8 / 28

第8話 あの夜の記憶は……〈side篠崎〉

 帰り着いた東京駅のホームは、初秋の夜にしてはずいぶん蒸し暑かった。  空調の効いた新幹線の車内から一歩外に出ただけで、じわりと汗が浮かぶ。こめかみに滲んだ汗を、僕はそっと手の甲で拭った。 「大阪も暑かったけど、東京も蒸し暑いなぁ」 「ほんとですね。明日は雨予報みたいですし、そのせいかもしれませんね」 「そっか、雨か。どうりで蒸すわけだ」  出張を終えてリラックスしているのか、大城さんの歩調はいつもよりゆるやかだ。「蒸し暑い」と言いながらも、その横顔は普段通り涼しげで、空を見上げる動作でさえもとても絵になる。 「今後に繋がる企業とも出会えたし、かなり成果あったよな」 「ええ、そうですね」 「誘ってくれてありがとな、楽しかったよ」 「あ……こ、こちらこそ。色々教えてくださってありがとうございました!」  雑多に人の行き交うコンコースを抜けて改札を出たところで、僕たちは解散した。軽く手を挙げて颯爽と去っていく大城さんに向かって、深々とお辞儀をする。  数秒してゆっくりと顔を上げると、ようやく全身から力が抜けてゆくのを感じた。  大城さんの背中はすでに雑踏の中に消えている。僕は「はぁ………………」と長い長い長いため息をつき、背後にあった柱に背中を預けて天を仰いだ。  ——今日一日、生きた心地がしなかった……。  社会人の顔を、大城さんのよき後輩としての顔を、十二時間近く立派に演じ切れた自分を、心の底から褒めてやりたい。  演劇部に入ったこともない素人の僕が、あの大城さんの目を誤魔化し切れたのだ。お遊戯会では木の役をやり、小学校の発表会ではセリフのないネズミの役をやっただけの僕が、立派に社会人を演じ切れたのだから。 「はぁ……こんなに疲れたのいつぶりだろう……」  何を隠そう、昨晩あったことを僕はしっかり覚えている。  会席料理屋からホテルに戻るまでの記憶が抜け落ちているのは本当だ。展示場内の人いきれに体力を奪われていたし、大城さんと由一郎と三人で飲まねばならないという不測の事態に緊張していたこともあって、いつも以上に酔いが回ってしまったらしい。  だけどタクシーで少し寝たおかげか、ホテルの部屋に連れて帰ってもらい、横になったあたりからの記憶は……ある。  あるからこそ、僕は非常に困惑していた。  ——……あの感じだと、本当に僕が何も覚えてないって思ってるんだろうな。大城さん、朝はちょっと様子がおかしかったけど、それ以降はめちゃくちゃいつも通りだったし。  朝起きた瞬間ひどい頭痛に襲われ、ああこれはやらかしたやつだと僕は絶望した。だがその瞬間は、大城さんとの間に何があったかということは忘れていた。  だけど、ふらふらしながらシャワーを浴び、シャンプーをしているとき……僕は、稲妻に撃たれたかのように昨晩のことを思い出したのだった。  頭を撫でられ、甘い声音で「亮一って呼んでみて」と言われたこと。  言われるまま名前を呼んだら、大城さんの目の色が変わったように見えた。……そしてそのまま、唇を奪われて——……。  ぼーっとしながら電車に乗り換え、ドアにもたれかかって規則正しい揺れに身を委ねながら、僕は無意識のうちに唇に触れていた。  ——大城さんも記憶が曖昧だって言ってたけど……本当はどうなんだろう。どうして僕なんかにキスしたんだ……?  男らしくて、格好良くて、仕事ができる大城さんのことだ。彼女がいるという話は聞いたことがないけれど、きっと職場では口にしないだけで、すごく充実したプライベートを送っているに違いない。そうに決まっている。  なのに、なんでわざわざ僕にあんなことを……? 考えても考えても、生まれるのは疑問ばかりだ。  戯れにしては、大城さんの目はとても真摯なように見えたし、僕が名前を呼んだ時のあの人の表情は形容しがたいほどに甘く、とても嬉しそうに見えた。  だが、それも僕の錯覚かもしれない。僕は尋常でないほどに酔っていたし、大城さんだって酔っていた。酔っ払い同士の戯れのキスなんて、大人同士ならよくある話なのかもしれない。だが……。  ——経験がないから分かんないんだよなぁ……。あれが遊びのキスなのか、そうじゃないのか……。  25歳にもなって恥ずかしいことだが、僕には恋愛経験がない。  人生で一番モテていたのは、たぶん中学生の頃だった。  理由はよくわからない。当時の僕はまだ同級生らの中では背が高いほうで、おまけにサッカー部員だったからモテたのだろうか? 成績もそこそこ良かったし、誰とでも仲良くしようと心がけていたから、女性陣は僕に好意的な感情を抱いていてくれたのかもしれない。  だが高校に入った途端、同級生たちがぐんぐん身長を伸ばしていったため、僕はどんどん目立たなくなっていった。  中学時代とはうってかわって僕のまわりは静かになったが、居心地はよかった。僕は早くから受験勉強に勤しまねばならなかったから、まわりが静かなのはありがたいことだった。  大学に入ってからは勉強やバイト、そしてあっという間に始まった就職活動で忙しく——……きづけば、まっさらなままで社会人となり、仕事に追われるうちに三年目に突入していた。  社会人になってからは、酒癖の悪い人があまりにも多くて驚いたものだ。  同期にも酔ってキス魔になる仲間がいるけれど、初めてを守り抜きたい想いもあって、いつも必死で抵抗してきた。    とはいえ、別に彼はどうしても僕としたいわけではない。拒めばすぐに別の相手にベタベタしにいくから問題はなかったのだが、今回は……。  ——ほんとに、なんで? どうして僕なんかに大城さんがキスをするんだ……?? よりにもよって僕に……。  酔った勢いでのキス。だが、そう言い切ってしまうには、あまりにも優しいキスだったように思う。  優しいだけじゃない。身体の最奥に火を灯すような熱さをともなった、官能的な大人のキスで……。  その感覚を、身体は覚えているとでもいうのだろうか。  あの時の大城さんの表情、男の色気にあふれた熱い眼差し、慈しむように重ねられた唇の感触が全身に蘇り、身体中がカッカッカと火照ってくる。  普通なら、もっと嫌悪感を抱くものなのだろうか。……それも、僕にはよくわからなかった。  大城さんのことは尊敬している。仕事の面では厳しいところはあるけれど、すごく頼もしいし、なんだかんだですごく優しい。容姿を含め、あの人のかっこよさに惚れ惚れしてしまうことも少なくはなかった。  大きなプレゼンの前には色々と厳しいことも言われたけれど、そのおかげで、僕は一皮剥けることができたと思っている。  大きな失敗をしてしまうことから避けたくて、ずっと誰かの陰に隠れていた。  黒子のように、誰かのサポート役となってリサーチや分析をおこなう役回りが、僕にとっては一番働きやすいポジションで、同期からもそういうやつだと思われていただろう。僕自身、ずっとこのままでいいと思っていた。  だけど大城さんは、そういう僕の曖昧さをひどく嫌った。  成功の喜びからも失敗の苦さからも距離を取ろうとしていた曖昧な僕を、大城さんは半ば強引にスポットライトの下へ連れ出してくれたのだった。  初めて手にした大きな成功だった。自分の名前が残る仕事ができて、まるで生まれ変わったような気分になった。  大城さんの厳しい言葉に怯んだこともあったけれど、そのおかげで、僕はようやく一人の男として、社会人としてのスタートラインに立てたのだ。  プレゼンのあと、僕以上にくたびれた顔をして缶コーヒーをくれたときの大城さんの姿は、いつも以上にかっこよかった。    あの人のようになりたくて、ここ最近は僕も身なりに気を遣うようになったくらいだ。もっと大城さんに認めてもらえるように、小さなことからでも自分を変えていこうと思っている。  ……そう、大城さんはそういう相手だ。  男として、社会人として、仰ぎ見るような存在だ。  だからこそ、大城さんに褒められるとすごく嬉しいし、もっともっと頑張ろうと思える。  大阪出張に誘った理由は、あの人の仕事を近くでもっと見てみたかったという理由もあるが、プライベートなことをほとんど話さない大城さんのことを、もっとよく知りたくなったからだった。  