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第10話 生い立ち〈side篠崎〉

 ——ゲイ、なのかな。……モテるとはよく聞くけど、ぜんぜん浮いた話を聞かないし……。  ひょっとして大阪でのあれは、酔っ払い事故ではなく、恋愛的な意味を伴ったキスだったのだろうか? つまり大城さんは僕に恋愛感情を抱いている……?  ぽんと湧いた発想に顔が熱くなりかけたが、すぐに僕は冷静さを取り戻した。  ——ま、そんなことあるわけないか。大城さんなら、相手なんて選びたい放題に決まってる。この人が僕に特別な感情を抱くなんてこと、あるわけないよな。  取り立てて優れたところもない凡庸な僕が、この人の目に留まるわけないじゃないか。たかだか一回のキスのことを、いい加減引きずりすぎだ。さっさと忘れるべく心を整理しようとしたが、ちりりと、感じたことのない痛みが胸を小さく刺す。 「篠崎?」 「えっ……? あ、ああ、由一郎のことですよね!! ご説明が遅れてすみませんでした」  いけない、大城さんを放置して考えごとに耽ってしまった。少し首を傾げ、なおも訝しげな表情で僕を見つめている大城さんに向き直る。 「由一郎は、僕の異母兄なんです」 「えっ!? つまり、兄弟?」 「いや……兄弟なんてそんないいものではなく……。まあ、分かりやすく言ってしまうと、僕の母は『こうのや』代表の高野剛十郎の浮気相手で……古めかしい言い方にすると、いわば妾の子、というかんじで」 「な……っ」  大城さんが、唖然としている。  その反応は、あまりにも無防備だった。大城さんらしからぬ純朴な素直さのようなものが垣間見えたような気がして、僕の目には新鮮に映った。 「そうなのか……?」 「ええ、はい……すみません、突然こんな話になってしまって」 「いや。……まぁ、びっくりはしたけど」  大城さんはしばらく何かを考えこむように顎に手を当てて俯いてしまう。  しまった、変な空気になってしまった。このおかしな空気をどうしたらいいものかと考えあぐねていると、大城さんの視線を頬に感じた。 「篠崎さえ良ければなんだけど」 「なんでしょうか」 「その話、ちゃんと聞かせてくれないかな。いや、篠崎がいやでなければでいいんだけどさ」 「あ……そうか。もし『こうのや』と仕事することになったら、業務に差し障るからですよね。僕は別にかまいませんよ」 「いや、まぁそれもあるけど……。篠崎のこと、ちゃんと知りたくて」  大城さんの視線が、射抜くように僕を捉えた。  それはやすやすと目を逸らすことができなくなるような真剣な眼差しで、大城さんがただの好奇心で僕の生い立ちを聞きたがっているわけではないということが、まっすぐに伝わってきた。  二重まぶたのきりりとした目だ。思っていたよりもまつ毛が長くてびっくりしてしまう。日本人にしては淡く見える茶色みの強い瞳の色は、よく見えるととても優しい色をしている。 「……わ、悪い。踏み込みすぎだよな」 「えっ……?」  大城さんの顔に見惚れて黙り込んでいたものだから、僕が気を悪くしたと勘違いしたのだろう。すいと目を逸らした大城さんが、またぺこりと頭を下げた。 「家族の問題に、他人が土足で入り込むもんじゃないよな。悪かった」 「そ、そんなことないです! 大城さんになら、僕は」 「……ん?」 「大城さんになら、知られてもいいかな……と」 「……」  誇れるような過去ではなく、むしろ人に語ることを避けてきた生い立ちだが、不思議と知りたいと言われて悪い気はしなかった。  興味本位ではなく、この人は純粋に僕の内側を知りたいと思ってくれている——……大城さんの眼差しを前に、素直にそう思うことができたからだろうか。 「ありがとう。今夜、空いてるか?」 「あ……はい」 「ゆっくり話せそうな店、予約しとく」  大城さんが微笑んだタイミングで、部長が鼻歌とともに戻ってきた。  +  僕の母はとある田舎町の温泉街でホステスをやっていた。  