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第5話
はーっと出した息が一気に白く染まる。身に沁みる寒さは、今にも雪が降りそうだ。
久世はマフラーをぐるっと巻くと、門を出た。ふっと学校の方を振り返るが、神の姿はさすがに見えない。
どうしようか考えたが、久世は歩き出す事にした。神の足なら直ぐさま追いつくだろうと思ったからだ。
顔に当たる風が冷たいというよりも痛い。冬だ。そうだ、もうすぐ冬休みだ。ようやくだ。それが終われば3学期が始まり、あっという間に4月になって3年に進級する。
あと1年、たった1年だが、その1年が久世に重く伸し掛る。神や上月がどれだけ久世によくしてくれていても、久世にはそれが重荷にしかならない。
あのことがバレたらどうしよう。そんなどうしようもない不安が、日々、大きな塊となって久世に伸し掛る。
途端、居もしない蝉の声が耳に響いて、久世は思わず耳を軽く叩いた。
ふと、背中を追う足音に気が付いた。神が来たのかと振り返ると、久世の数メートル後方に居たのは見知らぬ人だった。
さすがにそこまで早くないかと、久世はマフラーで口元を覆った。顔が痛い。
街灯がバチバチと嫌な音を立てて点滅する。もうすぐ行けば地下道だ。この道は一番薄暗く、人気もない。女の子ではないので、怖いとかはないが不気味は不気味だ。
久世は無意識に足を速めた。だが、いきなり腕をぐっと掴まれた。神かと思って振り返り、ぎょっとした。
「えっ」
「高校生?」
「え…」
久世よりも少し背の高い男は、にやっと嫌な笑い方をしてみせた。ちらっと後ろを見れば、先ほどの人が居ない。
きっと、この男だ。一気に近付いてきたんだと思うと、急に身体が震えた。
「高校生?ねぇ、ちょっと来て」
ぐいっと引き摺られ、一番街灯の届かない建物と建物の間に連れ込まれる。
「え!!やだ!」
身に覚えのある男の行動に、久世の足はガクガク震えた。男はこんな寒い冬の日だというのに、はぁはぁとおかしな息を漏らす。
コートの下に着ているのはスーツで、サラリーマンだというのが分かった。
「やっ!」
久世が男の手を離そうと暴れると、ばちんと頬を殴られた。それに頭が真っ白になった。
「うるさい!い、いつも男を漁る目で、み、見てただろ!」
「…な」
何を言ってるんだ?久世は愕然とした。いつも?男はいつも久世を見てたのか?逢った事があるのか?
いや、それよりも、男を漁る目で、誰が見てたって?思っていると、いきなり股間を握られ、ぎゃっと声をあげた。
背後に回られ、首に腕を回される。マフラーも鞄も引き摺られた時に途中で落としたのか、なくなっていた。
首に回された腕と反対の手で、身体を弄られ、ぎゅっと目を瞑った。かちかちと歯が鳴る。足に力が入らなくて、そのまま床にガクンと座ってしまいそうだ。
耳元で、男の忙しない呼吸が鼻を突く様な匂いとともに吐き出される。それに吐き気がこみ上げる。
蝉の声が耳の中で大きくなる。そのまま本当に蝉が飛んできそうな、そんな鳴き声。
「ずっと、触りたかった…きょ、今日は、あ、あいつらは居ないんだな」
相変わらず、股間を痛いくらいに揉まれる。そして、突き上げる様に尻に固い物を押し付けられて、久世の目に涙が浮かんだ。
かちゃかちゃとベルトの外される音がする。それに血の気が引いた。
「…っ!!い、いや!!」
「触って、ほしいんだろ?あ?ケツに、入れてほしい、って顔、してたじゃねーか!オマエが、男、誘ってんだ。お、俺が悪いんじゃねぇ!仕方、ねぇから入れてやるんだ!」
そんなの、してない!!叫びたくても、声が出ずに、ほろっと涙が溢れた。今まで、こうして男に身体を弄られていたのは、自分のせいだってことか?
