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第9話 出社する勇気〈side篠崎〉

 ビジネスバッグを胸に抱え、コソ泥のような足取りで、僕はオフィスをこっそり覗き込んだ。  誰よりも早く出勤して心を整えておきたかったのだが、案の定昨晩はなかなか寝付けず、結局寝坊をしてしまった。ギリギリ始業には間に合ったけれど、バタバタと出てきてしまったせいで着衣にも心にも乱れがある。  ——あ、大城さん、いる……。いや、いて当たり前なんだけどさ……。  新入社員としてここへきた日、僕はとても感動した。清潔で快適でスタイリッシュなオフィスで働く人々の一員になれたのだと、自分を誇らしく思えたものだった。もちろん、その気持ちは今でも変わらない。日々緊張感はあれど、僕はこのオフィスで働くことに喜びを感じている。  だが、今日の緊張感はいささかいつもとは様子が違う。  すぐそこに自分のデスクがあるのに、このガラス戸を押し開いて中に入る勇気が出ない……。  明るくて広々した綺麗なオフィスはインテリアもしゃれている。窓際に設置されたコーヒーメーカーのそばで、大城さんは部長を含めた4、5人でにこやかに雑談をしていた。  ジャケットを脱いだワイシャツ姿で、コーヒーカップ片手に爽やかな笑顔を浮かべる大城さんは、今日も今日とて完璧なかっこよさだ。その輪の中でひときわ背が高いため、こんな遠くからでも大城さんの姿はすごく目立った。窓から差し込む朝陽を背にしているせいか、今日は白いシャツを着ているせいか、まばゆいほどに輝いて見える。  ——あんな人が僕に、なぜ…………って、ダメだぞ、ダメだ! 会社ではそんなこと考えない! あれは酔っ払いの事故みたいなもんなんだから……!!  再びこみあげてくる疑問を無理やり頭から振り払う。すると、微かな振動を足元に感じたかと思うと、廊下の角から女性社員が勢いよく現れた。 「やっば遅刻遅刻!! って、どいてよ篠崎、邪魔!」 「うわっ」  僕の身体もろともガラス戸を突き破る勢いでオフィスに突入していく女性社員……この人は僕の同期の酒井さんだ。女性にしては長身で、身長171センチの僕とほぼ同じ。スレンダーなパンツスーツに身を包んだショートヘアの似合うスポーティな女性である。  スタスタスタと自らの席に一直線に歩いていく酒井さんとともに、何食わぬ顔で僕も席に着く。繊細さというものをほとんど持ち合わせていない彼女のおかげで、なんとかオフィスに入ることができた。ありがとう酒井さん。  幸い、大城さんとは席が離れている。今日はこれといって、あの人と打ち合わせることもないはずだ。大阪での成果を報告書にまとめねばならないが、べつに各々でもできる作業だし、ひとまず仕事モードに頭を切り替えて集中しよう……。 「おはよ、篠崎」 「ヒィッ!!」  突然、僕の視界の中に、大城さんが現れた。僕は椅子の上で飛び上がり、手にしていたノートパソコンを取り落としかけてしまう。  それを大城さんが「おっと」と言って難なくキャッチ。恥ずかしくていたたまれない気持ちになりながら、僕はパソコンを受け取った。 「ありがとうございます……」 「顔色悪いけど、大丈夫か? 疲れたんだろ」 「え? あ、いえいえ全然!!」 「そう? 部長が大阪でのことを聞きたがっててさ。篠崎もきてくれる?」 「お、おおさかでのことを……?」  ——な、なんだ? どうして部長があの夜の出来事を聞きたがるんだ!? ……と一瞬勘違いして慌てたが、なんのことはない。部長は大阪出張の成果について聞きたいだけなのだ。そうだ、当たり前じゃないか。  僕は人知れずごくりと唾を飲み下し、社会人らしい笑顔を無理やり顔に貼り付けた。 「はい、もちろんです」  「サンキュ。10分後に部長の部屋で、いいかな」 「わかりました」  にこ、と笑顔を残して、大城さんは僕のデスクから離れて行った。  にこにこしながら大城さんの背中を見送って数秒。僕は「ぅはぁ〜〜〜……」と派手にため息をつく。どうやらずっと息を詰めていたらしい。 「どうしたよ篠崎。また大城さんに怯えてんの?」  隣の席の酒井さんがものすごいスピードでメールを打ちながら、さらりとそんなことを言ってきた。我に返った僕はノートパソコンを開きつつ、「い、いや、そういうわけじゃないけど」と言う。 「明らかに態度変じゃん。大阪でなんかやらかした?」 「やら……っ……!? や、やらかしてなんかいませんけど!??」 「いや声でか」  心底迷惑そうにこちらをチラ見した酒井さんが、そのまま僕の顔をしげしげと眺めている。僕は咳払いをして、パソコンに向き直った。 「……まぁ、二日酔いで迷惑をかけたことはあったかな」 「やらかしてんじゃん」 「そう……だよなぁ」 「それ以外にもなんかあったって顔だし」  同期の中で一番口が固くて信頼ができるのが酒井さんだ。サバサバしすぎていて愛想のかけらもないような人だけど、誰かが本当に困っているときは、じっくり話を聞いて、一緒に対応策を考えてくれる親切なところもある。  話を聞いてほしいような気はするけれど、内容があまりにもアレなのでどうしようかとも思ったけれど…………僕は重々しくひとつ頷いた。 「よっぽどやばくなったときはお願いするよ」 「おけ、飲み行こ」  ごくごく短いやり取りを交わしたあと、僕は意を決して、部長の部屋へ足を運ぶことにした。  +  大阪での成果を聞く中で、部長がいちばん大きな関心を示したのは『こうのや』とのつながりができたことだった。 「『こうのや』といえば料理が有名だもんねぇ。なにかコラボできたらいいなあ。