そこをたまたま訪れた父——高野剛十郎が、母を見染めたのが始まりだったと聞いている。  すでに父には二人の息子がいて、正妻の穂乃果さんは由一郎を身ごもっていた。だというのに、若く世間知らずだった母とそういうことになり、すぐに僕ができたのだとか。  僕が産まれることを知った父は、すぐに母を京都に呼び寄せた。なるべくすぐそばにいて、手助けできることがあるならなんでもしてやるからと言い、一軒家と数人のお手伝いさんを母に与えた。……だが、若く奔放な母は、鳥籠の中でぬくぬくと囲われる生活に息苦しさを感じていたらしい。  お手伝いさんの手を借りながら、2歳まではなんとか僕を育てていたけれど、3歳の誕生日を前に母は消えた。『私なんかより、高野家の皆さんのほうが、真を立派に育ててくれるはずだから』、引き留めたお手伝いさんに母が残していった言葉がそれだ。  どちらかというとお手伝いさんに懐いていた幼い僕は、母に捨てられたことをさほど重大なこととは捉えていなかったらしい。  だが、いざ本邸に迎えられ、正妻の子である三兄弟とともに育てられることになってからの毎日には、息が詰まった。  人目のないところでは、父はとても僕を可愛がってくれたけど、正妻と息子たちを前にして僕を愛でるわけにはいかなかったのだろう。居心地の悪い家を避けるようになり、仕事にのめり込んでほとんど帰ってこなくなった。  長男の聡一郎さんは当時すでに高校生、そして次男の恭一郎さんは中学生になっていて、毎日とても忙しそうだった。ふたりは突然現れた3歳児にさほど興味はなさそうだったが、当時5歳だった由一郎だけは、僕に興味津々だった。 『おとうとがほしかってん!』『いっぱいかわいがったるからな!』と、幼い僕の手を引いて広い庭を駆け回り、僕にスポーツや勉強を教えようとした。  英才教育を受けていた由一郎は、5歳にしてすでに漢字も読めれば英語も喋れる優秀な幼児だった。だけど僕は、父から与えられ一軒家からろくに外に出たこともない無知な子どもだ。子ども同士の遊び方もわからなければ、妾の子らしい振る舞い方など知るわけもない。由一郎が僕に構うたび、僕は正妻の穂乃果さんに叱られた。  色々きついことを言われて邪険にされたが、幸い僕は幼かったので内容までは覚えていない。ただ、由一郎がしばしば『ひどい! なんでそんなこというん!』『まことくんは、おかあさんにすてられたかわいそうなこぉやねんから、やさしくしたらなあかんやん!』と、由一郎は僕を庇った。  だけど、『可哀想な子』として由一郎に庇われるたび、僕の心は重くなった。  加えて、二つ違いで歳の近い由一郎とは何かにつけ比較をされたが、僕が由一郎にかなう部分などなに一つなかった。  由一郎は関西屈指の名門校・明桜学園になんなく合格し、そこでやすやすとトップの成績を収めていた。一応僕も受験をさせられたけれど、不合格だった。  小学校、中学、高校と、由一郎と比較されながら、自分のダメさ加減を突きつけられ、日に日に自信がなくなった。『妾の子』だから仕方がないのだと屈辱に耐えることしかできなかった。  それでも、学校は気楽で楽しかった。家から離れていられる時間だけは、僕は僕のままでいられる気がしたからだ。部活は好きなものをさせてもらえたし、家の人々ははなから僕に期待をしていないため、『高野家のために』と何かを背負わせることをしなかった。  だけど、家にいるとやはり気が滅入る。  優秀極まりない三兄弟を前にしていると、どうしてこうも自分は凡庸で、取るに足らないつまらない人間なのかと悲しくなった。僕の目の前で、穂乃果さんは自分の子を——特に由一郎を褒めちぎり、『それに引き換え真さんは……』と僕を貶した。卑屈な想いを抱えつつも、僕はそのたびに愛想笑いを浮かべることしかできなかった。  このままずっとこの家に囚われて、ゆくゆくは大勢いる『こうのや』の従業員のひとりになるのだろう。凡庸な僕にはお似合いの未来だ。