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第4話
ぐるーり、首を回す勢いで部屋を見渡し、久世の方を向く。フクロウかオマエはと思いながら、久世はそんな神を眺めた。
「何だよ」
「え?TVとか」
「え?下にあるじゃない」
「いや、自分専用」
「は?なんで?そんなのいらないだろ?それに俺、TVとか見ないし」
「じゃあ、ゲーム機とか」
「PCがあるだろ」
「いや、PCはゲーム機じゃないだろ?」
「だって、タブレットもあるし。それにゲームしないし」
「え?じゃあ、家で何してんの?」
「デッサンしてるけど?」
それのどこが悪いの?という顔に、神がははっと笑う。何だ、普通はどんなんだ?一体、神の部屋はこことどう違うんだ?
友達の家にお邪魔した事のない久世は、想像もつかないそれに蛾眉を顰めた。すると神の床についた捲った袖から伸びた筋の綺麗な腕に、ぐるんと巻き付く毛皮。
久世が”あ…”と思うと同時に、神の身体が跳ねた。
「うわ、猫じゃん。何?何て猫?」
神はパッと明るい顔を見せて、フワフワくりくりの毛のを眺める。チンチラ?スコティッシュ・フォールド?ペルシャ?そんな言葉が矢継ぎ早に投げかけられる。
するすると擦り抜ける身体。後ろ姿は高貴な貴婦人の様。長い毛がフワフワ揺れる。
「ただの雑種だよ、モロ」
「あ、スケッチブックに描いてた猫だ」
瞬間、大槻に両断されたモロの絵が浮かんで、ぐっと歯を噛み締めた。
「ちちち、おーい」
神が呼ぶが、モロは久世の顔をペロンと舐めたり擦り寄ったり。新参者の神に見向きもしない。
「なんだーい、人の腕に尻尾巻き付けといて」
ぶーっと不貞腐れて、用意された布団にごろんと転がる。それを見たモロがその腹にぴょんと飛び乗った。
「うわ!軽い!何これ!俺、どうしたらいいの!?」
「いや、何もしないでいいよ。変に手、出すと逃げるよ?」
うわー、うわーと感動するが、モロはその腹の上にちょこんと座り、神を見下ろしている。突然現れた新参者を観察しているようだ。
ふりふりと尻尾が揺れていて、顔の毛が揺れる。それと同じ様に神の毛がゆらゆら揺れた。
本当に、こうして並べるとモロが2匹みたいだ。それほどに、ふわふわ揺れる毛が似ていた。
「可愛いなー。あったけー。ポカポカ」
「もう11時じゃん。電気、消すぞ」
電気を消して布団に潜り込めば、モロは神の腹から下りて久世の布団に潜り込んできた。
指先で額の辺りや顎を撫でると、ごろごろと雷のような音をさせて喉を鳴らす。隣で神も布団に潜り込む。まだ冷たい布団の中で少し、悶えた。
「お?おお?」
暗闇の中、神の声が響いた。何事かと、暗黒の中で目を凝らすと神が布団でごそごそしている。
「なにしてんの?」
「ちょっと!湯たんぽ!」
「あー。杏が入れたんだろ。俺んとこも入ってる」
足下にホクホクと温かい。それだけで何だか嬉しくなる。
「俺んとこさ、ベッドなんだよね。それに、こういうのないから新鮮」
「そうなの?」
「落ち着くねー、日本人って感じしね?」
知らないよと思いつつ、神と二人で布団を並べて寝るなんて、一体なにがどうなってるんだと思う。
本当に、神と席が近くなってから、不思議がいっぱいだと久世は思った。
「いやー、友達の家に泊まるとかもあんまりないもんなー」
「友達?」
「友達でしょ?」
神に不思議そうに言われたが、久世はそれに答えずに布団を頭まですっぽり被った。モロが、その久世の顔をざらっとした舌で舐めた。
翌日は昨日までの雨が嘘の様に、空は快晴。晴れ渡っていた。だいたい、こんな真冬目前、今年もあと2ヶ月もないときに大雨事態が異常だ。
久世は神と二人で学校までの道のりを歩いていた。朝は4人で食事をとった。杏も雛も神にまた来てね!と何度も言っていたが、久世はそれを冷めた目で見ていた。
また一緒に鍋でも囲むのか?何だか異次元に来た感じがするからやめてほしい。久世はそんな事を欠伸をしながら思っていた。
夕べ、神の言葉になんて答えればいいのか分からず、ただ黙っていた。友達だなんて言われて、卑屈になった自分が居た。
何も知らないくせに。
そんな思いが一気に押し寄せた感じがした。