老舗『こうのや』監修の〇〇! みたいな感じでドーンとやれたら売れそうだよなぁ」 「コラボですか……。あ、篠崎、次は和菓子でやってみたいって言ってたよな?」 「ええと、はい……」 「和菓子! 京都といえば和菓子! しかも『こうのや』監修! いいじゃないいいじゃない。篠崎くん、ちょっと企画書書いてみてよ。大城くんはさ、そういうの可能かどうか『こうのや』さんに問い合わせてみ?」 「あ、はい……わかりました」 「了解です」  ノリノリの部長はポンポン話を進めていき、「ちょっと僕、トイレね」と言い置いて、鼻歌混じりに席を立った。  部長室の長机にふたりきりで取り残されてしまい、途端に僕の背中にはたらたらたらと変な汗が滲み出す。隣に座る大城さんの気配が気になって気になって、目線が不安定に泳いでしまう。 「……ごめん、篠崎」 「へっ?」  そこへきて、突然の謝罪の言葉だ。なにに対する謝罪かとビクビクしていると、大城さんの申し訳なさそうな眼差しを、すぐ間近で受け止めてしまった。  じっと僕を見つめ、申し訳なさそうに眉を顰めている大城さんの顔面はやはり感動的なほどにイケメンで、僕は内心「うわぁ」と悲鳴をあげていた。 「高野さんとなんかありそうだったのに、話が進みそうな感じになっちゃったなぁ……と」 「え……?」 「世間話のつもりで『こうのや』さんの名前出しただけなんだけど、部長、すげー食いついてきちゃっただろ。……軽率だった、ごめん」 「あ、いえ、そんな……」  身体ごと僕のほうへ向き直り、大城さんはぺこりと頭を下げてきた。僕は慌てて、「やめてくださいよ、そんな」と言う。ゆっくり顔を上げた大城さんは、なぜかものすごく苦しそうな顔をしていた。 「ど、どうしたんですか?」 「いや……あの……聞こうか聞くまいかずっと迷ってたんだけど」 「な……なんでしょうか」  どうしたことだろう、あまりにも思い詰めた重い口調だ。いったいなにを宣告されてしまうのだろうかと怯えつつ、僕も身体の向きを変えて椅子に座り直した。 「篠崎さ……高野さんに対して、なんかこう……すごく砕けた態度というか、親しいがゆえにツンケンした態度をとってたように見えて」 「は、はぁ……そうでしたでしょうか」 「『由一郎』って、名前で呼んでただろ。……しかもその……飲みの席であんなになるまで酔っ払ったりしてたから、何か並々ならぬ関係性だったのかな、なんて思って……さ」  つっかえつっかえ、言いにくそうに話をする大城さんの姿が珍しくて、僕はしばしぽかんとしてしまった。普段のこの人からは想像もつかないほどに不器用な話しぶりで、それほどまでに僕の態度が大城さんを戸惑わせてしまっていたのかと、申し訳なくなってしまう。 「あ、あの、すみませんでした。お心を煩らわせてしまって……」 「い、いや……いやそういうわけじゃないんだけどさ! 苦手な相手との仕事なんて、篠崎にとっちゃストレスになるだろうし、どうなんだろうな〜と思って」 「はい……お気遣いありがとうございます」  そういえば、僕は由一郎との関係について大城さんになにも説明していなかったな……と、いまさらのように思い出した。  だが、どう説明したらいいものか。由一郎にまつわる過去は、僕にとってはあまりいい思い出ではないことばかりだ。プライベートなことといえばプライベートなことになるし、話してしまえば、これまで以上に大城さんに気を遣わせてしまうことになるかもしれない。  ——うーん……どうしようかな。大城さん、すごく気にかけてくれてるみたいだし……。  軽く事情を話しておくかと思ったところで、大城さんが妙に真剣な目つきで僕をキッと見据えてきた。  なまじ目力が強いものだからその視線にはやたらと迫力があり、僕は思わず竦んでしまったのだが……。 「あのさ……ひょっとしてなんだけど、付き合ってたのか? あの人と」 「……えっ?」  ものすごい角度から投げかけられたその問いに、僕の目は点になってしまった。  「大学時代の先輩に、ふつうあんな反応になんないだろ。……色々邪推してしまって申し訳ないとは思ったけど、どうしても気になって」 「つっ……付き合うわけないじゃないですか!!」  まさかの勘違いをされていたことに仰天するあまり、声が大きくなってしまった。  ハッと我に返ると、目の前で大城さんが目を丸くしていた。ガラス張りの部長室から僕の声が外に漏れた様子はなく、皆が淡々と通常業務についている様子が見て取れる。 「す、すみません! 大声を出してしまって」 「付き合ってない? ほんとに?」 「断じてそんなことはありません! というか……まさかそんなふうに見えていただなんて、びっくりで……」  どうして僕があいつと付き合わなきゃいけないんですか、それに由一郎は男じゃないですか——……と、勢いで言ってしまいそうになったけれど、僕ははたと口をつぐんだ。  大城さんが僕らのあのやりとりを見て、男性同士の恋愛を連想したのかということに驚きを感じつつも、なにか腑に落ちるものがあったからだ。  ——普通なら、そんなふうに思わない気がする。僕らのあの会話を聞いて、付き合ってた過去があっただなんて……。  すると途端に、大阪での夜の記憶が再び勢いよくフラッシュバックした。  僕に名前を呼ばれて、嬉しそうに微笑む大城さんの表情、僕の頭を撫でる柔らかな手つき、酔った勢いとは思えないような優しいキスのことを。  ——ひょっとして、大城さんって。  僕の直感が正しいとするならば、大城さんは……。

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