せいぜい、何不自由なく育ててもらった恩を返しながら生きていこう——……そう思っていた。  そんな時、由一郎が突然「東京の大学を受ける」と言い出した。  上の二人はどちらも当たり前の今日に京都大学を卒業しているため、由一郎もそうするものとばかり思っていた。  そしてどういうわけか、由一郎は「僕が英誠大学受かったら、真くんも東京に出してやってほしい」と言い出して、僕は心底驚いた。  そして由一郎は「お母さんも、そっちのほうがええんちゃう? 真くんが目の前におったら、不倫されたこと思い出してもてイラつくんやろ? 正直そういうの見苦しいし、胸糞悪いわ」と、家族の誰しもが触れずにいたタブーをさらりと口にし、父と兄たちを呆然とさせ、穂乃果さんを激怒させたのだった。  凪の下でぐつぐつと不穏で激しいものが渦巻いていたかのようだった高野家の空気が、がらりと変わった瞬間だった。由一郎を叩き出さんばかりの勢いで激怒していた穂乃果さんの激情がおさまったあと、僕は穂乃果さんに完膚なきまでに無視されるようになった。ちくちく嫌味を言われ続けるより、無視されるのはいっそ気楽だった。  幼い頃から、母と父が犯した罪をどうして僕が背負わねばならないのだろうかと恨めしく思っていたが、その一件以来、穂乃果さんもまた夫の不貞に苦しんだ被害者なのだと感じるようになった。  別に、暴力を振るわれたり、食事や着るものや教育を与えてもらえなかったわけではない。妾の子である僕を、ここまで育ててくれただけでも感謝すべきだ。怒りの矛先を向ける相手が欲しかったのなら、僕ほどの適任者はいない。それなら仕方がなかったよな——……と、東京に出ていくことが決まってからは、そう思えるくらいの余裕が生まれていた。  東京へ出る時、母の篠崎姓を名乗るようにと父から言い渡された。  認知されているので今も戸籍上は高野家の一員だが、これから先、京都に戻るつもりはない。 『こうのや』と仕事をすることに抵抗はあるが、もし、もし実現したとしたら、あの人たちはどう思うのだろう……と、少し思う。  ほぼ他人になったとはいえ、父くらいは、凡庸なりに頑張る僕を少しは認めてくれるだろうか。  + 「そういうわけで、僕は由一郎には恩があるんです。僕をあの家から連れ出してくれたようなものなので」 「まじか……そっか。じゃあ、なんであんなにツンツンした態度を取るんだ?」 「お恥ずかしいことなんですが……」  わずかにビールの残ったグラスの汗を指先で拭いながら、僕は苦笑した。  大城さんが予約してくれた店はジャズの流れるおしゃれな個室で、外からの声や物音はかすかにしか聞こえてこない。 「なんというか……小さい頃から、無邪気に自分の優秀さを見せつけてくる由一郎に屈辱を感じていたもので、素直になれないんですよ、今も」 「なるほど、そういうことか……」 「でも、本当は感謝してます。あの家で由一郎だけが、僕をちゃんと見てくれていたので」  僕が微笑むと、向かいで大城さんも安堵したように微笑んだ。  この店に入ってきた時はずいぶん怖い顔をしていたものだが、ようやくリラックスした表情になっている。  そして僕も、ここへ入った時よりはずいぶんと気持ちが軽くなった。  正直、高野家の人々のことは今も好きとは思えないが、こうして穏やかに過去を語れるようになったのかと感慨深い気持ちになった。僕も大人になったらしい。 「正直、いったいどんな話が出てくるんだろうって、だいぶ身構えてたんだよな」 「ふふ、どんな話を想像してたんです?」 「それは……いや、聞かないでくれ。あまりにも邪推がすぎる」 「ええ? なんだろう、気になるなぁ」 「いやほんと、まじでやめてくれ」  眉を下げて苦笑しながら、大城さんはタブレットで新しい飲み物を頼んでくれた。  一体どんな想像をしていたのか途方もなく気になるところだが、本当に聞いてほしくなさそうなのでやめておくことにした。

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