その事に久世は絶望し、涙した。刹那、全身の力が抜けた。
「あ?そ、そうだよ、お、大人しくしてりゃ、い、いいんだ」
男は笑い、久世の下着の中に手を滑らそうとした…。
「おい!!!何してんだ!!!」
響いた大きな声に、久世だけじゃなく後ろの男までもがびくっと身体を震わせた。シルエットで分かった。神だ。
男はどんっと久世を突き飛ばすと、神と反対方向に走り出した。全く力が入らない久世の身体は、地面に転がった。
「久世!!!」
神が久世の元に駆け寄る。どっどっどと心臓が口から飛び出て来そうなほどに大きな鼓動を繰り返していて、はっはっと妙な呼吸を繰り返した。
「畜生、あの野郎!!」
久世の姿に神が怒りに声を上げ、ばっと立ち上がった。その神の腕を慌てて久世が掴んだ。
「ま、待って、神、待って、いいから、待って」
「俺の足なら追いつく!!」
「いやだ!!」
神の腕を掴んだ手がガクガク震えた。ひゅっと喉が鳴って、久世は神を見れずに地面を見ていた。
あんな男捕まえて、それでどうするのか?家に警察が来たときも、久世にとっては拷問以外のなにものでもなかった。
どこを触られて、どんな事をされたのか。それは右手か左手か。無表情で聞いて来る警察の人間を前に、久世は羞恥に震えた。
「お願いだ、頼む」
久世は消え入る様な声で訴えた。神はそれを聞くと、はーっと深呼吸をして久世の手をぽんぽんと叩いた。
「鞄とマフラー、取って来る」
神が言うことに久世は頷いて、神の腕から手を離した。
ふっと下を見るとベルトが外され、ズボンのボタンが外されチャックが開いている。それを慌てて直しながら、久世は唇を噛み締めた。
それから家に着くまで、久世と神は口を利かなかった。神は何だか難しい顔をしていて、久世はそりゃそうだと思った。
男が男に悪戯されているところを目撃してしまったのだ。居心地の良いものではないだろう。
だが、いつかのクラスメイトの様に、汚いものを見る様な目で見られるよりはマシだ。
「龍宮寺、今日は、ここでいい」
もうすぐそこに久世の家の屋根が見えている。久世はそれじゃあと立ち去ろうとした。
「久世!」
「え?」
ぎゅっと手を握られる。神の手も久世の手も、外気の寒さのせいで冷たかった。顔を上げてみれば、神がやたらと真剣な顔をしているものだから驚いた。
「な、なに?」
声が上擦った。さっきの事を言われるのかと戦々恐々してしまう。片目の神経が痙攣した。
「…俺、神音」
「…は?」
知ってるよ、そんな事。というようなことを言われてきょとんとする。
一体、神はどうしたのか。久世は首を傾げた。相変わらず、手はぎゅっと握られていて、久世は蛾眉を顰めた。
「神、って呼んでくれたじゃん。神音って呼んでよ」
「え?」
「こんな傷心に付け入る様な真似したくないけど、でも、俺を、その、頼ってよ」
「…え?」
頼るってどういうことだ?意味が分からなくて、久世は固まった。
「久世を守りたい。俺、その…」
繋いでない方の手でかりかりと頭を掻く神。神らしくない、どこか落ち着かない、テンパってる感じだ。
「・・・久世、好きだ。俺と付き合って」
まるで、谷底に落とされた、そんな瞬間だった。
そこから久世はどうしたか覚えていない、ただ神に何も言わずに手を振り払って脱兎の如くそこを離れたのだ。
神が何か叫んでいたが、何も聞こえなかった。久世はそのまま家に飛び込むと、自分の部屋に駆け込んだ。
母親が慌てて部屋に来たが、しんどいから寝る!と言うと納得してくれた。杏は幸いにも年末商戦だのイベントだので多忙で、家に居なかった。
そして久世は次の日から、学校を休んだ。
携帯のアラームが鳴り響き、モロがにゃーんと鳴いて久世にすり寄る。片目を開けてモロを見て、携帯の待ち受けのカレンダーを見る。
今年はクリスマスが週末。世の中のカップルには過ごしやすい日取りだ。そして今日は修了式だ。いい加減に学校に行かなければと、久世は布団から這い出た。
こんなにも学校に行くのが憂鬱だなんて、いつぶりだろうと思った。マフラーを巻いて、家を出ると太陽の光が目に眩しい。まるで日陰者のような日々を過ごしていたから、当然と言えば当然か。
ふっと顔を上げると、門のところに飛び出た頭が見えた。それに驚いた。
「え?上月?」
「お?出てきよったな。登校拒否児め」
久世の声に振り返った上月は、にかっと笑った。
「上月?なんで」
「まーま、ほれ、行くで」
そう言われると、久世は頷くしかなかった。
リーチの長い上月が、久世に合わせてゆったり歩く。少し、上月が苦手な久世は何を話していいのか分からずに、その足下を見ていた。
「いやいや、神の読み通り、オマエは今日は来るってな。まぁ、その神は、めっちゃヘコんでるけどな」
「…え?」
一瞬、どくんと心臓が跳ねた。
「付き合おうてって言われたんやろ?」
ばっと顔を上げて、上月を見た。好奇の顔で見られてると思ったが、いつもの上月の顔だ。久世はまた、俯いた。
「失敗したって言うとったわ。何か焦ってもうたって。あんな後に言うつもりなかったって」
「あ、あんな」
声が震えた。きっと泣きそうな顔をしている。久世はそう思いながら唇を噛み締めた。
言われたんだ!男に悪戯されかけたこと、言われたんだ!思うと、神へ憎しみが湧いた。
「おい、勘違いすんなよ。俺が無理から聞き出したんやし。大体、オマエかて初めてやないやろ」
「な、に」
「中学の時にも遭うてるやろ」
ひっと顔が歪んだ。ほろっと涙が溢れて、それを慌てて拭った。その場に座りそうになって、立ち止まる。ぐるぐると地面が回ってるみたいで、ふっと声が漏れた。
それを見た上月は、そんな久世の腕を引っ張って、その横の公園に連れて行くとベンチに座らせた。がこんと派手な音がする。その後すぐに上月がぬっとお茶を差し出して来た。
「泣かすつもりあらへんかったのにな」
上月はどかっと久世の隣に座ると、ちぇっと舌打ちした。自分のデリカシーのなさへの苛立ちだった。
「大槻ってあほやからな。その、運動部の人間で、オマエの…そのー、昔のこと知ってる奴もおる。まぁ、それで何かしら言うようなんは大槻だけやけどな」
「そ、そんな」
みんな知っているのかと、久世は手の中の温かいペットボトルを握りしめた。
「まさか、神も」
「知っとる」
がーんと金槌で頭をフルスイングされた気分。知ってたんだ、知ってたんだ!!それだけが頭を支配して、久世はやはり泣いた。
「神ってみんなに好かれて、みんなに平等で、みんなに優しいやろ」
久世は何も言わなかった。ただ、上月の言う事は当たっていたから。明るくて、優しくて。みんなに平等なまさに神。
「神なー、ホモっていうたら怒られるんやった。あー、ゲイなんやで」
「え!?」
ばっと顔を上げて、上月を見た。嘘付け!女の子と帰ってるのを見た事あるぞ!