きっと、神もあの事を知れば、連れだなんて陽気に言えるはずがない。
きっと、気持ちの悪い奴と思うに決まっている。
あの、夏。事件の事がバレて、教室中がまるで汚い物を見るかのような目で久世を見て来た。
久世は、昔、痴漢に遭った。痴漢というよりも変質者。触れられるだけの痴漢被害なんて、実は何度か経験していた。
でも、そうじゃない。変質者。忘れたくても忘れられない、あの夏。茹だるように暑い日。
学校の帰り、いきなり腕を捕まれた。驚いて、声も出せずにそのまま公園のトイレに引き摺り込まれ、身体を弄られた。
はぁはぁと興奮する息が久世の体温を下げ、涙を滲ませた。外では、蝉だけが五月蝿いくらいに鳴いていた。気が遠くなるほどに、長い時間だった。
そして、どこをどうして知られたのか、ある日突然、ホモ、死ねと教科書に落書きされ、下履きには砂や泥が入れられる様になった。
仲の良かった友達は、一斉に久世から離れて行った。そんなことが毎日続くと、さすがに精神的に参った。
そしてそんな時、まるで追い打ちをかけるように、久世に悪戯をしてきた男が捕まったのだ。
その男は悪戯している最中の久世の姿を携帯で撮影していて、その写真で久世の身元も割れ、運の悪い事に家に警官が来たのだ。
家族に知られた瞬間だ。
もちろん、母親である雛は久世を侮蔑することなんてなかったし、哀れみの目で見る事もなかった。杏に至っては、捕まる前に仲間集めてボコれば良かった!なんて物騒なことを言うほどだ。
雛も杏も、それ以上、そのことに触れなかった。
神も上月も、まだこの事を知らない。いや、知っていようがなかろうが、大槻は知っているんだ。二人の耳に入るのも時間の問題かもしれない。
大槻は久世の中学のクラスメイトの幼馴染みとかで、久世の痴漢事件を知ってすぐに声をかけてきた。
『男に痴漢されるのって、どんな気分?』
言われた瞬間は、目の前が真っ暗になったほどだ。イジメは同じ様に行われたが、さすが特別進学校。部活動も加減なく、勉強も容赦がない。
1年は余裕があった連中も、2年で、さぁそろそろ進路をと言われればそんな事をしている余裕がなくなる。
大槻は今、きっと鬱憤が溜まってるんだろうな、だからあんな事をしてくるんだ。
「おい、久世、着いたけど…大丈夫か?」
ポンと肩を叩かれ、現実に戻る。心此処にあらずの状態の久世を神が訝しんだ。
「え?何が?」
「いや、学校まで何も喋らないから」
「いや、なにもない」
久世はそう言うと、下駄箱に向かった。早く冬休みになって、早く春になって、早くクラス替えをすればいい。
早く今のクラスも変わりたいし、早く卒業して今度こそ誰も居ないところに行きたい。久世はそう強く思った。
「えー?なんでーな。ズッコない?お泊まりとか」
教室に入って早々、神が得意げに久世の家に泊まっちゃったー。を第一声にしたものだから、上月は不貞腐れモードだ。
あんな面倒な事、そんなズルいも何もないだろうと思いつつ、久世は二人を眺めた。
「久世のネェちゃんに、装ってもらっちゃた。鍋」
「えー!オマエ、ネェちゃんおるん!?ええなー。俺も神も男兄弟やもんなー」
「お母さんにも、もっと食べてねーとか言われてさー」
「えー、有り得へん!俺だけハミとか!なぁ、久世のねぇちゃん、何ていうの?」
「え?杏…」
「杏ちゃん!!可愛いやんけー!!」
ぐーっと拳を握りしめるが、オマエ、杏を知らないからそんな事言えるんだと久世は嘆息した。
「いやいや、侑太。杏さんは俺らの手に負える人じゃないよ」
「えー、何でやねん!なぁ、いくつ?」
「杏は、あ、二十歳」
「四つ上!!いいねー!年上!!うひょー!!」
「何で、名前なんだ?」
神が不思議そうな顔で久世を見た。そうか、普通は兄弟は名前で呼ばないのか。上が男兄弟なら余計にそうなのかな。
「うちは、昔から」
「逢いたいわー、なぁ!」
「だーかーらー、俺らの、特にオマエには無理。侑太」
神は興奮気味の上月の鼻を指で弾いた。さすが神。よく見ているなぁと久世は感心した。
杏は一筋縄では行かない。何故ならば、昔、やさぐれてたからだ。
それも中途半端なやさぐれなんかじゃない。白の特攻服に鉄パイプ。警察沙汰はしょっちゅうあって、久世 杏の名前だけでみんな腰を抜かす程のワルだった。
