仕事がどうとか公私混同がどうとか、突っ走りそうになる感情にブレーキをかけてくるものをすべて一旦取り払って、自分の気持ちと向き合う時が来てしまったように思うのだ。
——そうだよな。ずっとこのままってわけにはいかないよな……。
シートに持たれて車酔いを堪えているらしい篠崎の横顔を盗み見ながら、俺はしばらく思案に沈んだ。
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