目元を真っ赤にして、納得いかない顔の久世に上月はゲラゲラ笑った。
「だって、ほんまやもん。それで一時、卑屈んなってなー。病気かもしらへんって。同じ男に欲情してまう自分がどっかおかしい。でも女に勃たん。でも、普通は違う。まぁ、荒れてくれたわー」
「か、神が?」
「そう、あの神が。あいつ、男ばっかの4人兄弟の末っ子なんやけど、毎日大乱闘の大喧嘩。まるで腫れ物。親父が仕事で家におらんもんやから、めちゃくちゃよ。で、外でも喧嘩。そんな時に俺の家に放り込まれてん」
「え?な、なんで上月の…?」
「ああ、俺と神って親戚やねん。で、俺の兄貴はそっちの人間」
「そ、そっち?」
「ゲイよ、ゲイ」
あっ!という顔をして、久世は思わず謝った。
「まー、俺の兄貴に説教くらってー。何か話して、神は生まれ変わりました。他人の悪口とか、そういうの一切許さんし、言うてしまえばゲイやからとかで虐めるとか言語道断ってやつやな。ちょっとでも、あいつってなんかホモっぽくないなんて言おうもんなら、えらいこっちゃで」
信じられない、神が?あの神が?それが久世の感想。荒れていたなんていうのはどうでもいい。杏の荒れように比べれば、他の家での家庭内のいざこざなんて可愛いものだろう。
だが、神の趣向には納得がいかない。神の恋愛対象が男?
「神のこと、嫌いなん?」
「き、嫌いとか」
そんなんじゃなく、ただ、信じられない。久世は掌で少し温くなったペットボトルを弄んだ。
「身内としてはな-、応援したいねん。神。ほんまにええ奴やし」
いい奴だなんてことは分かっている。そんなこと、誰もが知っている。でも、もしかしたら神の勘違いかもしれない。
こないだの男が言った。”いつも男を漁る目で見て”と。久世はそういう目をしていたのかもしれない。自分でも気が付かない間に、そういう、目を…?
「初め、俺は久世に関わんなって言うてん。お前の昔のこともあるし、大槻みたいなややこしい人間に目ぇつけられてる。そのせいで神の、そういう性癖がバレてややこしなったらって思うたから」
はーっと上月は息を吐いて、足下の小石を拾って前の林に投げた。
「でも、神はオマエにどんどん惹かれていってんねんもん。恋は盲目っていうけど、あいつ失明やもんな。まさか告るとか思わんかったわ」
「でも…」
「俺がこんなん言うのんもあれやけど、オマエって昔に拘りすぎて邪魔臭い」
「じゃ、邪魔臭い」
突っ慳貪に言われて、ぎょっとなる。言うに事を欠いて、邪魔臭いはないだろう。確かに、邪魔臭い性格だけど…。
「だって、昔あんなんされたいうけど、それってオマエがしてほしいって頼んだわけやないんや。そりゃ、男にそないなことされたら、プライド、ズタボロかもしらんけどな。でも、それでオマエが俺なんてみたいなんになるから、大槻にも付け入れられんねん。オマエのその邪魔臭い考えで神を否定すんなよ」
すぱっと言われて、うっとなる。まるで杏に言われているのかと思うくらいに、ストレートで真っ直ぐな上月に久世は思わず笑った。
「はぁ!?なんで笑う」
「ごめん、なんか、杏そっくり」
ははっと笑って、何だか憑き物が落ちたみたいにすっきりした。卑屈で昔に拘り過ぎの暗い奴。かいつまんで言えばそんな久世。
それを怒りもせず共感してしまうあたり、とどのつまり、自分でも自覚があるという事だ。
「あ、やべ。遅刻するで。行くで!」
上月に言われて、久世は頷いた。その胸の中は、どこか晴れやかだった。
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