展示会の後は二人で飲みにいけないかな、とも思っていた。プレゼンの指導についてのお礼もしっかり伝えたかったし、純粋に、もっと仲良くなってみたいなと思ったから誘ったのだ。……由一郎のせいで、それは実現しなかったが。  ——大城さん、何を思って僕にあんなことを……? 考えれば考えるほど謎だな……。  悩みはするものの、驚くほどにキスに抵抗を感じていない自分がいて、僕は二重に困惑している。  正直……自分でもどうかしていると思うのだが、大城さんのキスは気持ちが良かった。それになんだか無性に、いやらしい気分にさせられるようなキスだった。  もし、あのままもっといやらしいことをされていたらどうなってしまったのだろう。……ふとそんなことをふと考えてしまい、僕は焦った。破廉恥な思考を振り払うべく、歩きながらかぶりを振る。  ——いや、いやいやいや。大城さん相手に何考えてんだ僕は……! あの人だって酔ってたんだ。あれくらいのキス、慣れた大人なら普通にやっちゃうもんなんだろきっと。大城さんなんて絶対モテるし、キスなんて挨拶がわりなんだよきっと。僕が慣れてないから、こんなに動揺してるだけで……。 「はああ…………………………」  窓ガラスに額をくっつけて重々しくため息をついていると、すぐそばに立っていた女子高生二人組がギョッとしたような顔で僕を見た。  傍目にはきっと、仕事で大失敗をしでかしたサラリーマンが絶望しているといった図に見えただろう。彼女らが未来に不安を抱かないよう、僕は慌てて背筋を伸ばし、涼しげな顔を取り繕って電車を降りた。  疲れているのに色々考えすぎて頭が痛い。  すぐに帰って眠ってしまいたかったけれど、頭が妙に冴えすぎている。寝酒でも飲んだら眠れるだろうか。  コンビニでビールでも買って帰ろうかと考えていると、スラックスの中でスマートフォンがバイブした。大城さんからの電話だったらどうしよう、いきなり社会人モードで喋れるだろうかと大慌てしたけれど……そこに表示されていた名前は、『高野由一郎』だった。 「……はぁ、なんだ」  面倒だったが、出ないわけにはいかない。コンビニを背にして立ち止まり、通話ボタンをタップした。 『もしもし真くん? 無事に帰れてる?』 「帰れてますよ、当たり前でしょ」 『ああよかった。ごめんなぁ、こないだめちゃめちゃ酔っ払ってもて……気づいたら君ら揃って消えてしもてたから、どないしょう真くんお持ち帰りされてしもたやん!! て、めっちゃ焦ってんけど』 「お、お持ち帰りって!? た、た、ただ、ホテルの部屋まで連れて帰ってもらっただけですが!?」 『……ふーん? そうなん? なんやギラギラした人やったけど、ほんまに大丈夫?』 「大丈夫に決まってる。……それに、ギラギラなんてしてないよ。いい先輩だし」 『いい先輩、ねえ。あのなぁ、僕はほんまに心配してんねん。大事な大事な君が、あんな男になんや妙なことされてへんにゃろかて』 「大きなお世話です」  スマホから響いてくるねっとりと甘い声に、僕はだんだんイライラしてきた。  ”大事な大事な”といいながら、この男が僕に何度も味わわせてきた屈辱を思い出し、さらに頭が痛くなってくる。  だが、同時に由一郎には恩もある。  だから最低限の連絡は取るようにしているのだが、尊敬している大城さんのことを悪く言われるのは不愉快だ。  それに、ホテルで”妙なこと”がリアルにあったものだから、余計に首を突っ込まれたくなかった。 「……とにかく、大阪での仕事はうまくいきました。さようなら」 『ちょ、ちょ、つれなすぎひん? なぁ、またお店のほうでいいから顔見せに、』 「明日も仕事なので失礼します。では」 『まことくーん!!』  なかば一方的に通話を切り、僕はスマホをスラックスに滑り落とした。 「……そうだよ、明日も仕事だ。大城さんと顔を合わせるんだぞ……」  寝酒に頼ろうかと思ったが、酒の匂いをぷんぷんさせながら出社するわけにはいかない。  僕はコンビニに入っておとなしくガリガリくんを買い、焼き切れそうな頭をクールダウンさせながら帰路についたのだった。

ともだちにシェアしよう!