その弟の久世は年が離れていたせいで何ら害も利益もなかったが、今ではおっとりしている母の雛もさすがグレた娘を持つと鬼だ。
久世の家では母親対娘の大乱闘で、こっちもしょっちゅう警察が来た。そんなことで久世家は近所では有名だった。
だが、そんな杏が”おい”の一言だけで震え上がるほどに恐ろしかった父親が、心筋梗塞で急死した。杏はその日に真っ赤だった髪を黒く染め、特攻服を庭で燃やした。
「久世、杏さんって彼氏おるん?」
「あ、別れたんじゃないかな。何か浮気されたとかで、彼氏の腕、折っちゃって」
「え?」
不思議な事に、上月はその日から杏の話をしなくなった。
久世達の学校は文化部でも運動部でも、早く帰れる部なんて一つもない。運動部なんて悲惨極まりない練習量だし、練習試合に大会に合宿なんて容赦なく立て続けに入る。
そして文化部はとにかく発表会、展覧会などの何とか会なるものが次々と入る。予定表の書かれたホワイトボードはすぐ真っ黒になり、とりあえず延々、締め切りに追われる生活だ。
両者とも日程は地獄そのもの。そして久世の居る美術部は、その展覧会と発表会が終わったところだった。
「久世ー」
ガラッとドアが開く。その声の主が誰なのか毎日の様に聞く部員は、もう入り口を見向きもしない。
数名の同級生と下級生の女の子が、ひそひそと頬を染めて話すくらい。あとは、もうそんな時間かなんて、合図の様に道具を片付けだしたり。
「はぁ」
名前を呼ばれた張本人の久世は嘆息して、だがその声に見向きもしないで、出来上がったばかりのキャンバスの生地を指で撫でていた。
久世には妙な拘りがあって、キャンバスを木枠から作る。膠引き、地塗りと非常に手間もかかるし時間もかかるのだが、久世ならではの地塗り加減があって、それでないと描けないという偏屈ぶり。
画家は偏屈というのは、ここには少し当てはまる。
「久世、帰ろ」
その言葉に、久世はぐっとなる。これだこれ。何なんだいきなり。そんな感想。
なんてことはない、あのお泊まり事件の日から神は久世を家まで送るという訳の分からない行動に出だしたのだ。
もちろん帰り道が途中まで同じとかではない。それを証拠に、神は久世を送ると元来た道を戻っていくのだ。
家まで来なくていい、途中で別れようと打診した事もあったが、まぁまぁと言いくるめられ今に至る。
そして、ときには家で食事までしていく始末。そんな行動が何週間も続くと、さすがにしんどい。というより、一体、神が何をしたいのかさっぱり理解不能だ。
神だけならまだしも、たまに上月も途中まで一緒だ。アンバランスな3人で電車に乗らない久世に合わせて仲良く徒歩。
本当に居た堪れないのだ。
「上月は?」
「侑太?待つ?」
いや、そうじゃなくて3人で帰るとか、一体、いつから約束になったんだ。久世は落胆の表情を浮かべた。
「お、神。終わったのか」
日丘が腕まくりを直しながらやってきた。それに神は”ちーす”と頭を下げる。
「ね、もう終わり?久世、帰ってもいいでしょ?」
「ああ、今日はもういいぞ」
部員はどっちだと言いたいような会話を傍らで聞きながら、久世は手をタオルで拭った。
薄暗くなった廊下を二人で歩く。たまに上靴がキュッと鳴く。いつもは一人で歩いていたのに、どうしてこんな事になったのか。
「あれってさー」
「え?」
「油絵って、何かの映画で炭みたいなので下絵を描いてたんだけどさ。久世は炭じゃないよね?俺が見たのって、油絵じゃないのかな?」
「いや、油絵。炭って、木炭だろ?色塗りを始めた時に、その色が汚れるから、俺は絵の具を使うけど」
「へぇ、そうなんだ…ん?あれ?あ!ヤベッ!!シューズ忘れた!靴ひも変えたいのに!」
いきなり大きな声を出すものだから、久世は思わず飛び上がった。
「先、行ってて!すぐ追いつく!」
「え…いや…」
今日は別々に帰っていいんじゃないの?という言葉を言う前に、さすが陸上部のエース。あっという間にぴゅーっと走り去る。
一気に見えなくなった後ろ姿に、久世はハーッと大袈裟なため息をついて、下駄箱に向かった。
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